5
誘拐団のボス、サミュエルは冷ややかな視線を送るとそれ以上何も言わずに階段を上っていった。
マルガリーテは膝を抱えて顔を隠し、牢屋の壁にもたれかかった。
そうして、いったいどれだけの時間が過ぎただろうか、
「王女様?」
聞き覚えのある声が、マルガリーテの顔を上げさせた。
そこには、カトリーヌが不思議なものでも見るような眼差しを向けていた。
「ここは……? いったい何がどうなっているの……?」
どうやら、みんなを眠らせていた薬の効果が切れたみたい。一人、また一人と起き出して自分の置かれている状況を確かめようとしていた。
当然、その中にはマルガリーテのよく知る家族も含まれている。
「私たちは、誘拐されてしまったのね」
一際美しく聡明な人が、この状況からすぐに答えを導き出した。
彼女のこともある意味よく知っている。
何しろ、人生を入れ替えた相手だもの。
他の者は知るよしもないが、彼女こそ真の王女――エリーゼ=ルウ=ローザだった。
今は、エリーゼ=ブリードだが。
「その通りよ。でも、安心しなさい。あなたたちは、全員命だけは助かるから」
「僭越ながら王女様、なぜそのようなことが言えるのですか?」
「誘拐犯の一人と、話をしたのよ。あなたたちを誘拐した目的は、どこかの物好きに性奴隷として売りさばくためだそうよ。だから、絶対に殺したりはしないわ。彼らにとって、あなたたちは商品なんだから」
スゥーと息を呑む音だけが、牢屋の中を包んだ。
命が助かると知っても、誰一人喜ぶ者はいなかった。
……当たり前、か。
「王女様は? 今の言い方だと、まるでその中に王女様が含まれていないような……」
普段はポケポケしているクセに、こういう時だけは母さんは鋭い。
「フ……、含まれているわけないでしょう? 商品の目的をもう一度言って欲しいの? 私はあなたたちのように美しくはないもの。商品としての価値はないってことよ。彼らにとって王女の存在は邪魔でしかないのよ」
「それでは、まさか……」
「ええ。私は今夜殺されるわ。……よかったわね、美しく生まれて。神に感謝した方がいいわ、そのお陰で生きられるのだからね。一生、男の玩具としてだけど」
――パンッ!
乾いた音が鳴った。
左の頬が熱く、そしてジンジンと痛い。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
顔が、急に横を向けられてしまったということも重なって、目の前に誰がいるのかもわからない。
痛む頬を抑えながら顔を戻すと、そこにはエリーゼが毅然とした態度で立っていた。
「そういうことを言うの、やめなさい。みんな、怖がっているでしょう」
他でもないエリーゼに叩かれた、ということがマルガリーテの心を一気に沸騰させた。
――王女でも何でもない、ただの人のクセに――。
「あなた――」
「アハハハハハハハハッ! いい、お前らすごくおもしろいぜっ!」
エリーゼに摑みかかろうとしたまさにその瞬間、アミーが床を転げ回って間に入った。
「何がおもしろいというの?」
エリーゼがアミーを睨みつけた。
「こんなところでまで、喧嘩してるところがさ。そんなことに時間と労力を使ってる場合じゃねーと思うんだけど」
「…………」
さすがのエリーゼも、これには反論できないようだった。
「そうよ、あなたの言う通りだわ。みんなで助かる方法を考えましょう」
不穏な空気が漂っている中、母さんがそう提案した。
皆それに賛同し、牢屋の一角に集まって話し合いを始めた。
マルガリーテはまるで人ごとのようにそれを眺めるだけで、決してその輪の中には加わらなかった。
みんなと離れて、一人で壁際に腰掛ける。
……隣にアミーもいるから一人ではなかったか……。
そこへ、一番年下と思える可愛らしい女の子が無邪気にやってきた。
「王女様も、一緒に話し合おうよ」
何も知らない天使のほほえみ。
この少女――カトリーヌは、きっと誘拐された目的を理解していないだろうな。
マルガリーテが無視を決め込んだのにもかかわらず、手を取って立ち上がらせようとした。
突然のことにびっくりして、反射的に手を振り払った。
「……王女様……?」
なぜそうされたのか、わからない、と小首をかしげるカトリーヌ。
「私に近づかないでっ! 私に関わらないでっ! 私のことは、放っておいてよ!!」
自分でも驚くほどの剣幕でまくし立てた。
「…………お姉ちゃん……?」
「――え……」
目を白黒させていたカトリーヌがポツリと零した言葉は、もう二度と向けられるはずのない言葉だった。
「あ、あれ? 私、何言ってるんだろ……。私のお姉ちゃんは、ソフィアお姉ちゃんとエリーゼお姉ちゃんだけなのに……」
マルガリーテに拒絶されたことよりも、自分の口走った言葉の方が気になるのか、カトリーヌは独り言をつぶやきながら、あっさりと引き下がった。
マルガリーテは唖然としながら、その場に再び腰を降ろした。
「……ねえ、アミーの魔法って本当に完璧なの? 今、確かにカトリーヌは私を『お姉ちゃん』って呼んだわよ」
隣に座っているアミーは、すぐには答えてくれなかった。
でも、それはいつものようにふざけているわけでも、焦らしているわけでもないようだった。
考え込んだその表情が、今までにないくらい真剣なものだった。
「……あたしも驚いてるよ。これだから、人間って見ていておもしろいんだよな」
「それ、答えになってないわ」
「お前も、つくづく人が悪いな。それとも認めたくねーのか? 悪魔のあたしが言うのも様にならねーが、きっとお前との絆が強いんだろ。だからお前がマルガリーテ=ブリードとして行動したことに、妹が反応したってことさ」
「今の私は、あなたの魔法が効いている限り誰からの目にも王女として映ってるんじゃないの?」
「ああ。だが、お前自身を変えたわけじゃないからな。お前が妹の記憶に存在するマルガリーテのように行動すれば、その記憶を呼び覚ましてしまうこともあるんだろうよ。要するに、今のお前は人生を入れ替えたのに、それ以前とまったく変わってねーってことだ」
――違う、とは言えない。
「……家族と一緒だから、かも知れないわ」
あえて否定はしなかった。そんなことに、もう意味などない。
「でも、これだけは言っておくわね。私は、自分の命を諦めないことにしたから。それだけは、あの時とは違う……」
言葉にすると、何か力が湧いてくるようだった。
サミュエルの言葉に、マルガリーテの心は希望と共に折れかかってはいた。
けど、まだ完全に折れたわけじゃない。
確かに、状況は最悪といえる。
助かる糸口が夜までに見つかる見込みもない。
それでも、まだ賭けられるものがある内は諦めない。
「何? やっぱり死ぬのが怖くなったのか? お前もそこいらの人間と変わらねーってことか」
「私は、魂と引き換えに幸せを望んだのよ。なのにちっとも幸せになれないから、幸せになるまでは死ねなくなったのよ」
「ほぅ……それで、運命を変えるってのか? どうやって?」
「……それを考えているのよ」
「先に言っておくが、あたしに命を助けて欲しいって言っても無駄だからな」
「安心して、そんなことは望まないわ。あなたには、人の運命を変えるほどの力はないもの。もし、アミーの魔法で誘拐犯たちを全滅させたとしても、きっと私の運命は変わらないと思うわ。人の運命って、あなたが思っているほど簡単じゃないのよ」
「――ああ? 今何て言った? 誰がお前の人生を変えてやったと思ってるんだ?」
「私の人生を変えたのは、私自身よ。あの日あなたに出会ったことが、私の人生を変えたんだもの」
「お前の前にあたしが現れてやったんだぞ。やっぱり、あたしが変えたんじゃねーか」
「いいえ、違うわ。よく聞きなさい。アミーが私の前に現れたのはなぜ?」
「それは……たまたまおもしろいやつが目についた、というか……」
「やっぱりね。そうだと思っていたわ。実はね、どうして私たちが出会ったのか、ずっと気になっていたのよ。私の召喚魔法によってあなたが呼び出されたのだとしたら、そもそももっと早くに出会っていたはず。特に、ここ数年は同じ儀式しか行っていないのだから。十数年という時間をかけて学んだものを否定したくはないけど、事実がそうなら認めるしかないのよね。私たち人間に、魔法は使えない」
「ああ、そうだ。あたしはお前の魔法で呼び出された悪魔じゃない」
「だから、私たちの出会いは偶然だった。本来ならば、あの日私は十三回目の魔法に失敗して、命を絶つはずだった。なのに、私があなたに偶然出会ったからその運命が変わったのよ。これを奇跡と呼ばず、何と呼べと言うの? そして奇跡は、あなたであってもそうは起こせない。あなたでさえも思い知らぬことこそが、唯一奇跡と呼べるものだから」
「お前は、悪魔にも起こせないという奇跡を人間の身でもう一度起こそうというのか?」
「私は一度起こしているもの。……信じていれば、必ず奇跡は起こせるはずよ」
アミーは苦笑いを浮かべるだけで、もう言い返してはこなかった。
もしかしたら心の中では無力なマルガリーテを笑っているのかも知れない。
あるいは、哀れんでいるのかも知れない。
それでもいい。マルガリーテの起こした奇跡は所詮、マルガリーテにしかわからないのだ。
「……なあ、幸せになれるなら、お前は死んでもいいと思ってたんだよな? 今も、そう思っているのか?」
「もちろん、幸せになれるなら、ね」
だから、こんなところではまだ死ねないのだけれど。
「じゃあよう。幸せを捨てる代わりに生き残れるとしたら、どうする?」
「――え? そ、それってどういう意味?」
まさか、アミーは何か助かる方法を思いついたのだろうか。
しかし、幸せを捨てる、とはいったいどういう……。
「今、お前は王女だから殺されようとしている。ならば、王女じゃなくなれば殺されなくなるんじゃないか? 幸い、ここには本当の王女もいることだしな」
ああ、やはりこいつは悪魔なんだと、思い知らされる。
それは、まさに悪魔の囁きだ。
アミーはマルガリーテが望めば魔法を解除するつもりだろう。その瞬間、マルガリーテはブリード家の次女に戻り、エリーゼは王女に戻る。
他人の命と引き換えに、生き残るわけだ。
それだけじゃない、マルガリーテに特別ではないただの人に戻れ、と言っているのだ。
「……あなたも、趣味悪いわね」
「そりゃどうも。悪魔にとっては最高の誉め言葉だな」
――なぜ、悩む必要がある。
マルガリーテの心が、自分自身に問いかけた。
――他人の命なんてどうだっていいはずじゃないか。幸せになるためならば、自分の魂だって悪魔に売り渡したのだ。ましてや、死ぬのがあのエリーゼならば願ってもいないチャンスだろう?
でも、生き残る代わりにただの人に戻ったら、幸せが手に入らなくなる。
――死んでしまったらそこで終わり。幸せなんてものは、生きていてこそ価値があるものだ。
たとえ生きていても、以前のように何も得られず、何者でもない者は死んでいることと同じではないの?
――生きることを望んでいるから、特別であり続けたい。
でも、特別だから、殺される。
どうしたらいいの?
「……私には、選べない……」
「まあ、好きにするさ。あたしはいつまででも待ってやるが、ここの連中は夜までしか待ってくれねーってことを肝に銘じるんだな」
アミーは言葉を吐き捨てて、その場に寝っ転がった。
突きつけられた選択肢は決して多くない。
――マルガリーテの命。
――マルガリーテの願い。
――マルガリーテの幸せ。
そのどれを選んでも、必ず何かがなくなる気がする。
アミーの言う通り、時間は無限にあるわけではない。
マルガリーテが悩んでいる間も、確実に時間は進んでしまう。
けど、たとえここで時間を止めても、それで答えが選べるわけではない。
いつかは決断しなければならないのだ。考える時間が多いか少ないかは、あまり関係ない。
大事なのはマルガリーテが自分の意思で行動することだ。
考えれば考えるほど、悩みは尽きない。
それでも時は、無情にもマルガリーテに決断を迫っていた――。




