第16話 エメルと夜市へ。帰りの船は見送った
夕方の橋では、店の屋根より先に灯りがついた。
細い棒の先へ小さな器を吊り、油を足す。光が一つ増えると、その下に並べた品の色まで変わった。
エメルが青い包みを俺の鞄へしまう。袖を直す布だった。
「濡らさないよう、内側へ」
「今日は雨は降らないだろう」
「先生が川を覗くかもしれませんので」
「今日は気をつけるよ」
「はい。お願いいたします」
言い返せなかった。
橋の入口で、港の掲示が新しくなっていた。昼は見なかった赤い紙がある。
俺は立ち止まった。
「今夜、臨時便が出るのか」
エメルも止まった。
「はい。荷が増えましたので」
「これなら、早く村へ戻れるんだな」
「定期便より、半日ほど」
エメルは鞄の留め具から手を離し、黙った。さっきまで弾んでいた声も聞こえなくなった。
俺は紙を読んだ。今夜出れば、明日の昼には乗り継ぎの町へ着く。そこから馬車なら、明後日を待たずに村へ帰れた。
「知ってた?」
「……仕事場を出る前に。夜市へお誘いしたくて、言えませんでした」
「教えてほしかったよ」
エメルは掲示から目を下ろした。
橋を荷車が通った。俺たちは柱の陰へ寄ったが、手は離れたままだった。
「先生がこちらを知ったら、先に帰ると仰る気がしました」
俺はもう一度、定期便の欄を見た。明朝に乗っても、学校には間に合う。そこは来る前に確かめたとおりだった。
今夜戻れば、荷を片づけて休める。けれど橋の先では、まだ灯りが増えていた。
掲示の赤い紙が、風で鳴った。
エメルは俺の返事を待っていた。さっきのように、夜市の方へ引っ張ってはくれなかった。
「俺がどっちに乗るかは、俺にも考えさせてくれ」
「……はい」
「それで、今夜は残る」
エメルが顔を上げた。
「先生」
「夜市へ行きたい。お前と」
差し出した俺の手を、エメルはまだ取らなかった。掲示と俺を交互に見ている。
「次は先に教えてほしい。帰れるって知ってても、残りたいときは俺が言うから」
エメルが俺の手を取った。さっきより強く握られた。
「……では、閉まるまでお付き合いくださいね」
エメルは夜市の灯りを見た。俺が先に橋へ向かうと、彼女もすぐ隣へ来た。
人の肩の間から、いくつもの色が見えた。
紙の覆いをつけた灯りだった。昼ならただの薄い紙なのに、光を入れると、青いところは深みを増し、赤いところは向こうが透けた。
俺は足を止めた。
「これ、紙が焦げないのか」
「中はガラスの小さい灯具です。紙は外側。お触りになるなら、こちらを」
店の女が、火を入れていない見本を渡した。
細い骨へ、紙が四枚張られている。角を押すと折り畳めた。
「持ち歩けるんだな」
「商隊で運ぶには、その方が便利でね。村の夜市にも持っていくんですよ」
エメルが店の女へ挨拶をした。冬の手前には、俺の村の船着き場にも寄るという。
店先には、色の紙を差し替えられる見本もあった。女が骨を開き、緑の紙を一枚入れると、卓の上へ薄い葉の影が落ちた。
「エメル、これ。お前の緑の服に合いそうだ」
「そちらも。でも、私はこちらを」
彼女が取ったのは、黄色い地に赤い実を大きく描いた紙だった。店の女が同じ柄を四枚そろえ、骨へ差すと、灯りが一つ、熟れたようになった。
「ずいぶんうまそうだな」
「でしょう」
当然のように笑い、明かりの向きを変える。上品な葉の紙は、俺の手に残った。
「店の看板みたいにならないか」
「自分の机に、好きな実があってはいけませんか」
「いや、悪くないな。そっちも見せてくれ」
店の女が、こちらもお試しを、と青い縁取りを渡してきた。許しをもらって、俺も隣の見本へ入れる。
川の底に沈んだような青になった。エメルが二つを近づけると、青い面に赤い実が映った。
「こっちへ置くと、先生の分にも実がなりますね」
「俺は川を作ってたんだが」
「でしたら、水に映った実ですね」
俺が青い灯りを遠ざけると、エメルも赤い実の灯りを近づけた。戻すと、彼女も戻す。灯り二つで場所を取り合い、店の女に、品物を落とさないでね、と笑われた。
どちらからともなく、そっと卓へ戻した。
「一つだけ見るつもりだったんだけどな」
「先生、こちらの実もあります」
「増やすな。腹が減る」
「私もです」
紙を返し、買うのはあとにして菓子の店へ向かった。歩きながらエメルは、あの赤い実が食べられる店まで教えてくれた。
買った菓子は、薄い皮の中へ熱い果実が入っていた。
穴を開けて冷ませばよいと聞き、俺は端を大きく裂いた。汁が紙へ流れた。
「先生。冷ます前に、なくなります」
「大きい方が早いと思ったんだよ」
「開けすぎですよ。ほら、こっちを持って」
紙をもう一枚もらい、二人で包み直した。
エメルの指へ、蜜が少しついた。彼女は気にせず俺の包みを直し、直してから自分の指を見た。
「先生、そこにもついています」
「どこだ?」
「親指です。はい、拭いてください」
俺の菓子は汁がこぼれた分、随分小さくなっていた。エメルが自分の菓子を差し出してくれた。
「こちらへ。熱いですから、少しだけ」
差し出された菓子へ顔を寄せる。
エメルが俺を見たまま、動かなくなった。
「食べていいか」
「……はい。そのために」
かじった。果実の酸味が、甘い皮のあとから来る。
エメルは慌てて菓子を引き、自分も同じところをかじりかけた。直前で止まり、今度は熱心に息を吹きかけ始めた。
「うまいな」
「はい」
「お前が選んだ方、少し酸っぱい」
「好きなんです」
菓子を持ったまま、俺を見た。
運河の張り出しへ寄ると、船が下を通った。
臨時便だった。掲示で見た印が帆にあり、荷を満載して、ゆっくり水を押し分けていた。
エメルも船を見て、握っていた俺の手を緩めた。
俺は自分から握り直した。エメルがこちらを向き、指を絡めてきた。
残った菓子をエメルへ差し出した。彼女がかじるのを待つ間に、船は次の橋へ入り、灯りが一つ隠れた。
食べ終えると、エメルが赤い実を売る店を指した。
「灯りの店へ戻る前に、こちらにも」
「また腹を減らすつもりか」
笑いながら、二人で人の間へ戻った。
翌朝は、定期便へ乗った。
エメルは港まで送りに来てくれた。昼の仕事へ行く服で、昨日買った物の包みを一つ持っていた。
「今度は私の家も見ていただきたいです」
「絵地図の、あの窓か」
「はい。朝は、向かいのパン屋さんの煙が見えます」
「腹が減りそうだな」
笑ってくれた。
俺は鞄の青い布を確かめ、船へ乗った。岸が離れても、エメルの手が見えた。来たときには知らなかった店や道を、今はいくつも思い浮かべられた。
手紙を書く紙を出した。
アカネへは、水車に行く日の候補を書く。シロへは、夜市の灯りと、船を見送ったことを書く。葉の紙を勧めたら、エメルは大きな赤い実を選んだ。その話まで書き、余白が狭くなった。
最後に、残った理由を書いた。
エメルともう少し遊びたかった。
消さずに紙を畳んだ。船の上では上手く描けなかった橋の絵も、そのまま入れた。




