5
緊張しっぱなしで気がつかなかったけど、もう昼食の時間だった。
確かに、おなかは空いている。
いつもならこの時間は寝ているのに、今日は朝からまともに生活しているから余計にそう感じた。
身も心もぐったりさせられていたので、食堂に着くや否や、椅子に座って突っ伏した。
「大丈夫?」
事情を知っているマリアンヌが心配して聞いてくれたようだが、同じ言葉を返したくなるくらい、その声には元気がなかった。
「……ま、何とかね……。それよりも、昼食は私たちだけで食べるの?」
「ううん。本来なら、マルガリーテ一人で食べるのよ。メイドが主人と共に食事をするなんてありえない、というか、許されるはずはないわ」
「そうじゃなくて、朝は執事やらメイドやら国王やら、とにかくたくさんいたじゃない」
「ああ、昼食は王様自身がいつ食べられるかわからないし、食べられない時もあるからって、各自自由にしたのよ」
「……そう。ねえ、じゃあ今日はマリアンヌはどこで食べるの?」
「え……それは……」
マリアンヌは急に口ごもった。
その理由は、人の心が読めないただの人間であるマルガリーテにもさすがにわかる。
「ここで一緒に食べない?」
「な……そ、そんなことできるわけがないでしょう? 少しは自分の置かれている立場というものを考えてよ」
「それじゃあ、王女としてあなたに命令するわ。昼食はここで私と一緒に食べなさい」
「う……、マルガリーテ……」
「今日はずっと私のフォローをしてくれるつもりなんでしょ? 今食べておかないと夕食まで何も口にできなくなっちゃうわ。マリアンヌはそれでいいと思ってるかも知れないけど、空腹で倒れたりしたら、私が困るのよ」
「……わかったわ」
マリアンヌは観念したように一番近くの席に着いた。
やっぱり思っていた通り、マリアンヌは昼食を抜くつもりだったのだ。
ほどなく厨房の方からコック姿の男がサンドウィッチを持ってきた。
無論、メイドが一緒に座っていることに少しだけ訝しげな顔をしたが、マルガリーテの命令だというと、あっさり引き下がった。
「実はね、割とよくあることなのよ」
一緒にサンドウィッチを口に入れながら、マリアンヌがしゃべり始めた。
いったい何のことかと思ったら、
「王女様がメイドたちと一緒にお昼を食べること」
すぐにマリアンヌは言葉を続けた。
「だったら、どうして断ろうとしたの?」
「それは、きっと驚いたからね。何も覚えていないって言ったのに、以前の王女と変わらない行動を取ったから」
「……そう」
マルガリーテは、しみじみと一言だけ発した。
王女と同じことをしたということは、少しは王女に近づいているのだろうか。
たぶん、それは違う。
マルガリーテが思っていたように王女は特別な存在ではなく、普通の人と何ら変わらない、ただの人間だった。
ただ、それだけのこと。
そのことに気づかされることが、疲れていたマルガリーテの心に重くのしかかるようだった。
昼食の後、マリアンヌは今日何度目かの同じ質問を繰り返した。
「ねえ、そろそろ体調不良ってことにして休まない?」
学問の時間を間近に見せてしまったから、マルガリーテが無理をしていることは見抜かれていると思う。
そうした方がいいに決まっていることは、すでに気づいている。
だけど、ここまできて引きこもりたくはなかった。
「やめてよ。次はどこに行けばいいの?」
「……音楽室」
「そっか、執事の人が言ってたっけね。午後は音楽の勉強だって」
マルガリーテたちは無言のまま音楽室へと向かった。
音楽室は扉こそ勉強部屋と変わらないが、中はまるで別世界だった。
広さは今までのどの部屋よりも広い。
それもそのはず、そこは音楽室というよりは、どこかのコンサート会場のようだった。
舞台の上にはオーケストラに使われる楽器たちが整然と並べられ、それを囲むように客席が設けられている。
今すぐにでもコンサートが開けそうだ。
「ところで、マルガリーテは楽器の弾き方は覚えているの?」
「は? そんなもの、覚えているわけないじゃ……、まさか!?」
質問の意図はすぐにわかった。
音楽の勉強、という時点で気づくべきだった。
それはすなわち、実際に楽器を演奏するということなのだ。
「昨日までのあなたなら、芸術の世界だけで生きていけるくらいの腕前だったわよ」
聞いてもいないのに、マリアンヌは絶望的なことを言ってくれる。
妹のカトリーヌじゃあるまいし、楽器の心得など一つもなかった。
できることなら、ここにカトリーヌを連れてきて代わってもらいたいくらいだ。
「ごきげんよう、王女様」
背後から優しそうな女性の声が聞こえてきた。
「こ、こんにちは」
あいさつを返しながら振り返ると、そこには細身で長身の女性がほほえみを浮かべて佇んでいた。
長いストレートの黒髪をなびかせながらマルガリーテへと近づく。
「この方が音楽の先生よ」
耳元でマリアンヌがぼそっとつぶやいた。
「さ、今日はバイオリンの演奏をいたしましょう」
先生にバイオリンを渡されてしまっては、もう逃げることもできない。
結果は見るも無惨――音楽だから聞くも無惨、だろうか。
演奏ではなく、ただ雑音をかき鳴らしただけだった。
相手が王女だったからそこまで怒られたりはしなかったが、帰る時の先生の表情はここに来た時とはまるで別人のようだった。
学問の時よりもさらに落ち込んで音楽の勉強を終えたマルガリーテは、マリアンヌと共に自室に戻った。
するとそこには、紅茶と数々のケーキが用意されていた。
「え? これって、どういうこと?」
「あなたのおやつだけど、こんなことも忘れてしまったの? いつもこの時間を楽しみにしていたのに」
「……フ、フフフ……アハハッ。これよ、私が味わいたいのはこういうことなのよ」
皮肉を言われても全然気にならない。
やっと幸せが舞い込んできたのか。
ケーキは昨日食べたばかりだから、そんなに珍しいものではないが、こういう優雅な時間こそがマルガリーテの求めているものだった。
「これって、全部食べてもいいの?」
「食べきれるものならどうぞ。あんまり食べ過ぎない方がいいと思うけど」
マルガリーテは四つほどお皿にのせて、紅茶の用意されたテーブルに着いた。
「マリアンヌも食べたら? 私一人じゃこんなに食べられないもの」
「そう? じゃあ一つだけいただくわ」
そう言って、イチゴのショートケーキをお皿にのせた。
「ところで、次は何をするんだったっけ?」
「なんだか、急に元気になったわね。やっぱり、人の好き嫌いって忘れていても変わらないものなのね」
マルガリーテに向かい合ってケーキを食べていたマリアンヌが、そう言った。
「これなら、次の時間も楽しめるかもね」
「何? それじゃあ次の時間も以前の私が好きだったことなの?」
「まあね。一番と言っても過言ではないと思うわ」
マルガリーテはお皿にのせたケーキを全て平らげて、紅茶をすする。
「へ~。で、何をするの?」
「武術訓練」
「――は?」
――ガチャリ。
その時、マルガリーテの声と部屋の扉が開け放たれる音が重なった。
「ここにおられたのですか、王女殿。捜してしまいましたぞ」
薄汚れた服を着た、いかにも強そうな大男がズカズカと入ってきた。
「だ、誰なの?」
小声でマリアンヌに聞く。
「近衛隊の隊長さん」
「さ、参りましょう。部隊の者たちも王女様と手合わせするのを待ち望んでいますから」
近衛隊の隊長とやらは、マルガリーテの腕をがっしりと摑んだ。
「ふぇえええええ!!」
そして、そのまま引きずられるようにしてマルガリーテは部屋から出されてしまった。
マリアンヌは取り乱すことなく、残っていた紅茶を飲み干してから、マルガリーテたちの後についてきた。
三人が辿り着いたのは、城の中庭だった。
そこには何人もの兵隊たちが、整列していた。
「これより、王女殿との戦闘訓練を行う!」
「はいっ!!」
中庭に威勢のいい声が重なる。
やっとのことで隊長から解放されたマルガリーテは、傍にいたマリアンヌに小声で話しかけた。
「ちょっと、これはどういうことなの?」
「だから、見ての通り武術訓練よ」
「私が聞いてるのはそういうことじゃないわよ。王女は守られる側であって、戦う側ではないはずでしょう?」
「まあ、一般的にはね。でも、あなたはそうじゃないってだけよ。ちなみに、このことは王様が国民に隠してるから誰も知らないことだと思うけど」
当たり前だ。
王女は将来絶対に誰かと結婚しなければならない。
こんなことをしていると知られたら、王女のイメージは台無しになってしまう。それだけは、あってはならないのだ。
「王女殿、どうされましたか? もう部下たちは準備完了ですぞ。せめて、武闘着にくらい着替えていただかないと」
「は、はぁ……」
「更衣室はあちらですよ。よろしければ私が着替えを手伝いますわ」
「お、お願いするわ」
足取り重く、マルガリーテは中庭の隅にあった更衣室へ向かった。
「無理よマリアンヌ。私は戦えないわ!」
マリアンヌを更衣室へ押し込めて、すがるようにそう言った。
「ここまで来て、今さら体調不良で休むわけにはいかないでしょう?」
マリアンヌはどこかで聞いたような台詞を返した。
「でも! できないものはできないのよ。きっと大けがをするわ」
「そうかしら。私はね、これはいいチャンスじゃないかと思っているのよ」
「これの、どこがチャンスだって!?」
「ショック療法よ。体が覚えていることはそうは忘れないものよ。これをきっかけに昨日までの自分を思い出すんじゃないかな、ってね」
「…………」
……何か言葉を返そうと思ったけど、できない。
もっともらしい言い訳は、一つも思い浮かばなかった。
「それじゃ、ここに着替えを置いておくからね。がんばって、私は信じてるから」
励ましの言葉を言い置いて、マリアンヌは更衣室から出て行った。
もはや、逃げることはできない。
しかも、ぐずぐずもしていられない。
マルガリーテは武闘着に着替えて隊長のところへ戻るしかなかった。
「確か……昨日はハロルドで終わったんだっけっか? ってことは、今日はバルデスからか。バルデス! 前に出ろっ!」
隊長が呼びかけると、バルデスと呼ばれた男が整列した中から前に進み出た。
マルガリーテも隊長に背中を押されて、バルデスの前に立たされた。
「お手合わせすることを、楽しみにしていました。今日は全力でいかせていただきます」
「よ、よろしくお願いします……」
「それでは始めい!!」
「はいっ!!」
バルデスのかけ声だけが中庭に響き渡る。
――次の瞬間、マルガリーテの意識は途切れた。
何をされたのかもわからないまま、武術訓練とやらは終わった――。




