節刻みの舞踏会②
一時間ほどの立食パーティーで用意されていた食事は、のちに本番である舞踏の時間が控えていることもあって、食べやすいサイズのカナッペや小さな皿に盛られた肉やサラダ、チーズなどのオードブルが多かった。
離れた一角には大皿に盛られたマカロンや背丈より高く積まれたクロカンブッシュなどまであって、テーブル席に座って語らう男女の姿もたくさん見られる。
「こらこら、あまり食べ過ぎるな。後に舞踏が控えてるんだぞ」
「だって……だって……、こんな料理たちを前にして指を咥えて見ているなんて拷問ですよ!」
セシリーはお腹を大きく圧迫されているにもかかわらず、豪華な食事についつい手を出し途中でリュアンに止められてしまう。
濃厚でまろやかな海鮮入りホワイトソースが中に入ったパイとか、果実そのままの味わいを感じさせるようなシャーベットとか……こんなことで無ければ倒れる位お腹に詰め込みたい一品ばかりを目にしたセシリーが誘惑を断ち切るのは中々至難の業で、かなりの精神力を要した。
そんなところに一組の男女が歩み寄って来る。
「おや、そこにいらっしゃるのはセシリー嬢では?」
「……ジョンさん、お久しぶりです!」
男性の方は面識があり、品よく微笑む隣の女性は奥方だろうか。セシリーは慌ててリュアンに説明した。
「こちら、ジョン・オーランドさんです。ええと、ラケルの魔法のお師匠様で、王都で魔道具やお薬を販売してらっしゃるんです」
「ああ、話には伺っている。ジョン殿、お初にお目にかかります。私は魔法騎士団団長、リュアン・ヴェルナーという者です」
「これはこれはご丁寧に。私はジョン・オーランドと言いまして、こちらは私の妻ジェニーです。一応伯爵家の生まれではありますが、しがない次男坊で爵位も持たぬ一介の魔法使いですから、このような似つかわしくない場では正直どうしてよいかわかりませんでな。こうしてお付き合いをいただいているお知り合いの方々にご挨拶して回っているというわけです」
普段はあまり出席する機会は無いようなのだが、奥方の年齢が節目を迎えたお祝いに一度訪れてみたのだそうだ。礼服に身を包んだ彼の魔法使い然とした長髪は丁寧に整えられ今は後ろで一つ括られている。
「私も知り合いの方にお会いできて嬉しいです。あの……先日頂いた魔法の飴が凄く役に立って。ありがとうございました」
何の事かわからないというように首を傾げるジョンに、セシリーはお土産に持たせてくれた飴玉が、ルバート救出の際に役に立ったことを明かす。
「ぜひうちでも取り扱ってみたいのですけど……でもその、販売するにはお味だけもう少しどうにかできないかな~と思いまして」
セシリーが言った言葉に彼は大きく破顔することとなった。身体をくの字に折り、目の端に涙まで浮かべている。
「わーっはっは、そうですか! 試作品でろくに調整もしていないし不味かったでしょう。実はあれね、元は幼かったラケルが悪戯した時の仕置き用に開発したものだったのですよ。あの小僧め、昔っから注意散漫で瓶は割るし、鍋は焦がすし、配達に行けば帰って来ないし、とんだ悪ガキでしてなぁ……。まあでも、そういうことなら、少し考えてみますか……」
ジョンはラケルがいないことに、幼い頃の彼の情けない話を明かそうとして夫人に窘められた後、少し言いづらそうに目線を落としてリュアンに問いかける。
「ラケルは……最近どうしていますか? 少し前からあまり顔を見せなくなりまして。どうも忙しい様子で、元弟子だからと言ってあまり構い過ぎるのもどうかと、あまりこちらからは顔を見せないようにしているのですが」
つい数日前謹慎であったことなど言えるはずもなく、リュアンは少し間を置くと微笑んで答える。
「大丈夫ですよ。彼は若手の中でも期待の星で、自分の仕事をきっちりこなしてくれて、俺たちもよく助けられていますから。な、セシリー?」
「ええ……この間私、結構大変な目に遭ったんですけど……その時もラケルは仕事も何もかもほっぽりだして隣の国まで駆けつけてくれたんです、この人と一緒に。彼みたいな友達、望んで手に入るわけじゃないから……大切にしたいです」
ジョンはセシリーたちの姿を見て、少し軽いため息を吐いた後、何度も頷いた。
「そうですな……ラケルとこれからも仲良くしてやってください。あやつは……人が好きで、自分の魔法を突き詰めることではなく、誰かのために力を尽くすことを望んだ。私は師として……違う道を進んだあやつに教えてやれることもう多くなく、苦しみも分かってやれない。しかし、あなたたちが導いてくれるならば、きっと正しき道を進んで行けるでしょう」
「……はい」
目の前の人に苦しむラケルの現状を伝えられたらどれだけいいだろうか。だがおそらくラケル自身はそれを望むまい……そんな事を思うと、セシリーはどうしてもあの出来事を口には出せず、せめて心配を掛けるまいと作り笑顔を浮かべた。
その後オーランドはジェニー夫人と共に去ってゆき、セシリーはリュアンに頭を軽く小突かれる。
「いたっ」
「おい、その変な笑顔やめろって言っただろ。不自然なんだよ……ラケルと何かあったのか?」
「……なんでもないです」
これは自分とラケルの間だけでしっかり話し合って決着をつけなければいけないことだから……と、セシリーは首を振り、天井を見上げて深く空気を吸い込んだ。
キラキラした巨大なシャンデリアの光が目に入り、あらためて舞踏会の会場に来ているのだと認識させる。今日だけは……しっかり役目を果たそう、隣にいる彼のためにも。そう決め込んで、強引に話を逸らしながらセシリーはリュアンの手を取った。
「さあ、まだまだたくさんの人にご挨拶しないといけないんでしょう? 行きましょうよ、終わったころにはきっとまたお腹も空いてるはずですから!」
「お前、立食パーティーかなにかと勘違いしてるんじゃないだろうな、ったく……わかったよ。でも……話せることがあったら話せよ?」
「ええ……大丈夫です」
キースから幾人かの列席者との接触を言づけられているリュアンは、苦笑しつつもセシリーを連れ、目当ての人物を探しまたホールを彷徨い始めた。
もしここが男女同伴での参加で無かったら、きっと瞬く間にリュアンは大勢の婦女子に取り囲まれ、身動きが取れなくなっていたであろう。
(リュアン様、笑顔止めたほうがいいです。恋人たち、特に女性にとって刺激が強すぎます……後で絶対恨まれますよ)
(いやいや……魔法騎士団の後ろ盾を頼みに行ってるのに、そういうわけにもいかんだろ。悪印象を与えるわけにはいかんのだ……)
(そこをうまくやるのが団長の務めでしょう!? あれ見て下さいよ!)
セシリーは控えめにいくつかのテーブルを指さす。彼と会話した後、連れられていた女性の方がリュアンに釘付けになって放心したせいで、仲が険悪になる男女の姿があちこちに散見される。セシリーは隣で見ていて本当に胃が痛んだ。
(下手したら出禁にされるかも知れませんよ? これだと……。王宮時代にこういう対応とか学ばなかったんですか?)
(だから本ばっかり読んでたし、髪を伸ばして顔を隠していたからさぁ……。くそっ、キースはどうやってたんだ……)
目立たないよう壁際でこそこそと話していたふたりなのだが、そうしている今も……いくつかの視線が貫くようにこちらを照射しているのは勘違いではないのだろう。いたたまれない気持ちでセシリーが肩をすくめていた時、室内の照明の光度が大きく落ちた。
「もうこんな時間か……ま、今回の宣伝はこれで終わりだな」
リュアンは肩を回して言う。彼の言う通り、ここからは舞踏会の時間となるのだろう。開会の時と同じように王太子たちが奥のスペースの中央で、口上を告げる。
「皆様、お待たせいたしました……それではこれより、節刻みの舞踏を執り行います! ですが、皆様に奮ってご参加いただくために……最初の一曲は特別な参加者の方に踊っていただくことにいたしましょう!」
(へぇ……お手本にさせてもらいましょう、リュアン様)
(ああ、だが……)
何か引っかかるというようにリュアンが眉を顰め、誰だ誰だと会場がざわめく中……魔道灯の強い光が暗闇の中、ふたりの姿を丸く浮かばせる。そして……。
「ファーリスデル魔法騎士団団長、リュアン・ヴェルナー殿! そして王都に飛ぶ鳥勢いで進出した新興商会・クライスベル商会の御令嬢、セシリー・クライスベル嬢です!」
「「はああああぁぁぁぁっ!?」」
「さあさあ、おふたりとも是非とも……練習の成果を御披露くださいませ」
さすがにこれは予想外のサプライズである。塞がらない開いた口をぱくぱくさせているふたりをおかしそうに見ながら、フレア嬢が手振りで舞踏会場の方に招く。
「ほう、彼があの有名な……中々風格がある男だな」
「浮世離れした雰囲気が素敵じゃない……」
「令嬢の方も、中々美しいじゃないか。線は細いが若々しく明るい表情で冷静そうな彼と似合っている」
「ふうん、クライスベル商会ねえ……私たちのお眼鏡に適うものが置いてあるか見物だけど、今度顔を出して見てあげてもいいかもしれないわね」
(これは……断るのは無理そうだな)(ええ……)
宣伝にはなっているが、それ以上にふたりの動揺は凄まじい。
万雷の拍手に追い詰められ、それに押し出されるようにセシリーたちは、ライトアップされた舞踏会場に足を踏み入れる。中央にいる王太子たちを無言で睨みつけるが、彼らは軽くウインクし手を挙げると演奏の開始を合図してしまった。
「それでは皆様、若きふたりの艶やかな姿で会場を大いに盛り上げていただくとしましょう!」
(頑張ってちょうだいね、セシリー)
(こ、こういうのって本来あなた方の役目じゃないんですかっ!? ちょっと――!)
軽くこちらの肩を叩き王太子と共に退いたフレアに恨めしい眼差しを送った後、取り残されたセシリーはもう目の前のリュアンと向き合うしかない。後数小節も待たずに、ステップは開始される。
リュアンが両腕を腰にやると、地面に向かって憂鬱そうに息を吐く。
「まさか、こんなことになるとはな。どうせキースの差し金だろ」
「フレア様の悪ふざけも混ざってるような気がしますけどね。でも私、覚悟を決めました。こうなってしまったら楽しむしかないですよ、ね?」
それでも、セシリーはリュアンに笑いかけることができた。こんな状況だって、大したことじゃない。少しだけそんな風に思えるようになったのは、彼らと過ごしたこの数か月があったから。傍に皆が……この人がいてくれたから、どんな大変なこともセシリーの糧になっていったのだ。
「お前……強くなったんだな」
セシリーを眩しそうな目で見た後リュアンは、肩の力を抜いた表情で、悔しそうに笑う。そしていきなり、彼女が手を差し出すのを待たず、自分から彼女を抱き寄せた。その情熱的な仕草に、会場から黄色い声が飛ぶ。
「きゃあっ、リュアン様!?」
「でもな、お前だけを先に行かすわけにはいかないんだよ、男としてはな。ああ……踊ってくれるかなんてもう聞かないさ。今決めた」
柔らかく流れる前奏の最後の一音をピアノがつま弾いた時、セシリーに体を密着させ、少し被さるように彼女を見下ろした状態で、リュアンははっきりと告げた。
「俺のパートナーはお前だけだ。いいな?」
「……はい」
「……よし! 踊るぞ!」
さして意識せず答えが出てしまった……そんな自分にセシリーは驚いていたけれど、間を置かず前奏が流れ始め、リュアンが彼女の体を引く。
一緒に練習したのはごくわずかな期間だけれど、きっとそれ以外の時間でも彼はどこかで練習を積んでいたのだろう。軽やかにステップを踏む姿は、見違えるように様になっていた。
なによりも、見たことの無いような嬉しそうな顔でこちらを見ていて……セシリーは温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。それが胸に抱えていたもやもやをどんどん溶かしていって……体が軽い、熱い。
繋がる手をぎゅっと握ると、彼もそれに応じるように柔らかく握り返してくれる。それが、信じられないくらい、心地よくて……。
ずっと、こんな素敵な人に自分なんて似合うはずがない……。いつか絶対彼の隣に、ふさわしい誰かが現われて離れなければいけない時が来る。心のどこかでそう諦めていた。
だから、誰かに妬まれたって平気で彼の傍に居られた……こんなちっぽけで、卑屈な自分であっても。でも……そんなセシリーを彼は選んでくれた。
今なら、ラケルの気持ちがわかる気がする……。どうしてもこの人じゃないと駄目なのだ。容姿とか、肩書とか性格とか、そういうのももちろんあるけれど……でもそれ以上に、セシリーはリュアンという存在がどうしようもなく好きなのだ。
冷静そうに見えて後先考えず無茶するところも……なんにでも一生懸命取り組む几帳面なところも……仲良くなって見せてくれたどきっとするくらい格好いい横顔も……全部。
ずっと彼を目で追いたい。これからも新たな経験をして、色々な表情を見せてくれるはずの彼のことを、ずっと隣で見ていたい。
セシリーは、自分にとってきっとこれが……恋で、愛なんだと思った。夢のように愛しくて、切ない時間。終わらないでと心底願うくらい、大切な一時。
こんなに楽しいのに、嬉しいのに……。ずっと遠ざけてきたのはきっと、一度始まってしまえば必ず最後が訪れる……そのことを怖れていたからではないだろうか。
初めの円舞曲が終盤にさしかかり、ゆっくりと一音一音がペースを落としていく中、セシリーはずっとそれを願っていた……終わらないでと、それだけを。
けれど、緩やかに曲は締めくくられ……少し表情に違和感の滲んだリュアンがこちらを気にする中、セシリーは共に中央で優雅に膝を折る。
しんとした静寂……そして、温かい拍手がふたりに注がれた。賞賛と感動の声を方々から受けながら、笑顔で手を振りつつも、ふたりは会場から参列者たちを見渡せる一番後ろの壁へと移動する。
「「おふたりとも、ありがとうございました! 素晴らしい舞踏に会場が大きく温まったことと思います! では皆様方、これより存分に一夜の夢を楽しんで下さいませ!」」
王太子たちの言葉に会場が湧き、我も我もと列席者が踊り始める中、手を繋いだまま自分の身体でセシリーの姿を隠すと、リュアンは静かに彼女に語りかける。視界の端の通路で、見知った人物の影が消えたが、今それをセシリーは感知できる状態では無かった。
「どうして……泣いてるんだ?」
「リュアン様……私、これで終わりにしようと思います。明日から、もう騎士団には行きません」
セシリーは涙を拭いながら笑い、リュアンは片目を細めた。
「何を言ってる」
「だって、そうでしょう? ガレイタムの第二王子様が……私みたいなのを相手にしてちゃいけない。これからキースさんたちともっと団を大きくして、正騎士団も追い越して、皆を守るためにもっと強くならなきゃ」
「それとお前が俺たちの前からいなくなることと、何の関係がある」
「それには私が邪魔だから。そして……私があなたの傍にいたくないから」
得意ではない嘘に、頬が引きつる。
「丁度いい区切りだと思ったんです。封印のこともうまく行きそうだし……それが終わってしばらくしたら私、父に付いて新しく開拓された領地に移り住んで、そこでお婿さんでも取って静かに暮らそうかなって。忙しいのはもう懲り懲りだから……。リュアン様ももう、ちゃんと女の人とだって踊れるでしょ? だからもう、私には構わないでください」
それでも言い切ってセシリーは彼の腕を振り払い、走り出そうとした……。
だが、リュアンは離してくれなかった。代わりにセシリーの体をぎゅっと抱く。
「やめてください!」
「やめない」
突き放そうとするセシリーに、リュアンは静かな顔を向け、尋ねる。
「それは本心か? さっき俺のパートナーで居てくれるって言ったのは、嘘か?」
「……それは」
「前にも言ったが、俺がガレイタムの王子として戻ることはもう無いよ。仮に兄が亡くなったとしても、俺は継承権を放棄するつもりだ」
リュアンは固い意志を瞳に覗かせながら告げる。
「次はなんだ? ヴェルナー侯爵家の身分か? こんなもんどうでもいい、お前が望むなら明日にでも当主に頭を下げて縁を切ってきてやる」
「冗談を言わないで……!」
「黙って聞け! 他は何だ? 騎士団長の身分か? そんなもんあの眼鏡にいくらでも譲り渡してやるよ。困っている人間を助ける方法はひとつじゃない。剣を片手に世界を巡ったっていい。お前と一緒に町医者を目指したっていいんだ。他は何だ? 後何を捨てたら、お前は傍にいてくれる」
「やめて……」
本気の彼の目に、セシリーは慄いた。どうして彼にそんなことまでさせなくてはならないのか。そんな事を思うと、涙と共につい本音が漏れ出してしまった。
「私は、リュアン様に幸せになって貰いたいだけなんです……」
「俺の幸せ……? お前の思い描く幸せって、なんなんだ?」
「……あなたを支えてくれる立派な人と結婚して、たくさんの人に認めてもらって……いつまでも笑顔で笑っていて欲しいんです。それはきっと、私なんかじゃできなくて……」
「私なんかじゃ……か」
リュアンは、濡れたセシリーの顎にそっと手を触れると、顔を寄せた。温かいものが唇に触れ、セシリーの息が止まる。
「……俺を幸せにすることは、もうお前にしかできないよ」
顔を一度話した後、二度、三度とリュアンはセシリーの唇を求める。抵抗できずにセシリーはされるがままにしていた。
「これでわかったか?」
真顔のままのリュアンを真っ赤な顔で睨みつけながら、セシリーは首を振る。
「そうか。なら何度でもしてやる……お前が俺を好きになってくれるまで」
「好きなんです……!!」
それを聞いて、セシリーは堪らず彼の胸にしがみ付き、秘めていた思いをぶつけた。
「とっくに……好きだから幸せになって欲しいんじゃないですか!」
「なら俺の側から消えるな!!」
リュアンはとても辛そうな瞳をして、セシリーの両肩に手を置き訴えかける。
「どんなことでもしてやるから……いなくならないでくれよ。お前だけなんだ、笑った顔を見て、あんなに嬉しい気持ちになれるのは! 心から幸せにしてやりたいって思うのは……!」
そして彼は、聞き間違いようもなくはっきりと告げた。
「セシリー、お前が好きだ」
また唇が寄せられ、舐るような甘いキス。シャンパンの香りをほのかに感じながら、セシリーは思う。きっともう自分は彼と離れることができないと。
――長い口づけの後、浅く息を吐きながらセシリーはリュアンの胸に体を預ける。
「嘘つきました。本当はずっと一緒にいたいです。騎士団の皆と一緒に働きたいです」
「よし、ちゃんと素直になったな……。ほら、涙でべたべただから拭いてやる。……せっかく綺麗にしてたのにな」
リュアンがハンカチを取り出し、優しく押さえるようにして涙を拭いてくれる。窓ガラスに映った化粧はおかげで、それほど崩れてはいない。
少し落ち着いた後、ふたりして肩を寄せ合い窓の外の夜景を見ながら、これからのことを話す。
「全部終わったら、一緒にいられる時間を作ろう。封印がうまく行けばきっと、少しずつ団の仕事も減るはずだから」
「リュアン様と色んなところにお出掛けしたいです」
「うん。騎士団に務める内にこっちの国のことの方が詳しくなったからな……。行きたいところが有ったらどこでも案内するよ。遠慮なく我儘言え」
「……はい」
不思議な気分だった。満たされていると言えばいいのだろうか……。ふわふわとした優しい真綿が体の周りを取り囲んでいるような……とても安らかな心持ちでセシリーは、星々と街並みの明かりを眺めている。
盛り上がる舞踏会の演奏を背中に感じながら、ただ幸福な時間を過ごしていたセシリーの耳は異様な響きを捉えた。
――ビキッ……。
非常に大きな、硬質なものが砕ける音が届いて、セシリーは不思議に思い周りを見た。もしかしたら参列者がガラス壁に体重を掛け過ぎて砕けたのかとも思ったが、さすがにこの高さの建物でそんなやわな造りはしていないはずだ。
そしておかしいことに他の誰も……隣のリュアンすらそれに気づかず眼下の街並みを楽しんでいる。いや……。
「セシリー! あなたにも今の音聞こえまして!?」
「フレア様、はい……確かに」
「もしかして……」
レオリンと一緒に走って来たフレアが、ひどく不審そうな顔をして上を見上げた。その後彼女はセシリーの手を引き、通路の奥へと走り出す。
「来てちょうだい! 不味いことになってるかも知れない!」
「ど、どこに行くんですか!?」
「上です!」
「う、上ってここ、最上階じゃなかったですか!? これより上なんて……」
「あるのですわ! 限られた人間しか入れない秘密の部屋が!」
フレアは最上階の広間の一区画……その部分だけに空いた入り口に滑り込むと、薄暗い通路をひた走った。その先には階段が見え、そこには……。
「おいっ、大丈夫か!」
「お前たち……一体何があった!?」
多くの護衛の兵士たちが散らばるように倒れている。着いて来たリュアンたちが息を確かめる中、内ひとりがレオリンに苦しそうに告げた。
「王太子様……申し訳ありません。侵入を許してしまい……女が、ひとり上へ」
「クッ……馬鹿な、信じられん。王国の手練れが十名以上だぞ! いったい何者が……」
「わ、我らのことは気にせず、早く……石を――」
そのまま気絶した兵士に応急的な治癒魔法を施した後、一行は階段を急いで駆けあがってゆく。
「一体ここになにがあるんですか!?」
「向こうの国で聞いていなくて? この時計塔自体が大きな魔導具だって……」
早口のフレアの言葉にセシリーの記憶が呼び起こされる。
そういえば、ジェラルドや月の女神に聞いた覚えがある。初代聖女に製法を伝授され、リズバーンの封印を維持するために作られたのがこの時計塔であると。そして、そこには……。
「も、もしかして封印を支えている太陽の石が!?」
「ご名答! 先程の音は多分、女神さまが……それが壊されるのを警告してくれたんだと思いますわ!」
長い階段をそれぞれが移動用の魔法を使って全力で駆け上がっているのに、中々上にはたどり着けず、動かす足がもどかしい。
――ビキキッ!
先程よりも大きな音。焦燥が背中を貫いた時、ようやく一行の前に鉄扉が姿を現すが、それは中心が酸で溶解したように食い破られて、既に何者かが侵入したことを知らせている。
(一体誰が……)
「皆、魔力で体を守っておいた方がいい。もしかしたら城でイーデル公爵を演じていたのと同じ奴かもしれない」
あの時セシリーは離れていたため、その被害には掛からなかったが……公爵を装いセシリーたちを陥れた人物は、自身の魔力を込めた血液を霧に変えて吸わせることで、体内から人々の行動を束縛したという。それはおそらく……十年ほど前、ラナが命を落とした時の手口と同じだ。
しかし、それを聞いてはいてもなお強くよぎるのは……涙で滲む視界に映った通路の奥に消えた影。あの人物のことをセシリーはどこかで、いや……ずっと昔から知っている。
けれど必死にそれを頭の中で否定した。絶対にない……。あんなに長い間ずっと、自分を守り育ててくれたあの人が、まさか……。
飛び込んだ室内は、それ自体が魔道具の一部であることを象徴するような造りだ。壁も地面も天井でも、幾つもの光の魔法陣が歯車のように組み合わさって起動し、それぞれの中心には魔石が輝いている。それらの魔力を受け取るかのように、部屋の中心にある台座へ乗った橙色の宝玉は煌々と輝いていた。
しかしそれは今にも砕かれそうに、大きな亀裂が入りかけ……ひとりの女性がそれに手を翳している。
「離れなさい!」
「――待って!」
大きく叫んだフレアが素早く指を付きつけ魔法を放とうとするのを、セシリーは思わず止めようとした。だが彼女の意思は揺るがず、宙に書いた魔法陣から光の矢が飛ぶ。
しかし宝玉の前にいた人物はそれを見もせず、魔法の障壁を生み出して防ぐと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。彼女に向けて、リュアンが鋭い声を放つ。
「……どうして。あんたがなんでここで、こんなことをしているんだ! セシリーの身をあんなに案じていた、あんたが!」
振り向いたその人の瞳は今や赤に変わり、そして彼女はふんわりとした桃色の髪をかき上げると、上品そうに首を傾げて微笑んだ。
「残念です御嬢様。あのまま愛しい人と束の間の幸せに浸っていて下さればよかったのですが……どうしてここへいらっしゃったのです~?」
間延びした声も変わらずそのままに……彼女は――クライスベル家の侍女であったはずのエイラ・バーキンスは、セシリーにつまらなそうに問いかけた。




