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「おはようございます、王女様」
そう言いながらマルガリーテの前に現れたのは、黒い背広をパリッと着こなした無骨で厳しそうな男の執事だった。
「お、おはようございます」
「表にメイドたちが出ていましたが、何かあったのですか?」
「え……えと……それは……」
いきなり焦った。答えに窮していると、マリアンヌが進み出て、
「今日は、王女様の調子が優れないので、何人もこの部屋に入って王女様の気を遣わせてはいけないと思い、私一人でお世話をした方がいいと判断させていただきました」
「そうですか。わかりました。彼女たちも心配していたようですから、私の方からもそう言い含めておきましょう」
「ありがとうございます」
「いえいえ。それでは今日のご予定を。今日はこれから政治経済学と、社会学の勉強。昼食の後には音楽の勉強。小休止の後、武術の稽古を行うことになっております」
「…………」
これには開いた口がふさがらなかった。
驚く、ということにもある程度余裕が必要なのだと、初めて知った。
マリアンヌが心配していたように、余計なことを言うことはなかったが、それは単に言葉を発することさえできない状態にさせられただけだった。
まさに絶句していたわけだ。
「それでは、私はこれで。後のことは頼みましたよ、マリアンヌ」
「は、はいっ」
ぼんやりとした視線の先で執事は深く頭を下げると、扉の向こうへ消えていった。
「……ふぅ……、なんだかいつもの倍は疲れたわ」
マリアンヌは深いため息をついた。
「ねえ、私はいつもこんな予定をこなしてきたの?」
「ええ、まあ」
「……王女なのに、何でこんなにやらなければならないことがあるわけ? もっと自由で優雅な暮らしをしてるんじゃなかったの?」
言ってから後悔した。それは間違いなくマルガリーテの本音だった。
「……何を今さら……。これはあなたが望んだことなのよ。王様はあまり望んでいないのに、あなたが自分から選んで進んだ道なのよ。それすらも忘れてしまったというの?」
案の定、マリアンヌは失望したような声を上げた。
きっとエリーゼは文句一つ言うことなく、こういう生活をしてきたのだ。
いったい何のために?
王女なんて、ただ好き勝手に生きて、羨望の眼差しを受けるだけの存在だったのではないの?
文句を言いたくても、その相手は今ここにはいない。マルガリーテの家で、のんきに暮らしているはずだった……。
「どうするの? やっぱり、休んじゃった方が身のためだと思うけど」
「やめてちょうだい。私は以前と変わらない生活をするわ。たかが王女にできて、私にできない道理はないもの」
「たかが王女って、まるで他人のことみたいね。王女様はあなたなのに」
「お、覚えてないんだから、私にとっては他人みたいなものよ」
「そうかも知れないわね。それよりも、もうそろそろ勉強部屋にいかないと先生が待ちくたびれるわ」
「……そうね」
意地とプライドのお陰で少しはやる気が出てきた。
立ち上がったマルガリーテの手を引いて、マリアンヌが歩き出した。
廊下に出ると、そこにいたはずのメイドたちは一人残らずいなくなっていた。
きっと、執事の人が上手く説明してくれたのだろう。
「あ、そうだ」
「何?」
道すがら、マルガリーテはまだ聞きたいことのほとんどが聞けていないことを思い出した。
「さっき私の部屋に来た、執事さん? あの人はなんて名前でどんな人なの?」
「ああ、そういえば、まだその話も中途半端だったのよね。あの方は――」
執事の名は、ロバート=レイボルト。国王であるバルバロッサより年上で、王宮に住む者全ての父のような存在らしい。
ありとあらゆることに精通し、国王専属の執事でありながら、全ての執事とメイドを束ねる長という肩書きも持っている。
「ただ、あの方は前国王の頃からこの国に仕えていて、素性を知っているのは王様くらいなのよ。だから、私もそれ以上のことはあまり知らないわ」
「そう……」
「でも、あなたになら答えてくれるかもよ。あの方も王様と同じであなたに対して甘いからね。たぶん、あなたのことを孫のように思っていらっしゃるのよ」
本当にそうなのかな、と思った。
さっき見た感じだと、とても厳しい人のような印象しかなかった。
マリアンヌが嘘をついているとは思えないから、疑ってもしょうがないことだけど。
機会があったら、話をしてみてもいいかもしれない。何しろ今は味方が一人しかいないのだ。少しでも気の許せる人を増やしたい。それがこの城に精通している人物ならなおのこと都合が良かった。
「さ、着いたわよ」
マリアンヌが立ち止まったので、考え事をしていたマルガリーテも足を止めた。
目の前には木の扉がある。寝室のものと似たような、簡素な扉だった。
「ここが、勉強部屋、なの?」
「そう」
「ちなみに、以前の私はどれくらい学力があったのかしら?」
「そうねえ、大学の学者と論じることができるくらいは……」
「そ、そんなに頭がよかったの?」
「まあね。それこそ王女様じゃなかったら、二人目の女子大生になっていたことでしょうね」
マリアンヌが「二人目」と言ったということは、マルガリーテの姉さんは王宮にも知られているほど有名だということだ。
この国最初の女子大生は、マルガリーテの姉さんなのだから。
……ってことは、王女は姉さんと変わらないほどの学力を持っていたということか。
何においても平均点でしかないマルガリーテにその代わりが務まるわけはない。
「そうだ、マリアンヌの学力は?」
「は? どうしてそんなことを聞くのよ」
「だって、私が戸惑ったらフォローしてくれるんじゃないの?」
「そりゃ、生活を送る上でできることはするけど。勉強は無理よ。私の生い立ちをもう忘れたわけじゃないでしょ? 私はここにきてから常識的なことを教わったけど、学校に行っていたわけじゃないし、勉強なんてからっきしダメなのよ」
「そそ、そんな……」
「だから私は、体調不良ってことにして休めばって言ったのよ」
まったくもってその通りである。その通りではあるが、だからこそ余計に腹が立つ。文句の一つでも言ってやろうと思ったら、勢いよく扉が開かれた。
「廊下は雑談するところではありませんよ。これからこちらに王女様がいらっしゃるのですから、持ち場に戻りなさい」
マルガリーテたちのことを、メイドか何かと勘違いしたらしく、注意をしながら部屋の中から出てきたのは白で統一された洋服に身を包んだ、若い男の人だった。
若い、といっても姉さんよりは年上だと思う。おそらくは二十代半ば、といったところか。
背が高く、整った顔立ちをしていて、マルガリーテは少しの間見とれていた。
「おや? 王女様じゃありませんか。どうされたのですか、廊下で立ち話など……」
彼は王女に注意したことなど、少しも気にする様子を見せず、冷静にそう言った。
「あ、いえ、べつに……」
マルガリーテの身分は王女なのだから、何も恐縮する必要などないはずなのだが、元が元だけに反射的にうろたえてしまう。
「そうですか。それでは中へどうぞ。こんなところで勉強をするわけにはいきませんからね」
「はい」
「ちょっと、いいの?」
勉強部屋に入ろうとしたところで、マリアンヌが小さく耳打ちした。
「ここまで来て、逃げるわけにはいかないでしょ」
「それはそうだけど……」
こそこそと話していたマルガリーテたちに振り返り、彼は一言だけ言った
「何か?」
「あ、いえ、気にしないでください」
マルガリーテたちは声を合わせて首を振った。まるで、練習したみたいに息が合っていた。
勉強部屋の中は、学校の教室のような作りになっていた。
壁際には黒板があり、その前には先生が座る教卓がある。
それに向かい合うように机が並んで……はいない。教卓に向かい合う机は、一つしかなかった。
広さが平均的な学校の教室と同じくらいあるだけに、少し寂しいような感じがした。
「王女様、席に着いてください。そろそろ勉強を始めませんと、今日の予定に支障を来してしまいますよ」
彼は、そう言って教卓の前に立った。名前は知らないし、どんな人なのかもわからないが、彼が先生なのは間違いなかった。
マルガリーテは無言のまま、言われる通りにした。
ここに来る時の勢いなどとうに消え、もう不安しかなかった。
「あの、私もご一緒してよろしいですか?」
その声を聞いて、ようやくマリアンヌが傍にいないことに気づいた。
マリアンヌは扉のところで立ったままだった。てっきり一緒に入ってきたものだと思っていたのに。
「……どうしてですか? あなたがここにいても、何も役には立ちませんよ。それよりも王女様のお邪魔になりかねません。王女様専属といっても、ただ、王女様の傍にいればいいというものではないでしょう」
マルガリーテがぼんやりしていて答えなかったからか、先生がマリアンヌの要望に返答した。
それは、確かに正論だ。
マリアンヌの学力を知った時、役に立たないな、なんてちょっとは思った。
でも、そんなことは関係なかった。
たとえ勉強で助言ができなくても、マリアンヌにはここにいて欲しかった。
事情を知っている唯一の味方と離れ離れになる方がよっぽど、今のマルガリーテにとっては問題だった。
「……はい」
「待って、私がいて欲しいの。私の傍にいる理由なら、それで十分でしょ」
うつむいて、立ち去りかけたマリアンヌを呼び止めた。
当たり前だ、こんなところに一人で放置されたらたまったもんじゃない。
「王女様、ですが……」
先生は訝しげな顔をした。エリーゼは今まで一人で勉強をしてきたのだろう。
マルガリーテだって、あまり波風を立てたくはなかった。それでも、これだけは譲れない。
なりふりなど構っていられない、不審に思われることも承知の上で言葉を続けた。
「私がマリアンヌにいて欲しいと言ってるのよ。あなたにそれを止める権利はないでしょう」
「は、はい。私は、そんなつもりで言ったわけでは……」
「だったら、この話はおしまいよ。マリアンヌ、扉を閉めてちょうだい。開いたままじゃ落ち着いて勉強できないわ」
「はいっ」
マリアンヌは元気よく返事をして、扉を閉めた。
マルガリーテはというと、自分で自分の行動にドキドキしていた。もしくは、ハラハラしていたのかも。
先生は、咳払いをしてから、本を開いた。
「そ、それでは今日のお勉強を始めます。今日は先週の続きからになりますね。君主制における、政治と経済の因果関係を――」
「…………」
タラリ、と冷や汗が背筋を伝う。
最初からして何を言っているのかさっぱりわからなかった。
それからの数十分はほとんど地獄だった。
質問を振られても、答えられるわけはないから、すぐに復習とやらをやらされるし、しかもその復習の内容すらもわからないという始末。
仕舞いには先生の方までちんぷんかんぷんになりながらの勉強の時間は、まったく理解できないまま終わった。
勉強の時間が終わる時に言った先生の「今日は調子が悪いようですね」というフォローが空しく聞こえるほどひどい内容だったことは、マルガリーテにもわかっていた。
勉強部屋という名の教室を後にした二人が向かったのは、朝食を食べた食堂だった。




