第5話 アカネが作る朝ごはん。一口目だけは譲らない
護衛が撤収する朝、俺の台所でいちばん忙しいのは竜王だった。
国境を越えて竜の群れを率いてきたアカネが、今は粉のだまを一つずつ潰している。
屋根では大工が最後の板をはめていた。シロは修理用の黒い柱を片づけ、家を覆う雨よけだけを残した。エメルは荷物の確認をしている。
荷物はもう、戸口に揃えてあった。次はいつ、四人で朝飯を食べられるだろう。
「先生! 聞いてる?」
「ん? 悪い。何だ?」
「手伝わなくていいって言ったの!」
アカネは赤い髪を結い上げ、袖を肘までまくっていた。豪華な服の上からつけた前掛けだけがうちのものだった。
「卵くらい割るぞ」
「それも私!」
「じゃあ何をしたらいい?」
「座って私を見てて!」
「鍋じゃなくて?」
「鍋も! 私も!」
作業台を守るように両手を広げられた。
「分かった分かった。楽しみにしてるよ」
アカネが生地を混ぜ始めた。俺は横の炉で湯を沸かしながら、その手元を眺めた。
窓の外で竜が鳴いた。
大工の槌の音に驚いたのか、村外で長い首を持ち上げている。
アカネは泡立てた卵を置いて戸口へ出ると、竜へ短く何かを告げた。
竜は頭を低くし、広げかけた翼を畳んだ。背に乗っていた兵もほっとしたように手を上げる。
「大丈夫か?」
「うん。あの子は初めての村だから。音のする方を見せてあげたの」
「そうか。ちゃんと面倒を見てるんだな」
「当たり前でしょ。私の竜だもん」
アカネは得意げに笑って台所へ戻り、古鍋へ生地を流した。へこんだ底の下で、火が片側だけ細く伸びる。
「そっち焦げないか?」
「底が浮いてるからこっちを強くするの」
「なるほどな」
昔はこの鍋で粥を煮るたび、よく同じところを焦がしていた。
アカネは黒くなった部分を自分の皿へ取ろうとしたものだ。
今は火の方を鍋へ合わせている。
「上手くなったな」
「でしょ!」
「昔はよく焦がしてたのに」
「それは言わなくていい!」
アカネは頬を膨らませたが、口元は笑っていた。
台所には焼けた粉の香りが広がり始めた。
エメルが材料の包みを畳んでいると、小さな紙が出てきた。
俺が昔書いた菓子の分量だった。
「まだそれ使ってるのか」
「山の材料だと少し変えるけど。元はこれ」
アカネは手を拭いて紙の端を押さえた。
水の染みの横に、俺とアカネの字が並んでいる。粉を増やしたときや卵が小さかったとき、そのたびに書き足してきたらしい。
「全部覚えてるのかと思った」
「覚えてるよ。でもたまにこっちも見る」
アカネは紙を炉から離れた場所へ置いた。
粉を水で延ばしていた頃の分量に、今は山の濃い乳が加わっている。
「あとでこの続きを写させてくれ」
「先生が?」
「お前が上手くなった分を俺も知りたい」
アカネは目を丸くしたが、すぐに紙を俺の方へ向けた。
「じゃあ味で当てて。十年前と同じ答えだったらもう一枚食べてもらうから」
「急に難しくなったな」
「私だって成長したんだから!」
「ああ。よく分かるよ」
アカネは照れたように顔を背けた。
外の槌が一度止まり、シロが手を洗って戻ってきた。
板を合わせる間は少し待つのだという。
最初の一枚が俺の皿へ載った。
「まだ二枚目焼いてるから。先に食べて」
シロもエメルも席へ着いた。
俺が菓子へ手を伸ばすより早く、アカネが端を小さくちぎった。
「待って。一口目は私があげる」
「自分で食えるぞ」
「食べられるかどうかは聞いてない!」
アカネは菓子をつまんだまま、俺が口を開けるのを待っている。
「こういうのはちょっと照れるな」
「いいから! 口開けて!」
勢いに押されて菓子を口へ入れた。指先が唇に触れそうになったところで、アカネはぱっと手を引き、真っ赤になって目を逸らした。
俺もすぐには噛めなかった。
「……どう?」
「ちょっと待て。まだ味が分からん」
「何でよ!」
「お前が急にそんなことするからだろ」
「先生が変に意識するから!」
「アカネも顔が赤いぞ」
「熱い鍋の前にいるんだから!」
シロがカップを置いた。
「私も、先生に食べさせたい」
「これは私が作ったの!」
アカネは皿を俺のそばへ寄せた。エメルが食べやすそうな端を取り、差し出しかける。
「私も、お手伝いだけでしたら」
「エメル、今の話聞いてた!?」
「よく聞いていました。先生が照れていらしたところまで」
「照れるんだから、少し待ってくれ。アカネのを、ちゃんと味わいたい」
アカネは菓子をちぎる手を止めた。
「……じゃあ、味も教えて」
ようやく菓子を食べ直すと、甘さより先にバターの香りが広がった。表面は薄く硬く、中は柔らかい。
「うまいな」
アカネの尻尾の先が前掛けの横で動く。
「ほんと?」
「ああ。ただ俺ならあと少し焼くかな」
尻尾が止まった。
「そこで余計な一言足す!? 今が一番おいしいところなの!」
「焦げる手前が好きなんだ」
「竜王に火加減で勝負するつもり?」
「菓子ならやってみたいな」
「言ったね!」
アカネはもう次の生地を鍋へ落としていた。
次の一枚は端が少し濃く焼かれた。
俺が嬉しくなって取ると、彼女はそれを半分もらって自分でもかじった。
「先生の味だ。これ」
「だろう?」
「でも私の方が上手い」
「そこは認める。アカネが焼いたのが一番うまいよ」
空の皿を見せる。
「今度は俺が焼こう。お前に一番に食べてほしい」
「ほんとに?」
「ああ。十年前の味も覚えてるか試したいしな」
「覚えてるに決まってるでしょ!」
アカネは嬉しそうに笑った。
「じゃあ勝負ね! 先生が負けたらお願いを一つ聞いて」
「また勝負か。エメルにも三連敗したばかりなんだが」
「私には勝てると思ってる?」
「少しくらい勝たせてくれ」
「やだ!」
アカネの隣へ立った。手元を見るつもりだったのに、横顔へ目が留まる。
「先生。火の方、見てないでしょ」
「今はお前を見てた」
アカネの尾の先が前掛けを叩いた。
「じゃあ、さっきのお願い。勝つまで待てないから、今言う」
「明日のことか?」
「うん。雨でも会うからね」
「丘へ行けなかったら、うちでお茶にしよう」
「二人なら、それでもいい」
アカネは鍋の柄を握り直した。
「でも、晴れたら弁当。卵も入れてよ」
「分かってる。お前の分は塩を少なくする」
「覚えてたんだ」
「ああ。久しぶりに作るから、食べてくれ」
「全部食べる!」
「俺の分まで食うなよ」
「そっちは先生が残したら!」
アカネがようやく鍋へ向き直り、残りの生地を流した。
焼き上がった菓子を四人で分け、食べ終えてから台所を片づけた。
昼までに村外では撤収が進んだ。
先に出るのはアカネの竜隊。次が北の護衛の大半。最後が商都の荷車だ。
シロは町で会談を済ませ、数日だけ隣家へ戻る予定になっている。
エメルは近くの町での仕事が残っている。隣家の離れは、その後も来られるよう、ひと月単位で借り続けるという。
「離れは残しておきます。商都へ戻るまでは、こちらも使わせていただきますね」
「いつでも来てくれ」
「本当に毎週来てしまいますよ」
「それは嬉しいな」
エメルは一度黙り、それから頬を緩めた。
「では、お言葉に甘えます」
荷車へ最後に載せたのは、昨日の盤の控え図だった。
木の盤はうちの卓へ残してある。
「先生。練習なさっても結構です。次に私が参るまでに」
「次は勝つぞ」
「はい。楽しみにしております」
エメルは町へ向かう荷車へ上がった。
シロは大工へ三日分の点検表を渡していた。
「雨よけは残しておく。家の修理は、これからは大工さんに頼んで。直した場所も書いた」
「助かります。魔王さまの手で支えていただけるとは」
「先生の家だから」
大工が礼を言って去ると、シロが俺の隣へ来た。
「先生。橋の修理も見てくる」
「ああ。戻ってきたら一緒に行こう」
「うん。約束ね」
シロは小さく頷いた。
アカネは竜の背へ上がる準備をしていた。
俺は朝食のあとに焼いた菓子を小さな包みへ入れて渡した。
「お前のには負けるが、俺も焼いてみた。道中で食べてくれ」
「先生が焼いたの?」
「ああ。お前のよりちょっと硬い」
アカネは包みを受け取った。
結び目へ顔を寄せて笑う。
「じゃあ明日迎えに来る。午後は空けてきたからね。竜は村外に置くから!」
「歩いていこう。二人で丘を見たい」
「うん!」
アカネが一歩近づいた。
何か言いたそうに俺を見上げる。
「どうした?」
「先生。明日も会えるのに、もう寂しい」
「俺もだよ」
そう答えると、アカネは目を丸くした。
「……先生も?」
「ああ。今朝みたいにみんなで飯を食うのが楽しくてな」
「そっか」
「じゃあ、明日は私と二人分のご飯でいいからね!」
「ああ。弁当、楽しみにしててくれ」
「楽しみにしてる! じゃあ明日!」
アカネが竜の背へ飛び乗ると、翼が大きく広がり、草地に風が吹いた。竜隊が空へ上がっていく。
最後まで手を振っていたアカネの姿が小さくなった。
商都の荷車も街道へ消えた。
北の兵たちは整然と列を作って去っていった。
数日前まで見たこともないほど賑やかだった村が、急にいつもの村へ戻っていく。
俺は家の戸口へ戻った。
棚にはエメルの新しいカップがあり、卓には一緒に遊んだ盤が残っている。炉の脇にはアカネの古鍋。
天井を見上げても雨は落ちてこない。シロが直してくれた屋根だ。
「……また賑やかになるといいな」
思わず口に出た。
明日はアカネと二人きりだ。まだ聞いていない山の話もある。楽しみなのに、少し落ち着かない。
台所へ戻り、明日の弁当に使う卵が残っているか確かめた。
アカネの好きだった味を、今度は俺が作る番だ。




