第11話 アカネから頬にキス。夜には伴侶の席が待っていた
朝日が岩の間から差したとき、俺はアカネより先に声を出してしまった。
「赤い」
「うん。だから、昨日そう言ったでしょ」
「もっと一面に染まるのかと思ってた。ここの切れ目だけなんだな」
「先生、いちいち確かめるね」
呆れた声のくせに、隣で笑っている。
竜舎を抜け、歩いて岩棚まで来た。早起き勝負は引き分けだ。俺が戸を開けたところに、外套を二枚抱えたアカネが立っていた。
「寒い?」
「少し」
外套を借りるつもりで答えたのに、彼女が肩を寄せてきた。
「これなら、二枚要らなかったね」
「先に外套をくれ。寒い」
「じゃあ、着てから。もう一回、今のところから」
外套を肩へ掛け、今度は俺から肩を寄せた。アカネは岩を見たまま、嬉しそうに笑った。
岩が赤くなったと教えるのに、今度は俺の方から彼女の袖を引いた。
竜舎へ戻ると、若い竜が飛ぶ練習をしていた。
走り、翼を開き、地面を蹴る直前で止まる。アカネは急かさず、首に触れて低く呼んだ。次には少しだけ浮き、すぐ戻った。
「一度できたら、ずっとできるわけじゃないんだな」
「風も違うし、怖い日もあるよ。先生、上から見てみる?」
見張り台へ続く階段を示された。
昨日、竜の背へ乗れたのだ。手すりまである階段に何を恐れることがある。
そう思えたのは半分までだった。
足元の隙間から、竜舎の屋根が見える。さっきまで見上げていた屋根が、靴の下にあった。手すりを掴む手に力が入る。
「……すまん。ちょっと待ってくれ」
アカネは俺を見て、階段脇の踊り場へ座った。
「私も休む」
「すぐ行けると思う」
「うん。私は今座りたい。隣、どうぞ」
助かった。格好はつかなかったが、隣へ座ると膝が動くようになった。
「お前の前だと、もう少し格好よくしたかったんだが」
「先生が?」
「そんなに意外か」
「ううん。……私も昨日してた」
アカネは下の竜を見た。
「怖くない顔。先生を乗せるのは嬉しかったけど、落としたらどうしようって。帯を何回も確かめたでしょ」
「言ってくれれば」
「怖がってる先生の前で私まで怖がれないじゃん」
あれで、金具を何度も確かめていたのか。
「……ちゃんと運んでくれて、ありがとう」
「うん。次も私に頼んで」
彼女がようやくこちらを見た。
「先生も怖いなら隠さなくていいよ。上まで行かなくたって一緒にいられるんだから」
結局、見張り台には登らなかった。
下りるとき、アカネの手を取った。階段が終わっても、どちらも離さなかった。
竜舎の係がこちらへ会釈する。俺がつないだ手を見ると、アカネはむしろ少し持ち上げた。
「見られたぞ」
「見せてるの。隠すためにつないだんじゃない」
俺まで背筋が伸びた。
竜舎を出ても、彼女はゆっくり歩いた。
「どこか痛い?」
「痛くない。早く着いたら、終わっちゃうから」
「次も一緒に歩けばいいだろ」
アカネが足を止めた。尾の先が俺の脚に当たり、今度は彼女の方が慌てた。
顔が近づいた。風で頬にかかった赤い髪も払わずに、アカネは俺を見ていた。
俺もつられて顔を寄せた。近い、と気づいたのに、離れられなかった。
俺の頬へ、アカネの唇が触れた。
顔が離れてからも、さっき風で冷えていた頬だけが温かかった。
「……嫌だった?」
「嫌じゃない」
すぐ言えた。
アカネの顔が赤くなった。俺の方も、きっとひどかった。
「先生も、近づいた」
「うん」
彼女の頬へ触れると、アカネは俺を見たまま掌へ顔を寄せてきた。
尾根の向こうに見たい岩があったが、今は名前を聞く気にもなれなかった。もう少し、アカネの顔を見ていたい。
「次、どこ見たい?」
アカネが聞いた。
「……今はここでいい」
「さっきまで、あんなにはしゃいでたのに」
「落ち着かないんだよ。お前が近くて」
アカネは俺の手を引き寄せ、赤い頬に当てた。
「……私も」
その晩、山の交易を祝う食事会へ招かれた。入口には、席順を記した紙が掲げられていた。俺の名前の横に、見慣れない役職がある。アカネの側近が駆け寄り、慌てて紙を裏返した。
「先生、お席の表記に手違いが」
「何になってた?」
「……ご説明が難しいものです」
何を隠されたのか気になった。俺が首を伸ばすと、アカネが横から紙を押さえた。
「見ないで!」
「何が書いてあるんだ」
「私の隣に座る人、ってだけ。ほんとにそれだけ!」
アカネが大声で言うものだから、近くにいた係が全員振り返った。彼女は慌てて小声にする。
「先生と来たのが、嬉しかったんだって。私がちょっと話したから。……言いすぎたの」
「何て話したんだ?」
「先生が私と飛んでくれたって。手も、つないでくれたって」
「……そこまで言ったのか」
「嬉しかったんだもん!」
係がまた振り返った。俺まで下を向くしかなかった。
夕食には、山の交易を担う人たちも来た。
アカネは俺の隣へ座り、料理の説明をした。山の乳で作った焼き物がうまい。俺が取ると、彼女も同じものを皿へ載せる。
昼間のことを思い出すたび、顔が熱くなった。楽しい一日だった。明日の夕方には村に帰る。それが急に惜しくなった。
「最初のご訪問先に、この山を選んでいただけたとは」
年配の男が杯を上げた。
「アカネの話を聞いていたら、俺も景色を見たくなったので」
「先生が私を選んで来てくれたの」
彼女が笑って重ねた。
俺も最初は笑った。実際にそうだったからだ。
皿を運んでいた人が止まり、男が後ろへ合図した。
「それでは、お迎えする席も、そのように」
壁際の二脚が引き出された。背に同じ竜の紋が彫ってある。
「山の祭りで、竜王が伴侶を紹介する席です。王国へのお知らせにも、お名前を」
筆を持った係が俺を見る。
アカネが俺の袖をつまんだ。二脚の椅子を見て、それから俺の顔を窺う。席を断ろうとはしなかった。
座れば、俺が承諾したことまで国から告げられる。まだ返事はしていないのに。
「待ってください」
杯が卓へ当たり、思ったより大きな音がした。
「俺はそういう意味で来たんじゃありません」
言った瞬間、袖が軽くなった。
アカネの顔から、笑みが消えていた。




