第15話 エメルと服選び。今日は仕事に戻りません
五つ目の鐘が鳴ると、エメルが港の方を向いた。
俺もつられて振り返ったが、見えるのは店の柱だった。
「船か?」
「はい。東からの荷を、下ろす頃です」
「戻るか」
言いかけると、彼女は皿へ視線を戻した。
「戻りません」
魚を一片取り、口へ入れた。
「……悪い。気になるかと思って」
「気になりますよ。ですから、早く食べて布屋へ参りましょう。船のことを考える暇がないくらい、試着していただきます」
「俺を使うのか」
「はい。今日は」
汁をもう少しかけた。俺も真似したら、彼女が半分で止めるよう言った。遅かった。舌の両側へ、鋭い酸味が走る。
「全部かける前に言ってくれ」
「先生がお早いので」
彼女の皿へ少し引き受けてもらった。
港の鐘は止んだ。店の外では、布を積んだ荷車が橋へ向かっている。エメルは見ていたが、席は立たなかった。
食べ終わって布屋へ入ると、店の女がエメルの顔を見て声を上げた。
「女王さま、お仕事のお品でしたら、奥へ」
「今日は私の買い物です」
「それでしたら、こちらを」
棚が開いた。
俺は一歩下がった。家の前で広げられた布を思い出した。また次々と出てきそうだ。
エメルが、逃げかけた俺の袖をつかんだ。
「先生も、こちらへ」
「俺に買えるの、一枚だけだぞ」
「はい。ですから、よく選びます」
最初に当てられたのは青だった。次は灰色、その次は茶色。奥の店員まで布を抱えて出てきた。
「お隣にも、お知らせを?」
「何をですか」
「女王さまがお選びになる色を。次の仕入れに」
エメルの腕に布が増えた。店の外で立ち止まった商人が、窓から俺の肩を見ている。
「俺の上着で決めるなよ」
エメルが吹き出しかけた。店の女は真剣だった。
「ですから、よく見せていただいて」
「先生。背筋を伸ばしてください」
「お前まで」
俺が肩を引くと、窓の向こうで仕入れ帳を開く男までいた。エメルはとうとう笑い、抱えた布へ顔を伏せた。
「仕入れは皆さんでお決めになって。今日は、この人の一枚です」
店の女は残念そうに窓の布を下ろした。ようやく隠れた俺へ、茶色が当てられた。
「最後のは、家にある」
「でしたら、違う色を」
「灰色はどうだ」
「悪くございません」
「じゃあ」
「でも、こちらも当ててみましょう」
緑だった。
エメルのリボンと並べてみると、近い色に見える。店の女がそう言いかけ、エメルが先に布を下ろした。
「お似合いです。でも、先生がお選びになってください」
「お前はどれが」
「そのご質問に答えると、先生が私の顔を見て決めそうですので」
言われて、俺は布へ目を戻した。
青は明るすぎる気がした。灰色なら長く使えそうだった。けれど、青い布を胸に当ててみると、この色の服でエメルと歩いてみたくなった。
「青にする。ただ、仕立てる分まで今は買えないな」
「袖口だけなら、こちらの端布がございますよ」と店の女。
小さく切られた青を当ててもらった。
「いかがですか」
「これなら、俺が直せる」
「では、直ったところを見せてくださいね」
代金を払うと、布は小さな包みになった。エメルはそれを受け取り、棚へ戻った。
棚の端から、細い飾り紐を二本取る。片方ずつ、俺の青へ当てた。
「先生。その布と並べてみせてください」
「お前の分か?」
「はい。今度は私がお選びします」
エメルは少し深い青の方を選んだ。端には小さな銀の飾りがついている。エメルは紐の代金を払い、俺へ包みを返した。
一枚の上着を買うつもりが、二人分の青を持って店を出た。
「先生の青が決まりましたね」
「ああ。次に来るとき着てくる」
エメルは古い茶色の袖をつまみ、青い包みへ重ねた。
「今度は私が見とれますので。逃げないでくださいね」
言って、先に橋の方へ歩いてしまった。
俺は包みを持ったまま、取り残された。
「エメル、待ってくれ」
人の流れへ追いつくと、彼女はもう笑っていた。
「足、速いぞ」
「先生がなかなかいらっしゃらないので」
「さっきの、もう一回」
「今度、着ていらしたら」
俺は青い包みを鞄の内側へしまった。縫い直す袖が、急に二つとも面倒でなくなった。
橋のたもとで、職員に荷を下ろせたと呼び止められた。
エメルは礼を言い、明朝に詳しい話を聞くと答えた。職員は頷き、仕事場へ戻っていった。
エメルは職員を見送っていた。差し出しかけた手を引くと、彼女がその手をつかんだ。
「さて。次は髪の方をお願いします」
青い紐の包みが、彼女の鞄から覗いていた。
橋を渡る。往復する人の流れの中で、手をつないだ二人は少し歩きにくかった。俺が前へ出ると、彼女が引いた。
「離れなくても通れます」
「荷車が来るぞ」
「こちらへ」
昼に教わった張り出しへ、今度は彼女と入った。
肘を置く幅しかないところへ二人で立つ。下を船が通り、乗っている人の話し声が橋の裏で急に大きくなった。
「ここ、昼に俺が教わった場所なんだ」
「よいところですね。二人ですと、狭いですけれど」
「向こうにも張り出しがある。あっちへ回るか」
エメルが肩を寄せた。荷車が去っても動かなかった。
「ここがよいです。次は、私が一人で見ていたところへご案内しますので」
次の船が来るまで、並んで待った。
橋を渡った先の小さな庭で、エメルが足を止めた。石の縁へ鞄を置き、買った紐を出す。
「先生。こちら、結んでいただけますか」
髪の後ろで、今つけている緑のリボンをほどいた。
「自分では、見えにくいか」
「結べますよ。いつもは」
エメルが俺の掌に青い紐を載せた。
「今日は先生にお願いしたいんです」
エメルが背を向けた。髪を片側へ寄せると、襟の上に白い首筋が見えた。
近づいたら、彼女の指が髪を持ち直した。
「ここで、いいか」
「はい」
細い束へ紐を回した。エメルは髪を押さえたまま、俺に任せていた。
銀の飾りが、俺の爪へ小さく当たった。
「引っ張ってないか」
「……痛くはありません」
「じゃあ、もう少しこのままでいてくれ」
「……今、先生の方を向けないんです」
俺も返事に困り、輪を結び直した。首筋に触れないようにすると、今度は自分の指が邪魔だった。結び終わるまで、ずいぶんかかった。
「できた」
手を離すと、エメルはゆっくり振り向いた。鏡は鞄に入ったままだった。
「どうでしょう」
「似合う。そっちを選んでよかったな」
エメルはすぐに俺の手を取った。
「このまま、歩きます」
「直さなくていいか。少し輪が歪んでる」
「ほどきません。今日は」
髪を肩の後ろへ戻すと、青い端が揺れた。俺の結んだ片方だけ少し長い紐を、彼女は花の道でも直さなかった。
花の道は、彼女の絵地図には載っていなかった。
一本手前を曲がり、狭い路地へ入る。壁の上から細い枝が垂れ、白い花が二つ残っていた。
「もう、終わりかけなんです」
「間に合ったな」
「はい」
エメルは二つの花を見上げた。
「先生に見せたいと思ったときは、もっといっぱいだったんですけれど」
「また見られるか」
「来年でしたら」
俺は壁の長さを見た。全部咲いたら、ここを歩く人の肩にまで白いものが落ちそうだった。
「そのときも、呼んでくれ」
「はい。でも今日は、こちらも」
エメルが壁の陰へ回った。白い花を探していた俺には、細い実が房になっているのが見えていなかった。
「これは食える?」
「それは、私も知りません」
彼女はしゃがんだ。髪の青い端が石に触れそうになり、俺が押さえる。二人で実を覗き込んでいたら、庭の主が窓から顔を出した。
「食べたら腹を壊すよ!」
俺たちは揃って手を引っ込めた。
日が傾く頃、エメルが帰りの便の話をした。
俺は明朝の定期便で帰る。乗り継ぎの町で一泊し、次の日の夕方には村へ着く。その翌朝から授業だ。
「宿へ戻る道は、こちらです。港へは橋を一つ」
「紙にも書いてくれたな。ありがとう」
「帰り道まで、ご案内してしまいましたね」
エメルは港の方を見た。
「……まだ、帰ってほしくないのに」
俺が足を止めると、エメルも止まった。
「今言うことではありませんでしたね」
「いや。俺もまだ遊びたいよ」
口に出すと、急に夜の街が気になった。灯りを吊るす柱、鍋を運ぶ男、昼とは別の匂い。
エメルがこちらを向く。
「川の向こうで、夜市があるんです」
「行きたい」
すぐに答えた。
エメルは笑いかけてから、港の方を見た。
何か気になることがあるのだろうか。けれど今は夜市の話を続けたくて、尋ねなかった。




