第10話 初めて竜に乗る。アカネの腰を離せない
竜に乗る朝、俺は家の鍵を三度確かめた。
炉の火は落とした。学校の紙は同僚へ渡した。大家にも明後日の夕方には戻ると伝えた。もう忘れ物はない。
「先生! まだ?」
村外の草地からアカネが呼んでいる。
「ああ。今行く!」
鍵を鞄へしまい、草地へ向かった。
巨大な赤い竜が伏せていた。近づくにつれて足が遅くなる。背中は俺の家の屋根ほどの高さにあり、呼吸のたびに上下していた。
「あれに乗るんだよな」
「そうだよ! かっこいいでしょ!」
「ああ。かっこいいな」
竜が首を動かしただけで、一歩下がってしまった。空を飛ぶのは初めてだ。あそこから落ちたらと思うと、足が進まない。
「先生、怖い?」
「……少しな」
アカネは竜の首を撫でた。
「もっと低くなって。先生が乗るんだから」
竜が腹を地面へつけ、近くにいた乗り手が踏み台を運んでくれた。
「まず座ってみよう。怖かったら今日はやめてもいいから」
引き返せると聞いて、少しほっとした。だが、アカネが見せたいと言った山の景色は、俺も見たかった。
「いや。行きたいよ」
「ほんと?」
「ああ。お前と約束したからな」
アカネが嬉しそうに笑った。
「じゃあ私に任せて!」
手を借りて踏み台を上がった。鞍へ座ると地面は思ったより遠く、足を置く場所を確かめながら縁をつかんだ。
アカネが安全帯を締め、金具を引いた。腹の脇へ指を入れて余裕も確かめる。
「苦しくない?」
「ああ。大丈夫だ」
「じゃあもう一回」
「さっきも確かめたぞ」
「うん。でも先生だから」
留め金をもう一度引いてから、アカネは俺の前へ座った。
「先生。私の腰につかまって」
「鞍じゃなくていいのか?」
「うん。先生がちゃんとつかまってるか、私にも分かるから」
腕を回すと、アカネが俺の手に自分の手を重ねた。
「怖かったら強くつかまっていいよ。私がちゃんと連れていくから」
「ああ。頼むよ」
アカネが竜へ声をかけた。大きな翼が開き、風で草が一斉に倒れた。
「ちょっと待っ――」
村の屋根が一斉に下がった。
足元から地面だけが抜け落ちたようだった。畑の畝が細い線になり、道を歩く男の帽子だけが丸く残る。翼が空気を打つたび、鞍の下から低い音が腹に響いた。
腰へ回した腕に力が入る。
「先生! 息して!」
「してる!」
「止まってたよ!」
慌てて息を吐くと、アカネが俺の手を軽く叩いた。
「私がいるから、大丈夫!」
前にある背中を確かめ、少しずつ腕の力を緩めた。もう一度下を見ると、見慣れた家や畑の境が分かるようになった。
学校の裏道が川へ向かって伸びている。普段はまっすぐだと思っていた道が、林を避けて大きく曲がっていた。
「あそこにも道があるのか」
「うん。荷車は通れないけどね」
「知らなかったな」
「先生。下ばっかり見てると酔うよ!」
「でも、すごい景色だな」
アカネが振り向いて笑った。
「でしょ! 先生に見せたかったんだ!」
俺は彼女の腰をつかんだまま頷いた。
「ああ。来てよかったよ」
谷を越えると、揺れが小さくなった。向こうから来る竜の乗り手が、掌を外へ向けて上げた。アカネも肩の高さで片手を上げる。
「今のは?」
「挨拶。帰り道で会ったら、誰でも返すよ」
俺も片手を上げてみた。肩へ力が入り、肘まで突っ張った。
「先生、それだと腕が疲れる。もっと低くていいの」
アカネが俺の肘を軽く下げた。通り過ぎる乗り手がもう一度手を上げ、笑っていた。
「返してくれたぞ」
「うん。山に着いたら、先生もやってみて」
手を彼女の腰へ戻した。下では道が見えなくなり、山の影だけが大きくなっていった。
途中の岩棚へ降りると、足がまだ宙にあるようだった。アカネは水を渡し、俺が座るまで待ってくれた。
目の前に、針のような岩が何本も立っている。
地図で何度も見た印だ。あの間から日が昇ると聞いていた。
「本当に尖ってるんだな」
「地図には、なんて?」
「三角が三つ」
「それじゃ分かんないじゃん」
鞄から出した紙を見せると、アカネは吹き出した。確かに、この三角では岩の形までは分からない。俺も鉛筆を出した。
岩の輪郭を追った。背後で竜が水を飲んでいる。手紙を待っていた家の台所は、もう山の向こうだった。
「朝なら、もっと赤いよ」
「明日、見られるか?」
「起きられたらね。私より先に起きたら、置いていかないで」
「分かった。お前を呼ぶ」
「先生、昔もそれ、言ったよ。川へ行く前」
「あの頃は、三人とも俺より早く起きて待ってたな」
「明日も、負けるつもりはないから」
俺は朝の岩を描く場所を空けて、紙の端へ小さな日の出を描いた。
アカネは地図の片隅にある小さな丸を指した。
「そこは降りられない。岩が崩れてる。もう少し南なら、今も使える」
「ここ、直してもいいか」
「うん。そこから先は、まだ描かないで」
アカネは紙の端を押さえた。指の先には、地図にない岩の稜線が続いている。
「着いたら、私が案内するから」
俺は鉛筆をしまった。まだ見ていない道は、アカネと歩いてから描きたかった。
山腹の竜舎へ近づくと、空にいくつもの影が上がった。
赤い翼が横へ広がり、黒い竜が谷から頭を出す。俺たちの竜が低く鳴いた。腹の下で空気が震えた。
アカネが片腕を上げる。
声は短かった。
群れが割れた。
いくつもの翼が向きを変えた。山の斜面まで俺たちが通れるだけの空間が空く。大きな竜が、俺たちを見ながらそこで待っている。
翼の風が横から抜け、鞍が小さく傾いた。俺はアカネの腰を掴み直した。
アカネが振り向いた。俺が大丈夫だと頷くと、笑った。
さっき群れを割った声で、「大丈夫」と俺一人へ言った。
「……すごいな」
「帰ったよって言っただけ。先生がいるから、近づかないでって」
「あれを全部、覚えてるのか」
「もちろん。あの黒い子は、あとで紹介する。ほら、先生。さっきの」
黒い竜の乗り手が、こちらへ掌を見せた。
俺も腕を上げた。肘は少し下へ。向こうの手が大きく振られ、隣の乗り手も上げる。その隣も。
翼の間から、いくつも手が上がった。乗り手たちがこちらを向いて笑っている。
「おい、増えた」
「帰ったよって、分かったから!」
アカネの声が弾んだ。
俺は片腕の疲れを忘れて手を振った。
「先生、こっちにも。あの人、最初に私へ鞍を見せてくれたの。下りたら紹介する!」
「ちょっと待て。今どの人だ?」
「じゃあ、あとで全部! 明日は竜舎も、奥まで行こう!」
言われた方へ手を振るのに忙しくて、山へ着くまで下を見る暇がなかった。
地面へ降りると、乗り手たちが一斉に頭を下げた。アカネは風の変わり目と、明日の飛行の順番だけ確かめる。俺へ戻ってくるまで、少しかかった。
俺は鞄を受け取り、さっき挨拶を返してくれた人たちへ頭を下げた。名前を聞くと、一度に三人が答えた。
「待って。あとにして。まず、私の家!」
アカネが間へ入ってきた。
「お前が全部紹介するって」
「する。明日もいるでしょ、みんな!」
乗り手たちに笑われた。俺も笑って、差し出された手を取る。
「じゃあ、先に案内してくれ」
アカネは俺を引いて二歩進み、歩調を落とした。
「先生、あの人たちにも挨拶できたね」
「ああ。名前は半分も覚えてないけどな」
「私が全部教える。先生がここへ来たこと、明日には山中の人が知ってるよ」
「そんなにか?」
「私が、ずっと楽しみにしてたから」
言い切ってから、アカネは前を向いた。つないだ手だけが、もう一度俺を引いた。
「夕飯、先生の好きそうなのも頼んだ。明日の朝は岩。昼は竜舎。そのあと、まだ時間あるから」
「そんなに急がなくても、ちゃんとついていくよ」
「急いでない」
そう言いながら、俺の手をぐいぐい引いていた。




