第4話 エメルと初デート。勝負は三連敗だった
使者が帰った翌朝、エメルは俺の前へ教材の買い物リストを置いた。
「先生。教材のお買い物が終わったら、昨日のお約束を」
「覚えてるよ。今日はお前と市へ行くんだろ」
「はい。楽しみにしていました」
昨日、俺が同行者に選んだのはアカネだった。エメルは書類の処理を最後まで引き受け、礼を言われると『仕事ですから』と笑った。
俺もエメルと二人で出かけたかった。リストを畳んで鞄を取りに行く彼女を見送り、朝飯の支度をした。
朝飯のあと、エメルと教材を買いに行った。
商人は彼女の指輪を見るなり、本を無料で渡そうとした。エメルが次の巻を運べるのか尋ねると、ようやく帳簿が出てきた。
俺は絵の多い薄い本を選んだ。子供が家へ持って帰れる重さがよかった。エメルは子供の手にも収まるか俺に確かめてから、商人へ次の入荷を尋ねた。
「先生、これでお仕事は終わりですか」
「ああ。助かったよ。ここからはお前に任せる」
「では、市へ参りましょう。今日は露店もたくさん出ています」
「いいな。案内してくれ」
荷物を預け、手袋を外したエメルと露店の間へ入った。
先に足を止めたのは俺だった。
広場の端に木の盤が並んでいた。交差する道を二組の駒が進み、相手の旗を取れば勝ちになるらしい。老人二人が打っていたが、一人の駒が急に後ろへ回り、見物人が揃って声を上げた。
「今の、どうして通れる?」
「橋の駒です。道を一つつなぎ替えられます」
エメルが隣から教えてくれた。
空いた盤を貸してもらう。彼女は駒を種類ごとに並べ、俺の前へ旗を置いた。
「旗は取られない場所へ」
「それは分かる」
「最初は皆さんそう仰います」
「始める前から俺が負けることにするな」
「では、勝ってから仰ってください」
俺は椅子を引き直した。エメルは自分の旗を俺によく見える場所へ置いた。
一局目は彼女に動かし方を教わりながら打った。小さい駒を前へ出し、大きい駒で道を守る。俺が相手の駒を一つ取ると、エメルは涼しい顔で言った。
「はい。そちらは差し上げます」
次の一手で俺の旗が消えた。
さっきまで道がなかった場所に橋が一本。そこを通っていたらしい。
なるほど。面白い。
それはそれとして、こんな速さで負けるつもりはなかった。
「今のは説明の途中だったな」
「はい。練習です」
「では、もう一回」
エメルは口元へ手を当て、駒を戻した。
二局目は橋を先に狙った。あれさえなければと思ったのだが、俺が橋へ向かっている間に別の道から小さな駒が入り込んだ。
「先生。お旗ががら空きですよ」
取った本人が教えてくれた。
俺は背筋を伸ばした。
「今ので大体分かった」
「それはよかったです」
「次を本番にしよう」
「先生。本番へたどり着く前に日が暮れます」
「今決めた。本番は次だ」
「負けたら次も練習だったことになりますか」
「今度はしない。もう一回頼む」
向こうの老人が咳をした。エメルは俺の返事を待たず、取った旗を俺の手元へ戻した。
「では、本番で私が勝ったら、残りの午後は私の行きたいところへ付き合っていただけますか」
「もちろん。もうそのつもりだったぞ」
「でも先生、勝つまでここにいらっしゃいそうなので」
老人が今度は隠さず笑った。
広場には布屋も焼き物も、湯気を上げる屋台もある。そのどれも見ないまま、エメルを盤の前に座らせたきりだった。
「悪いな。つい夢中になった。勝っても負けても、これが終わったら行こう。お前と出かけたくて来たんだから」
エメルが一瞬、駒を持つ手を止めた。
「……では、こちらも早く終わらせませんとね」
「ああ。手は抜くなよ」
「もちろんです」
エメルは盤の上へ身を乗り出し、橋の駒を自分の側へ引いた。
「では、勝ちに参ります」
「さっきまでは違ったのか?」
「先ほどもです」
向こうの老人まで笑った。俺も椅子を寄せ、旗を奥へ下げた。
三局目の終わりまで、俺には勝ち筋があった。あったと思う。
最後に中央の駒を取った瞬間、エメルが端へ置いていた橋が動いた。
俺の旗は音もなくエメルの手へ渡った。
「そこから来るのか」
「先生。今度もなかったことになさいますか」
「いや、今度こそ覚えた。次は負けないぞ」
「ふふ。楽しみにしています」
盤を返し、エメルの隣へ立った。
「よし。今度はお前の行きたいところへ行こう」
「はい。まずは食事にしましょう」
エメルが選んだのは広場に面した小さな屋台だった。
彼女は少し迷ってから鍋を覗いた。麦を煮たものに、肉と酸っぱい実の汁をかけるという。
「先生も同じもので?」
「食べてみたいな」
皿を受け取って石の縁に腰を下ろした。少し間を空けた俺の隣へエメルが座る。布袋は自分の外側へ置いた。
「こちらへ寄ってもよろしいですか」
「ああ」
頷くと、肩が触れそうなところまで近づいてきた。
食べ始める前から隣が気になった。
ひと匙食べる。酸味のあとに肉の脂が来た。
「うまいな」
「よかった」
エメルも食べ、ようやく肩を緩めた。
俺はもうひと匙すくった。
「そういえば、お前は昔から酸っぱいものが好きだったな」
「……覚えていてくださったんですか?」
「ああ。十年前も森で拾った木の実は酸っぱいのばかり選んでただろ。俺は甘いのを探してたのに」
「先生にも食べていただきましたね」
「そうだ。あのときはずいぶん酸っぱかった」
「先生、すごいお顔をされていました」
エメルが声を立てて笑った。
「今ならもう少し平気だと思うぞ」
「でしたら、汁をもう少しかけましょうか」
「いや、それは遠慮しておく」
「ふふ。残念です」
エメルは自分の皿へ酸っぱい汁を足し、もうひと匙食べた。
食後は布屋へ寄った。
エメルは薄い緑のリボンを手に取ったが、値段を確かめただけで戻した。
「買わないのか」
「今日は見に来ただけです」
「似合いそうなのに」
エメルがもう一度リボンを取ると、店の人が鏡を持ってきた。
俺は一歩下がったが、すぐ袖をつままれた。
「先生。ここで見ていてください」
「……そんなに近くで?」
「先生に見ていただきたいんです。似合うか教えてください」
エメルは俺の袖を離し、緑のリボンを髪に当てた。いつもの飾りより柔らかな色だった。
「うん。それがいい」
「では、これを」
代金は彼女が払った。店を出ると小さい包みを袋の一番上へ入れる。
「あれ、俺が言わなかったら置いてきたのか?」
「迷っていました。でも先生にそう言われると、欲しくなってしまって」
「じゃあ、買ってよかったな」
「はい。着けるたびに今日を思い出せますから」
「次に着ける日、教えてくれ」
「では、着けて会いに参りますね」
エメルは嬉しそうに包みを確かめた。
広場を出る手前で、絵地図の束が目に入った。
エメルは商都の絵を一枚広げた。青い屋根が川の両側へ並び、橋が細かく描き込まれている。
「お前の家は?」
「この窓です。ただ、こちらの道は木で隠れています。一本手前へ曲がると、小さい花の庭があるんですよ」
「よく見つけたな」
「最初は、道を間違えて。次の日からは、わざと寄りました」
絵にはない路地を、彼女の指が辿った。
「見たいな。お前が歩いてるところ」
「では、絵と違うところは私がご案内します」
エメルは絵地図を買った。
丸めた紙をリボンの包みと同じ袋へ入れた。
帰り道、焼き物の店でエメルが足を止めた。
薄い緑の線が入ったカップを取り、持ち手へ指を通す。こちらを見てから店主へ代金を払った。
「先生のお家で使います。置いてもよろしいですか」
「棚の右なら空いてる。昔のも残ってるけどな」
「はい。あちらも好きです。でも今日は自分で選んだものを」
包みを抱えた彼女へ俺も頷いた。
その店で小さな盤も見つけた。
俺が足を止めると、エメルは今度は先に笑った。
「先生。今日はもう勝負は終わりました」
「分かってる。家でもできるように一つ買っていこうかと思って」
「また私と遊んでくださるんですか?」
「ああ。次は勝ちたいからな」
小さな盤を買い、店の人に駒に使えそうな木片も見せてもらった。
エメルが横から小さいものを選んだ。
「旗は見分けがつくようにしてくださいね」
「そうだな。目立つ色で塗ろう」
「今日も、先生の旗は何度か行方不明になりましたから」
「次はちゃんと守るぞ」
「期待しています」
エメルが笑ったので、俺は木片も一組分包んでもらった。
帰宅すると、アカネが門まで来た。
「遅かったね。教材、そんなにあった?」
「買い物は朝に終わった。そのあと遊んでた」
エメルが俺から木片の袋を受け取った。
「先生がもう一回と仰ったので」
「何回?」
「本番は一回です」
「そこを強調するな」
俺が袋を持とうとすると、エメルはそれを自分の胸へ寄せた。
「今日は先生とたくさんお話しできました」
「ああ。楽しかったな」
エメルは木片の袋を持ったまま、俺の隣へ並んだ。
アカネが俺を見た。
「二日後は私と二人だからね。勝負に負けてもそこは変えないでよ」
「分かった。弁当も作る」
シロが台所から顔を出し、エメルの布の包みを見た。
「それ、何?」
エメルはすぐには開けなかった。
「今度、着けたら見てください」
エメルは新しいカップを洗い、棚の右へ置いた。シロはその隣の古いカップを下ろし、俺の前へ運んできた。
「先生の分、淹れる」
「私もいただけますか」とエメル。
「自分のは、自分で」
シロはポットを抱えたまま、俺の隣へ座った。
アカネはエメルから木片の袋を受け取り、中を覗いた。
「それもエメルと選んだの?」
「ああ。次は勝つために」
「次も私と遊んでくださるそうです」
エメルが言い添えた。アカネが袋を卓へ置いた。
その夜、アカネが台所で古い鍋を洗っていた。
「エメル、今日は楽しかったって?」
「ああ。俺も楽しかった」
「ふうん。じゃあ明日は私の料理を食べて。みんな国へ戻る前に一回だけ」
鍋の底が少しへこんでいた。十年前、粥を何度も焦がした鍋だ。
「分かった。明日は一番に味見する」
アカネは背を向けたまま、古鍋を炉の真ん中へ置いた。
戸口のシロは、その鍋とうちの炉を見比べていた。




