第17話 シロが遠慮するようになった。それを褒めてしまった
商都から村へ戻って五日後、シロが来た。
町で会談を終え、隣家へ二泊するという。アカネも来ていた。明日の午後には、前から約束していた水車へ二人で行く。
俺は授業があり、その日は夕食だけ一緒にした。
商都の話をすると、シロは聞いてくれた。魚の焼き物、夜市、二人で見た運河。エメルの顔を思い出して、つい頬が緩んだ。
食べ終えたシロが、鞄から本を出した。
「北の本屋で見つけた。先生、前に読みたいって」
「ああ。これ、探してたんだ」
旅人が各地の暮らしを書いた本だった。シロは途中に挟んだ紙を抜き、俺の前へ広げた。
「ここの話、先生と読みたかったの」
古い橋の絵が載っていた。説明を追っていると、アカネが横から覗いた。
「明日の水車も、こんな大きいの?」
「いや、あそこはもっと小さい。中も見せてもらえるか、聞いてあるよ」
「ほんと? じゃあ、飲み物を飲んでからね!」
俺は頷き、水車で出す温かい果実の飲み物の話をした。アカネは甘いものがいいと言い、俺も何を頼むか考えた。
シロが本を自分の方へ引いた。挟んでいた紙を戻して、閉じる。
「シロ、そこはもういいのか?」
「……うん。あとでいい」
俺が手を伸ばすと、本は貸してくれた。シロは鞄を膝へ戻した。
「預かってる手袋も、まだ直せてないんだ。糸は買ってあるから、次に会うときまでには直しておくよ」
「急がなくていい。北では厚い方を使ってるから」
「そうか。でも早めに直してやりたいな」
「……うん」
次に会うのがいつになるかは、俺も聞かなかった。
食器を片づけて戻ると、シロはもう外套を着ていた。
「帰るのか。本、少し読むかと思ってた」
「先生に貸す。明日はアカネと出かけるから、今日は休んで」
「ありがとう。門まで送るよ」
隣家の門まで並んで歩いた。シロは本の話をせず、明日の天気を気にしていた。
「晴れるといいね」
「ああ。おやすみ」
「……おやすみ」
翌日の午後、アカネと水車へ行った。
山から帰って書いた約束を、ようやく果たせた。温かい果実の飲み物は甘く、アカネは一口目に熱さで目を丸くした。
「熱かったか」
「先生が先に飲んで平気な顔するから!」
「俺も熱かった。まだ飲まない方がいい」
彼女は俺を睨み、笑った。
山の人たちの反応はどうかと聞くと、訂正の知らせをまだ回していると言った。すぐには変わらない人もいるが、職人は質問を楽しみにしているらしい。
「次は私も分からない金具のところ。先生、一人でずっと聞いてたら置いていくから」
「一緒に聞こう。お前が飽きるまで」
「私が飽きても、先生は帰らなさそう」
その顔を見られてよかった。
帰り道もアカネはよく喋った。水車の歯車を山の竜舎でも使えないかと、手を回して見せる。
門の前には、荷物を抱えたシロがいた。
「明日の支度か?」
「うん。先生、楽しかった?」
「ああ。水車の中まで見せてもらえたよ」
「よかったね」
シロは隣家へ戻った。夕食も明日の出発が早いからと断り、本はそのまま預かっていてほしいという。
その晩はアカネと食べ、借りた本は一人で開いた。
翌朝、俺は学校へ行く前にシロを見送りに出た。
隣家の門には北行きの馬車が止まっていた。荷物はもう積まれている。御者を急かすことも、護衛を待たせることもなかった。
「最近は無理を言わなくなったな。昨日もアカネとの約束を気にしてくれたんだろ。ありがとう」
外套の留め金を直していたシロの指が止まった。
「……うん。もう困らせない」
「助かるよ。でも何かあったら遠慮せずに言ってくれ」
「……分かった」
シロは馬車へ上がる前にこちらを向いた。
「先生。元気でね」
「ああ。シロも気をつけて。着いたら手紙をくれよ」
馬車が動き出すと、シロは窓から小さく手を振った。俺も手を振った。
授業には遅れずに済む。だが、馬車が見えなくなっても、俺はしばらく門に立っていた。
学校ではいつもどおり授業を始めた。
昼休みに手帳を開く。水車へ行った日にはアカネの名があり、商都へ行った日にはエメルの名があった。北へ行く予定は一つもない。
鞄から借りた本を出し、紙の挟まれたところを開いた。
古い橋の絵が載っている。
『ここの話、先生と読みたかったの』
俺は続きを聞かず、その晩は一人で読んだ。今も字を追えず、シロが本を閉じたときの顔ばかり思い出した。
夕方、机に便箋を出していると、アカネが覗き込んだ。
「先生、何してるの?」
「シロに手紙を書こうと思ってな」
「今朝帰ったばかりじゃん。何かあった?」
「いや。最近は無理を言わなくなったなって、今朝も褒めたんだけど。それが少し気になって」
アカネは向かいの椅子に座った。
「先生。それ、褒めるところじゃないでしょ」
少し怒った声だった。
「本、一緒に読みたかったって言ったんでしょ。困らせないのを褒めたら、次は誘えなくなるじゃん」
俺は本を見た。シロが閉じる前に、一緒に読みたいと言っていた頁だ。
「……あとでって、いつにするかも聞かなかったな。もう帰っちゃったのに」
アカネは便箋の端を指で押さえた。
「私と水車へ行ってくれたのは嬉しいよ。でも、シロにも何したいか聞いてあげて。先生だって、本の続きが気になってたでしょ」
「ああ。あいつの話をもっと聞きたかった。今度は俺が北へ行こうと思う」
「うん。シロも喜ぶよ」
アカネは便箋から指を離した。
「……お前はいいのか?」
「何が?」
「俺がシロに会いに行くの」
「そりゃあ悔しいよ。私だって先生と一緒にいたいもん」
彼女は口を尖らせた。
「でもシロがあんなふうに我慢するのは嫌。……私のところにも、また来てくれるんでしょ?」
「ああ。行きたいよ」
「じゃあいい。……私からばっかり誘わせないでね」
俺は頷き、筆を取った。
手袋がもうすぐ直るから、届けに行きたい。
そう書こうとして、止めた。
手袋を届けるだけなら、次にシロが来るまで待てばいい。
俺はシロと一緒にあの本を読みたかった。彼女が暮らす街を、隣を歩いて見てみたかった。
『シロ。今度は俺から北へ行きたい。お前に会って、一緒にあの本の続きを読みたい。休みを相談してみるつもりなんだが、会える日はあるか』
最後の一文まで読み返し、筆を置いた。
「書けた?」
アカネが身を乗り出した。俺が紙を伏せると、頬を膨らませる。
「ちょっと。私の手柄もあるんだけど!」
「あるよ。ありがとう。でもこれはシロへの手紙だからな」
「分かってる!」
アカネは椅子へ座り直した。
「ちゃんと喜んでくれるといいね」
「ああ」
出発の時刻まで一緒に茶を飲んだ。
「明日は領主たちが来るんだろ。帰ってからも忙しいな」
「うん。先に見られる書類は済ませたけど、あっちは動かせないから」
アカネは残った茶を飲み干した。
「水車、楽しかった。また休み、合わせようね」
「ああ。俺も相談するよ」
門で見送ると、竜は山の方へ飛んでいった。
家へ戻り、手紙を封筒に入れた。
机の端には預かった手袋がある。これも直して持っていこう。シロが着けてくれるところを、自分で見たかった。
数日後、返事が届いた。
『先生、本当に来てくれる? いつなら来られる?』
俺は同僚と休みを相談した。留守の授業を代わってもらい、同僚が帰省する週は俺が二組を見ることになった。
滞在は三泊。行き帰りは途中の町で一泊ずつする。
決まった出発日と帰村日を書き、もう一通手紙を出した。
『ああ。お前に会いに行くよ。この日程でどうだろう』
待つ間に手袋も直し終えた。継ぎ糸の色は少し違うが、今のシロの手に合うはずだ。
次の便の返事には、城の部屋を用意しておくとあった。
その下に、大きな字で一行。
『何時に着く?』
ほかの字の倍くらいあった。
俺は笑って、馬車の時刻表を開いた。
早く知らせてやりたかった。




