第4章 王子という変数
その日、サロンの空気は最初からざわついていた。
「……本当にいらっしゃるの?」
「ええ、殿下が直々に……」
令嬢たちのひそめた声。
扉の前に、自然と人だかりができている。
理由は一つ。
この国の王太子——レオンハルト・アルディウスが、学園のサロンを訪れるという噂だ。
(……来る)
コニーは、嫌な予感が確信に変わるのを感じていた。
(イベント、完全に始まってる)
本来のシナリオでは——
王子はヒロインに惹かれ、悪役令嬢との婚約は破棄される。
つまり。
(マリアンヌ様にとって、一番危ない存在)
「……コニー?」
隣から小さな声。
マリアンヌが不安そうにこちらを見ていた。
「……何か……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
コニーはいつものように笑ってみせた。
「大丈夫だよ」
(——って言いたいけど)
その時。
扉が開いた。
ざわめきが一斉に止む。
現れたのは、金の髪を持つ青年。
整った顔立ちと、揺るぎない気品。
ただそこに立つだけで、空気が支配される。
「騒がせてしまってすまない」
穏やかな声。
けれど有無を言わせない存在感。
王太子レオンハルト。
彼の視線が、ゆっくりと室内を見渡し——
そして、止まる。
「……君が、リリア嬢か」
まっすぐに向けられた言葉。
「……え?」
リリアが目を瞬く。
「はい……わたしがリリアですが……」
「やはり」
わずかに微笑む。
「話は聞いている。編入して間もないのに、優秀だと」
自然な会話。
だが、その距離の近さは明らかに特別だった。
(来た……)
コニーの拳が無意識に握られる。
(ヒロイン接近イベント)
一方で——
「……」
マリアンヌは静かにその様子を見ていた。
表情はいつも通り。
けれど、その指先だけがわずかに強張っている。
「マリアンヌ」
ふいに、王子が名を呼んだ。
空気が変わる。
「……はい」
マリアンヌは立ち上がり、優雅に礼をする。
「久しいな」
短い言葉。
だがそれだけで、二人の関係が示される。
——婚約者。
リリアの表情が、ほんのわずかに揺れた。
(……婚約者……)
胸の奥が、ちくりと痛む。
理由はわからない。
だが確かに、何かが引っかかる。
「……本日は、どのようなご用件で……?」
マリアンヌの問い。
王子は一瞬だけ沈黙し——
「リリア嬢に、少し話があってな」
はっきりと言った。
その一言で、場の空気が凍る。
(……っ)
コニーの中で警鐘が鳴る。
あまりにも露骨だ。
婚約者の前で、別の令嬢を指名する。
それは——
(フラグ、立ちすぎでしょ……!)
「……わたし、ですか……?」
戸惑うリリア。
「無論、他意はない。少し確認したいことがあるだけだ」
穏やかな口調。
だが拒否を許さない響き。
リリアは無意識に、マリアンヌの方を見る。
「……」
マリアンヌは、静かに頷いた。
「……行ってください」
それだけ。
責めるでもなく、止めるでもなく。
ただ、許した。
「……はい」
リリアは小さく返事をし、王子の後を追う。
扉が閉まる。
残されたのは、マリアンヌとコニー。
そして、重い沈黙。
「……マリアンヌ様」
コニーがそっと呼ぶ。
返事はない。
ただ——
「……平気です」
先に言われた。
「……」
「……あの方は……王太子ですから……」
正しい言葉。
完璧な令嬢としての答え。
けれど——
「……そういう問題じゃないでしょ」
コニーは珍しく、少し強く言った。
「……」
「嫌なら嫌って、言っていいんだよ」
マリアンヌの肩がわずかに揺れる。
「……わたくしは……」
言葉が詰まる。
「……どう思っているのか……」
ぽつりとこぼれる。
「……わからないのです……」
初めての感情。
胸の奥が、ざわつく。
苦しいのに、名前がつかない。
「……ただ……」
小さく、続ける。
「……あの方が……他の方と……」
そこまで言って、口を閉ざす。
それ以上は言えない。
けれど——
「……うん、それ」
コニーはため息まじりに笑った。
「ちゃんと“嫌”ってやつだよ」
「……そう、なのですか……」
戸惑う声。
その時——
扉が再び開いた。
戻ってきたのは、リリアだった。
その表情は、どこか強張っている。
「……リリア?」
コニーが問いかける。
リリアは少し迷ってから——
「……あの方……」
ゆっくりと言った。
「わたしに、“初めて会った気がしない”と……」
空気が凍る。
(……は?)
コニーの思考が止まる。
「それだけではありません」
リリアの手が震える。
「わたしが見たことのないはずの景色を……“共有しているかのように”話されたんです」
ぞくり、とする。
それは——
(記憶のズレ、王子にも……?)
マリアンヌが静かに口を開く。
「……殿下は……何を……」
リリアは、はっきりと言った。
「“君は、あの時も同じ顔で笑っていた”と」
沈黙。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
やがて——
「……ねえ」
コニーが低く言う。
「これ、思ってたよりヤバいかも」
ただの恋愛イベントではない。
“物語”そのものが、歪み始めている。
三人の視線が交わる。
そこにあったのは——
同じ理解。
——このままでは、済まない。
その夜。
それぞれが別々の場所で、同じことを考えていた。
マリアンヌは、“婚約者”という立場と、初めて知った感情の狭間で。
リリアは、“自分の記憶”と“誰かの記憶”の境界で。
そしてコニーは——
(これ、“一周目”じゃない)
確信に近い直感を抱いていた。
(誰かが、前の展開を知ってる)
それが王子なのか、リリアなのか。
あるいは——
(……もっと別の何かか)
物語は、さらに深い層へと踏み込んでいく。
もはやこれは、“恋の三角関係”では終わらない。
運命そのものを巡る、歪な交差点。




