第12話 アカネとの誤解は解く。でも、好きは取り消さない
「恋人になる返事も、国に関わる約束も、まだしていません」
俺が言い直すと、年配の男が深く頭を下げた。
「こちらの早合点でした。お席は」
「ここで。一緒に食事をしたいので」
隣を見た。アカネは椅子に座ったまま、膝の上の手を握っている。
俺は何か言いかけたが、彼女の方が先に立った。
「私が大きく言ったの。先生は会いに来てくれた。でも、返事はまだ」
係の持つ紙へ目を向ける。
「その一行は消して。王国へは今の話で知らせて。私が頼んだって書いて」
誰も反対しなかった。二脚の椅子が壁へ戻される。
温かい料理を口へ運んでも、味がしなかった。さっきまであんなに知りたかった料理の名前さえ、もう尋ねられなかった。
外へ出ると、アカネが先を歩いた。
「待ってくれ」
「待ってる」
足を止めたのは、明かりの届かない角だった。
「ずっと待ってるよ。先生の返事」
「さっきの言い方は悪かった」
「じゃあ、何て言いたかったの」
彼女が振り返った。
「私、先生が来てくれて嬉しかった。一緒に歩いて、先生も近づいて。……私だけが勘違いしてたの?」
「違う」
「そういう意味で来たんじゃないって、言ったじゃん」
「あの席に座るつもりはなかった、ってことだ。お前と手をつなぎたかったし、昼のことも嬉しかった」
「じゃあ、座ってくれたら」
俺は頷けなかった。村にいる二人の顔が浮かんだ。
「俺はまだ、アカネ一人と恋人になるって返事はしてない」
「……二人がいるから」
「いる。二人のことも好きなんだ」
アカネは強張った顔を、山の灯りへ向けた。
「分かってた。あの椅子の意味、途中で分かった。でも、違うって言いたくなかった」
「うん」
「先生が私を選んだって、もう少し思っていたかったの」
俺はそっと、彼女の手を取った。
「昼のことまで否定する言い方だった。悪かった」
彼女は握り返さなかった。離しもしなかった。
「明日はちゃんと送るから。荷物まとめて」
「ああ」
部屋へ戻り、地図を畳んだ。岩の絵の脇には、明日アカネに聞こうと思っていたことが書いてある。鞄へしまいかけて、手が止まった。
朝の竜舎で、鞍の留め金を尋ねると、係の若い男が膝をつきかけた。
「すぐに新しいものを。お気に召さないのでしたら」
「いや、仕組みを聞きたかっただけで」
男はもう別の係を呼んでいた。乗り手が工具を持ってくる。俺が手を出すと、二人ともさらに慌てた。
昨日までは、覗いてもいい場所を教えてくれた人たちだった。
「替えないで」
アカネの声で、二人が足を止めた。
彼女は俺の隣まで来た。俺の顔ではなく、係たちを見ている。
「昨日、私が言ったことは訂正した。でも、私が先生を好きなのは本当。そこは取り消さない」
若い男がこちらを見た。
「だからって、先生の言葉を私の命令にしないで。質問されたら、知ってる人が答えて。分からなければ、分からないって言えばいい」
「ですが、竜王の」
「私の好きな人だから、何でも言うことを聞くの?」
彼女の尾が地面へ静かに下りた。
「それじゃ、先生が何も聞けなくなるでしょ」
若い男が頭を下げた。アカネはすぐ続けた。
「昨日の知らせを受けた人にも、私から伝える。あなたたちが勝手にしたって話にはしないから」
男が工具を置いたところで、俺も留め金の横へしゃがんだ。
「俺が聞いたことは、アカネの注文にしないでください。知らないから、教えてほしいんです」
男は留め金を俺の方へ向け、風に引かれる側を指した。俺が確かめるまで、今度は取り替えようとせず待ってくれた。
説明が終わると礼を言い、道の向こうで待つアカネのところへ行った。昨日はあれほど俺の袖を引いていた手が、今日は自分の外套を握っていた。
「ありがとう。聞けたよ」
「金具の話、好きだもんね」
「俺の質問を、命令にしないでくれって言ってくれたな。助かった」
彼女は帯を受け取り、俺へ渡した。
「先生、普通に話せない人たちの国だったって、思って帰らないで」
「思ってない。また来たい」
「……すぐそういうこと言う」
アカネは帯を俺の膝へ載せ、金具の向きを直した。
鞍へ上がると、アカネは帯を確かめてから前へ座った。
「帰りは揺れない道にする。帯だけでも乗れるよ」
今日は俺の腕を自分の腰へ回そうとはしなかった。階段を下りてからも手を離さなかった彼女が、今は俺の手を見ようとしない。
俺から腕を回した。
「きつくないか」
「……うん」
「怖いからだけじゃないぞ」
アカネが振り向いた。赤くなった俺を見て、彼女まで顔を赤くした。
「じゃあ、ちゃんと掴んでて」
アカネが俺の手を握ってくれた。俺もようやく息をつけた。
帰り道、昨日と同じ尾根を越えた。
聞きたいことはあったが、昨日のように次々とは出てこなかった。前を向いたアカネは、今、何を考えているだろう。
「あの岩、明日も赤くなるんだな」
ようやく言うと、彼女が頷いた。
「先生がいない朝もね」
「次は俺から誘う。見せてもらうばかりじゃなくて」
「どこへ?」
「水車のところ。温かい果実の飲み物を出すんだって」
「先生、もう調べたの?」
「昨日より前に。帰ってから、日を手紙で書く」
アカネは腰に回した俺の手を確かめた。
「行く。……先生、今も離してないね」
「離した方がいいか?」
「聞かないで。そのまま!」
前を向く声が弾んだ。俺も腕を戻さず、村の屋根が見えるまで、彼女と水車の話をした。
村へ着くと、俺の荷を下ろした乗り手にアカネは自分から礼を言った。
彼女を見送り、鞄を持ち直して家へ向かう。門の前に、いつも紙を売ってくれる商人が立っていた。
「先生。お帰りをお待ちしておりました」
俺は立ち止まった。
その人から、そんな言い方をされたことは一度もなかった。




