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契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 花の色が毎朝違う理由について

辺境というから、てっきり荒野だと思っていた。


岩と風と、痩せた馬と、無口な番兵。そんなものを想像して馬車に揺られ続けて、目が覚めたら窓の外には麦畑が広がっていた。豊かな麦畑だ。風を受けて緑がうねっている。


隣で護衛騎士が静かに笑った。


「奥様、ラインハルト領は穀倉地帯ですよ。北方騎士団の胃袋はここが支えております」


──知らなかった。


私の持っていた「辺境」のイメージが、そもそも全部はずれだったらしい。


辺境伯邸の門をくぐったとき、まず目についたのは噴水ではなく、よく整えられた菜園だった。次に、質素だが掃き清められた石畳。使用人たちは派手な制服を着ていない。みな、動きやすそうな、しかし丁寧にアイロンのかかった服だ。


(無駄がない。でも冷たくない。いい屋敷だ)


前世でなら、視察先を評価するときに口には出さない種類の感想だ。


「よくぞお越しくださいました、奥様」


白髪の執事が、深く頭を下げた。


「執事のヨハンと申します。以後、お世話をさせていただきます」


「エリーゼです。よろしくお願いします」


ヨハンは目を細めた。それは「令嬢然としていない挨拶」に対する、ほんの少しの驚きと、好意的な反応だったように思う。


ラインハルト卿は──ギルベルト様は、門の内側に立っていた。軍服ではなく、簡素な襟付きのシャツに、黒い外套。王宮で見たときより、肩の線が心なしか柔らかい気がする。


「長旅、お疲れでしょう。ゆっくり休んでください」


それだけ言って、彼は片手を軽く胸に当てた。


灰色の瞳は、また、まっすぐ私を見ていた。ほんの一呼吸だけれど。


(……なんだろう、この人の挨拶。短いのに、ちゃんと届く)


私も頭を下げた。


「お世話になります」



翌朝、食堂へ案内されて──足が止まった。


テーブルの中央に、薄桃色の芍薬が大ぶりに生けてある。


花瓶は銀でもガラスでもなく、素焼きの、ごく質素なものだった。けれど芍薬の方が主役だとわかる置き方だった。花弁のふちにまだ朝露が残っている。切りたて。


「……わあ」


思わず声が漏れた。


ギルベルト様は、すでに席についていた。私の足音に顔を上げる。


「おはようございます」


「おはようございます。……あの、これ」


「ご不快でしたか」


「いえ、いえ、とんでもなく嬉しいんですけれど」


私は動転して、多分、令嬢にあるまじきテンションで手をぱたぱたさせた。やめなさい私。落ち着きなさい私。


「ただ、毎朝これは、贅沢すぎるのではと」


「領地の庭で切ったものです。経費には含めていません」


「そう、ですか」


そう言われてしまうと、返す言葉がない。


席について、私は朝食に手をつけた。パンは外側が香ばしく焼かれ、中がふわりと柔らかい。卵は黄身が濃い。バターは甘い。領地の産物だとヨハンが静かに教えてくれた。


ギルベルト様は朝食の間、ほとんど口を開かなかった。ただ、私のパンのバスケットが空になりかけたとき、さりげなく手を伸ばして追加を寄せてくれた。無言のまま。


(これ、見慣れた動作だ。食卓で誰かに気を配るのに慣れてる人の動き)


そう気づいて、なぜか少しだけ胸の奥があたたかくなった。



朝食のあと、私はヨハンに「書斎を拝借したい」と申し出た。


「家政に口を出してはいけない理由は、ないでしょうか」


「むしろ、お願い申し上げたいほどで」


ヨハンは恭しくそう言って、分厚い帳簿の束を応接室に運んできた。


──開いて、私は無言になった。


(なんだこれ)


在庫台帳と発注台帳がひとつに混ざっている。保存食の残量に、賞味期限の記録がない。購入先の名前だけがあって、単価と数量がばらばらの欄に書かれている。ある月の塩の発注量が、その月の消費量のゆうに倍ほどある。


前世の私なら、これを見た瞬間、経理担当を呼びつけて会議室に閉じ込めているところだ。


今世の私はひとつ深呼吸して、ヨハンに尋ねた。


「これ、どなたが記帳されているか、伺っても?」


「経理係のマルクスと申します。先代様の頃から仕えております」


「お人柄は」


ヨハンはほんの一瞬、視線を落とした。


「……誠実ではあります。誠実であることと、数字に強いことは、別でございますが」


なるほど。


私は羽根ペンを借り、白紙を広げて、まず帳簿を二分した。入ってくるもの。出ていくもの。それだけ。次に、品目ごとに色の違うしるしをつけた。塩は赤。小麦は青。保存肉は緑。


半日ほどやれば、おおよその流れが見えるはずだ。


──実際には、もう少し早かった。


塩の発注が不自然に多い月の請求書に、同じ商人の名前が繰り返し出てきた。その商人は近隣の村に住んでおらず、遠方の港町の名前が書かれていた。辺境伯領には塩田もあるはずなのに。


しるしをつけた紙をヨハンに見せると、彼の白い眉がゆっくりと上がった。


「……これは、お恥ずかしい限りです」


「マルクスさんに、お会いできますか」


ヨハンが人を呼びに行ったあと、私は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。


(……社畜スキルって、異世界でも通用するんだなあ)


前世の上司に見せたい、ではなく、前世の自分に見せたい気分だった。お前、ちゃんと仕事を覚えてたよ、と。



マルクスは痩せた中年の男だった。


帳簿の前に座らされ、私の指した数字をひとつひとつ確認させられて、彼の額にはじっとり汗が浮いた。私は怒鳴らなかった。怒鳴る必要がなかった。数字は、数字そのものがいちばん雄弁だ。


「……申し訳、ございません」


マルクスは、膝の上で拳を震わせた。


「辞職願を、出させていただきたく存じます」


「ご自身の判断で?」


「はい」


「では、引き継ぎの資料だけお願いします。後任が困らないよう」


「……かしこまりました」


彼は深く頭を下げて、書斎を去った。


ヨハンが目を閉じ、ふう、と小さく息を吐く。


「奥様。お見事でございました」


「見事というほどのことでは」


「怒鳴らずに、非を自ら認めさせられる方は、珍しゅうございます」


そうだろうか。怒鳴っても、人は変わらない。前世で嫌というほど学んだことだ。



午後、書斎の窓を開けた。


風が入ってきて、芍薬の香りが机の上の紙を揺らす──と思って気づいた。この部屋にも花瓶があった。食堂とは違う、小さな卓の上に、同じ芍薬。こちらは濃い紅。


誰が飾ったのだろう。


聞けば教えてくれる気もしたし、聞かないでおきたい気もした。


窓の下、訓練場では、ギルベルト様が騎士団長らしき壮年の男と剣を合わせていた。騎士団長は笑っている。ギルベルト様は怒ってはいないけれど、明らかに、何かを言われてむっとしている。子供のように口をへの字にして剣を振るっている。


(……ああ、あの人、ちゃんと表情が動く人なんだ)


王宮で見たときは、どこか彫像のように整っているだけに見えた。ここではちがう。ここには、彼の空気があるのだ。


訓練のあと、騎士団長が私の方を指さして、何事かを言った。ギルベルト様は、木刀の柄で容赦なく相手の横腹を打ち込んだ。騎士団長はうめいて膝をつき、それでもげらげら笑っている。


私は慌てて窓から一歩退いた。覗いていたと思われたくない。


──思われていた気がする。



夕方、アンナが部屋にやってきた。


私の長年の侍女で、王都から一緒に連れてきた、唯一の身内のような人だ。


「奥様、今日もお疲れさまでした」


「アンナも荷解き大変だったでしょう。ありがとう」


アンナは食堂の花を下げて、私の部屋の卓に移し替えてくれていた。薄桃色の芍薬が、夕日に照らされて静かに色を深くしていく。


「ねえ、アンナ」


「はい」


「これ、毎朝違うのよね。今朝も、昨日も、一昨日も」


「はい、存じ上げております」


アンナは花瓶を少し回して、芍薬の向きを整えた。そして、何気ない声で言った。


「……お気づきですか、奥様。今朝の薄桃も、昨日の白も、一昨日の濃紅も、全部、四月の花でございますよ」


私は、手にしていた羽根ペンを机に落とした。


四月。


私の生まれ月だ。


「……アンナ」


「はい」


「気のせいよね」


「そう、かもしれませんね」


アンナは、にこりともせずに、花瓶の位置を窓辺に直した。そして、出ていく前に扉のところでひとこと。


「奥様。私、長いことお仕えしておりますけれど、偶然というのは、そう何度も重ならないものでございます」


扉が、静かに閉まる。


残された私は、芍薬を見つめたまま、ずいぶん長いあいだ動けなかった。


窓の外では、訓練場を離れたギルベルト様が、騎士団長に何か強めに言い聞かせていた。風に乗って、言葉の断片だけが切れぎれに届いた。


「──だから、言うな、と」


何を言うなと言っているのか、私には聞こえなかった。

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