第1話 婚約破棄と、その夜の契約
「婚約破棄だ、エリーゼ!」
水晶灯の光が、一瞬ぶれた気がした。
春の王宮舞踏会。華やかなワルツが止まり、大広間の視線が、いっせいに私に突き刺さる。
クラウディオ殿下は、隣に立つ薄紅のドレスの少女の肩を抱きながら、勝ち誇った声で続けた。
「私が愛しているのはソフィア嬢だ。聖女として、彼女を王太子妃に迎える。お前のような冷たい令嬢とは、これまでだ」
冷たい令嬢。
──ああ、そうだ。私はずっと、そう呼ばれてきた。
この人のために、どれだけ勉強してきたか。魔導具改革の案を書き、救貧院の運営を整え、王都の茶会を回した。その全部が、今、この人の口から「冷たい」の一言で片付けられる。
……なんで。
そう思った瞬間、頭の中で何かがぱちんと弾けた。
◇
映像が、雪崩のように流れ込んでくる。
満員電車。深夜のオフィス。コンビニのおにぎり。送信できなかった辞表。倒れる直前に見た蛍光灯の眩しさ。
「あーっ、そうだった……私、死んだんだった」
声に出していた。この大広間の、誰もが聞こえる場所で。
クラウディオ殿下が「は?」と眉をひそめる。ソフィア嬢の笑みがぴくりとこわばる。
(……いや待って。整理させて)
前世の私は、広告代理店勤務。徹夜続きのある朝、会議室で倒れてそのまま逝った。目を覚ましたらエリーゼ・フォン・シュタイナーで、今では婚約破棄を食らった真っ最中、と。
胸の奥にずっとあった違和感の正体が、ようやく繋がった。
なぜ私が幼少期から契約書を読みたがったのか。なぜ帳簿の数字を数式で解きたがったのか。なぜこの人を愛せなかったのか。
答えは一つ。私、社畜だったから。
「エリーゼ! 返事をしろ!」
殿下の苛立った声が、思考を断ち切る。私はドレスの裾を軽く持ち上げ、きれいな礼をした。前世でクライアントに頭を下げた回数で言えば、これくらいの所作は朝飯前だ。
「承りました、殿下」
にっこり、と微笑む。
「つきましては、違約金五万ゼルを二十四時間以内にお支払いいただけますでしょうか」
「──何?」
「王国婚姻法第十二条。貴族同士の婚約破棄において、破棄を申し出た側は、持参金の一割、または五万ゼルのいずれか高い方を、二十四時間以内に支払う義務がございます。不履行の場合、破棄は無効となります」
会場の空気が、ゆっくりと凍っていく。
老侯爵のひとりが、扇の陰で何か呟いた。「王太子殿下は、婚姻法もお読みでないのか」──聞こえよがしに。
殿下の顔から血の気が引く。ソフィア嬢が「クラウディオ様?」と袖を引くが、殿下は答えられない。答えられるはずがない。彼は執務書類の決裁印を自分で押したこともない人だ。
「……父上と、相談する」
それだけを絞り出して、殿下はソフィア嬢を連れて足早に去っていった。
大広間の視線が、今度は違う熱を帯びて私に集まる。あの冷たい令嬢が、五万ゼルの条文を即答した、と。
(社畜ナメないでよね。契約書は私の主食だったんだから)
ドレスの下で、そっと舌を出した。
◇
「──見事でした、エリーゼ嬢」
低い声が、背後から降ってきた。
振り向くと、黒い軍服の男性が立っている。身長が高い。肩幅がある。そして、灰色の瞳が、不自然なほどまっすぐ私を見ていた。
「ラインハルト辺境伯」
口をついて出たのは、社交界で見たことがある名前だった。北方国境を守る、若き辺境伯。王都には滅多に顔を出さない人だと聞いていたのに。
「ギルベルト・フォン・ラインハルトです」
彼は胸に手を当て、短く名乗った。そして、上着の内ポケットから、折り畳まれた書類を取り出す。
「不躾を承知で、お願いがあります。私と、契約結婚を」
「……契約、結婚」
復唱する私の声は、我ながら間抜けだった。
ラインハルト卿は書類を開き、テーブルに置く。羊皮紙の上に、几帳面な筆跡で条項が並んでいる。
「条件は、家の体裁を整えていただくこと。それだけです。辺境伯家の夫人として、必要最低限の社交と、領地での監督。それで結構です」
「それだけ、ですか」
「ええ」
私は条項に目を走らせた。夜伽義務。嫡子を儲ける義務。貞操義務──いや待って。
夜伽義務の項目に、きれいな横線が引かれている。
削除されている。
こちらに渡す前から。この人の手で。
「……あの」
「はい」
「この、削除された条項について、お伺いしても?」
ラインハルト卿の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「不要と判断しました」
それだけだった。灰色の瞳は、嘘を言っているようには見えなかった。
(不要、って。なんで。契約結婚で普通一番問題になるところでしょ、ここ。この人、本当に"体裁だけ"で私に頼んでるの?)
まあ、詮索するのは後だ。前世の私なら、この契約の隅から隅まで読んで判子を押す前に弁護士に回すところだが、今夜は舞踏会場の隅で、婚約破棄された令嬢の身。選択肢は多くない。
私は羽根ペンを取った。
「署名させていただきます」
「感謝します」
彼はそれ以上何も言わず、署名を終えた契約書を受け取り、丁寧に折り畳んだ。
◇
控え室に戻ってから、手元の控え──私用の写しを、もう一度開いた。
見落としがないか確認する職業病だ。
そして、表紙をめくった瞬間、息が止まった。
羊皮紙の、一番上。
条項の始まる前の、余白のところに、直筆で一行だけ書き加えられている。
『生涯、尊重する。』
署名も、日付もない。ただ、それだけ。
……何、これ。
契約の定型句だろうか。そうであってほしい。そうでなかったら、私、今夜から何を信じて生きていけばいいのかわからない。
窓の外で、深夜の鐘が、鳴った。
辺境への出発は、明後日。
私はその一行を、何度も何度も読み返した。
読み返しても、意味は変わらなかった。




