第18話 シロと空中散歩。見たい場所まで道が伸びる
北行きの馬車へ乗る前に、鞄の中をもう一度確かめた。
直した手袋と、シロが貸してくれた本。両方とも入っている。
切符と途中の宿を手配し、二日目の夕方には北の城下町へ着いた。
門の脇に白い髪が見えた。
窓から手を振ると、シロが走り出した。
「先生!」
馬車が止まるころには、もう扉の横にいた。
「……本当に来た」
「ああ。約束しただろ」
降りて顔を上げたところへ、シロが飛びついてきた。
「おっと」
受け止めると、背中に回った腕に力がこもった。
「会いたかった」
「ああ。俺も会いたかったよ」
シロは顔を肩へ埋めた。外套の冷たさが首に触れる。いつからここで待っていたのだろう。
俺も彼女の背に腕を回した。
御者が鞄を下ろしてくれたので、礼を言った。それでもシロは離れなかった。
「シロ。荷物を受け取らないと」
「……もう少し」
声が近かった。俺は鞄へ伸ばしかけた手を戻した。
「そんなに嬉しいのか?」
シロが顔を上げた。目元が少し赤い。
「先生から会いたいって、言ってくれたから」
笑おうとして、うまくいかない顔だった。
「……ずっと待ってた」
「遅くなってごめんな」
シロは首を振った。それから、ようやく笑った。
「来てくれたから、いい」
門の兵たちもこちらを見ていたが、シロは気にせず俺の手を取った。
「行こう。先生の部屋、見て」
「鞄は俺が持つよ」
「うん。じゃあ、こっちの手」
空いている方の手を握られた。シロはそのまま歩き出した。
「シロ、少し待ってくれ」
思ったより速い。鞄を持ち直すと、彼女が足を止めて振り向いた。
「……ごめん。早く見せたくて」
「ああ。楽しみにしてるよ」
シロは嬉しそうに頷き、今度は歩幅を合わせてくれた。手はつないだままだった。
街へ入ると、門の前より風が弱まった。
道の脇に低い石の壁があり、家と家の間には厚い布が張られている。
「この壁で風を避けてるのか」
「うん。私も職人さんと作った」
石を積む間だけ魔法で支え、完成したら消すのだという。
通りの角でシロが壁を指した。折れ曲がった向きに沿って歩くと、確かに風の当たり方が変わった。
「面白いな。子供たちにも話してやりたい」
「じゃあ、絵も描く」
「ありがとう。明日は街を歩いてみたいな。お前がいつも見てるところを」
シロはすぐに頷いた。
「案内する。……午後は、二人で行きたいところもある」
「どこだ?」
「明日、見せる」
少し得意そうだった。俺もそれ以上は聞かずに、明日の楽しみにした。
城では、シロの部屋の隣へ案内された。
窓から城下町が見える。炉の前には椅子が二つあり、机には白いカップが二つ並んでいた。
「ここを使って。こっちの窓から街が見える。机は――」
「待て待て。先に鞄を置かせてくれ」
シロはつないだ手を見て、慌てて離した。
「……うん」
少し頬が赤い。俺は鞄を下ろし、彼女の隣へ戻った。
「それで、机は?」
シロが顔を上げ、窓の近くを指した。
「いい部屋だな。ありがとう」
「窓が大きい部屋。本を読む机。それから、私の部屋の隣」
最後だけ声が小さくなった。
「すぐ会いに来られるから」
「じゃあ俺からも行けるな」
シロがぱっとこちらを見た。
「……来てくれる?」
「ああ。隣だろ?」
「うん」
嬉しそうに頷いて、さっそく隣の扉を教えてくれた。
鞄から直した手袋を出して渡した。シロはすぐに指を入れる。
継ぎ糸の色を説明しようとしたが、彼女は手を開いたり閉じたりしていた。
「ぴったり」
「よかった。ちゃんと合うか気になってたんだ」
シロが手袋を見つめたまま聞いた。
「これ、私の手を思い出しながら直した?」
机で紙を押さえる指や、祭りでつないだ手を思い浮かべたことはあった。
「そうだな。お前が使うところを考えながら縫ったよ」
「……そっか」
シロは手袋をはめたまま俺の手を握った。
「大事にする。また破れたら、直して」
「ああ。持ってこいよ」
炉の前に座ると、シロはもう一つの椅子を隣へ動かした。肩が触れる距離だった。
茶を飲みながら窓の外を眺めていると、肩にそっと重みがかかった。
「先生。今日はもう帰らない?」
「帰らないよ。発つのは三日後の朝だろ」
「うん。分かってる」
シロは俺の肩へ頭を預けたまま言った。
「でも、聞きたかった」
カップを机へ置き、俺も背もたれに身を預けた。
「村で見送った朝、もう困らせないって言っただろ」
「……うん」
「ああ言わせたのは俺だな。お前が遠慮してくれたのを、褒めたりして」
シロは黙っていた。
「俺も寂しかったんだよ。もう少しいたいって、言われなくなって」
「先生も?」
「ああ。だから、言ってほしい。俺も、できないときは言うよ」
シロは少し考えた。
「じゃあ、夕飯も隣がいい」
「いいよ」
「そのあと、本を一緒に読みたい」
鞄から本を出すと、シロは挟んであった紙を抜いた。
「ここ。まだ読んでない?」
「橋の絵のところまでだよ。続きを教えてくれ」
シロが本を二人の間へ置いた。
村では聞かなかった話を、その晩は夕食に呼ばれるまで聞いた。
翌朝、朝食を終えると街へ出た。
シロは本屋や広場を案内してくれた。通りの人に何度も頭を下げられ、そのたびに小さく手を振っている。
菓子屋で焼き菓子を一つずつ買うと、シロは自分のを半分に割った。
「先生、こっちも食べて」
「じゃあ俺のも半分やるよ」
味が違うのかと思ったら、同じだった。
「同じのを買ったんだな」
「……うん。一緒に食べたかったから」
隣のシロと顔を見合わせて笑った。
昼食のあと、彼女は俺を城壁沿いの石段へ連れていった。
「昨日言ってたところか?」
「うん。上から街を見る」
衛兵に声をかけ、見回りの通路へ上がった。
屋根の向こうに市場が見える。その先には川があり、雪の残る山まで続いていた。
「すごいな。あれが今朝歩いた道か」
「もっと見えるところへ行こう」
シロが手を伸ばした。
黒い床が城壁からせり出す。両側に手すりができ、道は塔の方へゆっくり伸びていった。
「ここ、歩ける?」
「歩ける。先生と二人で行きたかったの」
足元を覗くと、荷車がずっと下を通った。
「……高いな」
「やめる?」
「いや。行ってみたい。手をつないでてくれるか」
シロは笑って俺の手を取った。
「帰る道も残す。戻りたくなったら言って」
「ああ。頼むよ」
衛兵に行き先を確かめてもらい、俺たちは一歩ずつ進んだ。
床は揺れなかった。手すりを掴んでいた指を少しずつ緩める。
壁の陰を抜けると、川の橋まで見えるようになった。
「あそこまで行けるか?」
「うん」
道がもう少し伸びた。さっきまで塔に隠れていた街並みが、横へ広がっていく。
「こっちからだと、川が屋根の上にあるみたいだ」
「じゃあ、こっちは?」
道が塔の横へ回った。俺もつられて進む。川の向こうに市場が現れ、さっきの道が見えなくなった。
「これ、一日歩いても終わらないぞ」
「先生が帰ってこないなら、それでもいい」
振り返ると、シロは俺と目を合わせたまま笑った。
「へえ。川の向こうにも家があるのか」
「……先生」
「ん?」
「私も見て」
振り向くと、シロが少し頬を膨らませていた。
「せっかく二人なのに」
「悪い。お前がすごいものを見せてくれるから、つい」
「じゃあ、今度はこっち」
手を引かれた。塔の脇で道が少し広がり、二人で立てる場所になった。
手すりに囲まれていて、風も弱い。街の人の声はここまでは届かなかった。
「ここに先生と来たかった」
「ああ。いい場所だな」
シロは俺の正面に立った。
「……抱きしめて」
俺は両腕を広げた。
シロが胸へ飛び込んでくる。背中へ腕を回すと、彼女はほっと息を吐いた。
「本当は、来てほしかった」
「ああ」
「先生が困ると思うと、言えなかった。でも、一緒に歩きたかったし、本も読みたかった」
顔を上げ、まっすぐに俺を見た。
「こうしてほしかった」
「俺も、来てよかったよ」
もう少し強く抱きしめた。
「お前とこうしてるのが嬉しい」
シロは目を閉じた。しばらく何も言わず、俺の胸へ頬を寄せていた。
街から鐘が聞こえた。だが、まだ戻る時間には早かった。
「……もう少し」
「ああ」
シロは頬を俺の胸へ押しつけた。俺も腕を解かずにいた。
帰り道では、シロが黒い床を城壁沿いに伸ばしてくれた。手をつないで歩くのにも、もう慣れていた。
「あの角からも、街が見えそうだな」
「うん。少し曲がる」
道が伸びたところで、真っ白な布が目の前へ膨らんだ。
「先生、止まって」
シロに腕を引かれ、立ち止まる。窓から干した洗濯物が、鼻先をかすめた。
「陛下! 今日はこんなところまで?」
窓から顔を出した女性へ、俺たちは揃って頭を下げた。
「ごめんなさい。すぐ戻る」
シロは来た道へ俺を引いた。安全なところまで戻ると、口元を押さえている。
「笑ってるだろ」
「先生が見たいって言うから」
「お前も、一緒に来ただろ」
シロがとうとう声を上げて笑った。俺も笑ってしまい、手すりを掴んだ。
石段を下りてから、二人であの窓を探した。地上からではどれも似て見えたが、白い布が風に膨らむと、すぐに分かった。
城へ戻ると、文官がシロを待っていた。
翌朝に予定されている仕事の確認だった。シロは紙を受け取り、俺へ向き直った。
「先生。明日の午前中、待ってて」
「ああ。部屋にいるよ」
「午後は空けてあるから」
文官が去ってから、シロは俺の手元の本を見た。
「一人で先を読んじゃう?」
「どうしようかな。お前が戻るまで待とうかな」
「……待ってて」
俺は頷いた。
滞在三日目の午前中、シロは仕事へ向かった。
俺は街の地図を広げ、昨日歩いた塔を探した。二人で曲がった空中の道を描き足したが、途中から怪しい。足音がするたび、シロが戻ったかと扉を見た。
昼前、扉が叩かれた。
「先生。終わった」
「おかえり」
立ち上がって迎えると、シロは机の本を見た。
「どこまで読んだ?」
「ほとんど進んでない。早く戻ってこないかと思ってた」
シロが目を丸くした。
「……寂しかった?」
「ああ。今日はもう少し俺に付き合ってくれ。お前の話が聞きたいし、俺の話も聞いてほしい」
シロは嬉しそうに笑った。
「うん。午後はずっと一緒」
昼食を終え、二人で本屋へ行った。一緒に読んでいる本の次の巻が見つかり、買うことにした。
帰りには木工職人の店にも寄った。部屋に本を置く棚が欲しいと、朝食のときに話していたのだ。
職人が紙に描いた棚を指し、俺に大きさを聞いた。
「この本が入れば。あまり窓を塞がないくらいで」
「横は、もう少し広く」
シロが口を挟んだ。
「そんなに持ってこないぞ」
「次も来るでしょ。増えるから」
真面目な顔だった。俺は笑って頷いた。
「そうだな。地図も置きたいし」
「私の本も」
「じゃあ二人で使うか」
シロは頷き、職人が描き足すところを熱心に見ていた。
城へ戻り、実際に置く場所も測った。窓の下へ、光を遮らない高さの棚を置く。俺も紙の端を押さえ、シロが寸法を書き込んだ。
最後の夜も、炉の前で並んで本を読んだ。
橋の町を出た旅人が、次の港へ着く。二人で先を予想すると、シロと俺では会いたい人物が違った。
「先生は職人さんばっかり」
「だって、あの橋をどうやって作ったか気になるだろ」
「私は船の人。次はどこへ行くのか聞きたい」
先を読むと、どちらの予想も外れた。シロが声を上げて笑う。
俺も笑い、一つ前のページへ戻った。
寝る時刻になって本を閉じると、シロが表紙を撫でた。
「続き、明日読みたい」
「……俺もだ」
明日の朝には出発する。俺は本を鞄へしまいかけて、机へ置き直した。
「これは置いていくよ。次に来たとき、ここで一緒に読もう」
「先に読んでもいい?」
「いいけど、俺には教えないでくれ」
シロは少し考え、首を振った。
「やっぱり待つ。先生の顔も見たいから」
「また予想を外すかもしれないぞ」
「それも見たい」
俺は笑って、紙を挟んだ本を渡した。
翌朝、馬車の出る門までシロが送ってくれた。
朝食を一緒に食べた部屋には、もう俺の荷物はない。本だけが机に残っている。
門の前で鞄を御者へ渡すと、シロが呼んだ。
「先生。帰ってほしくない」
はっきりした声だった。
「もっと一緒にいたい。今日も本を読みたかった」
「ああ。俺もだよ」
シロは唇を結んだ。目元が赤くなっている。
俺から抱き寄せると、彼女は両腕を背へ回した。
「帰りも町で一泊して、明日の夕方には村へ着く。その次の朝、子供たちと川へ行く約束をしてるんだ」
「……うん。聞いた」
シロは胸へ顔を寄せたまま頷いた。
「でも、寂しい」
「俺も寂しいよ。まだお前と話したいことがある」
背中に回っていた腕が、少しずつ緩んだ。
「じゃあ、手紙に書いて。川で何をしたかも」
「書くよ。お前も棚ができたら教えてくれ」
「うん。……先生、また来てね」
「ああ。また来る」
シロはようやく顔を上げた。
「次は私も会いに行く。会いたくなったら、言うから」
「待ってるよ」
御者に呼ばれ、俺は馬車へ乗った。
窓から手を振ると、シロは両手を大きく振ってくれた。
「先生!」
「何だ?」
「会いに来てくれて、嬉しかった!」
「俺も会えて嬉しかったよ!」
シロが笑った。馬車が門を抜けても、まだこちらへ手を振っていた。
俺は姿が見えなくなるまで窓の方を向いていた。
あの部屋に置いてきた本の続きが読みたい。
シロと並んで、また予想を外して笑いたかった。




