守るための剣
北の設備室の床に、水が溜まっていた。
天井からではない。
壁際の冷却管から、細く噴き出している。
バルクが布を巻き、その上から金具で締めていた。
僕が入ると、顎で床を示す。
「そこの板を寄越せ」
言われた板を渡した。
彼が亀裂の外へ当て、さらに金具を締める。
水の勢いは弱まった。
けれど、壁の目盛りは上がり続けていた。
「二番が、まだ使えない」
リシェが言った。
「補強したところが固まってない。今、回したら台座ごとずれる」
僕は、昨日運んだ板を見た。
留め具はしっかりしていた。でも下の石は、まだ新しい色をしている。
魔力を流しても、固まる時間は縮まらない。
「一番だけで持つ?」
「町全部は、無理」
外で鐘が続いている。
バルクが床から立ち上がった。
「西の区画を閉じる」
「温室も?」
リシェが尋ねた。
「人を出す。作物はあとだ」
僕は戸口へ向かった。
呼び止められる。
「これを持って」
リシェが、小さな金属札を渡した。
中央に薄い石がはまっている。
「外作業用の護符。割れたところを通るなら、ここを押して。顔の周りを少しだけ守る」
「どれくらい?」
「数呼吸。走って外へ出ていいという意味じゃない」
僕は頷いた。
エルナで吸い込んだ、鉄のような味を思い出す。
今度は、説明を聞いてから走った。
*
西の温室には、ユノがいた。
苗を運んでいるのではなかった。
入口で、点検に来ていた老人へ靴を履かせていた。片方の紐が切れ、足に絡んでいる。
「呼びに来た」
僕が言うと、ユノが顔を上げた。
「こっち、支えて」
老人の脇へ入る。
ユノは紐を切り、布で靴を留め直した。
「立てる?」
「ああ、すまんな」
温室の窓が鳴った。
薄い透明な板が振動している。
ユノが最後に帳面を取った。
葉の列へ一度だけ目をやり、戸を閉める。
僕たちは老人の歩幅で進んだ。
ネラが食堂の前へ椅子を並べていた。
歩けない人を、荷車へ移している。門番の男が槍を置き、荷台の縁を押さえていた。
「西は、この人で最後?」
彼が尋ねる。
「温室は。奥の家は確認していません」
「そっちは今、確認が来た。全員だ」
曖昧に大丈夫と言わなくてよかった。
男は手を上げ、遠くの見張りへ合図した。
結界の光が、一段内側へ動いた。
温室が灰色の向こうへ消える。
ユノが唇を噛んだ。
その肩を、ネラが抱いた。
僕は二人から離れ、設備室へ戻った。
*
狭めた結界は、しばらく持った。
外からの負荷は強かったが、処理する範囲を減らした分、目盛りは上限の手前で止まっていた。
リシェは何度も数字を確かめた。
僕は息を整えた。
間に合うかもしれない。
そう思ったとき、床の下で破裂する音がした。
バルクが振り向く。
戸外から、誰かが叫んだ。
「南の蓄魔槽から来る供給管が切れた!」
リシェが石盤に手を当てた。
目盛りが、違う方向へ動き始める。
「残りが落ちてる」
「どういうこと?」
僕が尋ねる。
「動かすための補充が、ここまで届かない。配管の途中が壊れた」
処理する設備が動いていても、その設備を動かす力が届かない。
エルナで教わったことが、頭の中でつながった。
バルクが床を開ける。
下の管が、細かく震えていた。
「向こう側を閉じろ! 漏れたまま送るな!」
使いの男が駆け出す。
リシェは机へ金属の輪を並べた。
エルナから持ってきたものだ。
僕は剣帯へ手をかけた。
「使うんだね」
「うん。でも、先に切れた側を完全に分ける。漏れてるところへ流したら、無駄になる」
僕は剣を抜かずに待った。
外で走る足音がする。
扉が開く。
閉じた、という返事が来る。
リシェが輪を組み、バルクが接続を固定する。
その間にも、目盛りは落ちた。
「急いだ方が」
口にしかけて、やめた。
急いでいる。
僕が言わなくても、二人は急いでいた。
代わりに、受け台を机へ上げた。
リシェが手を伸ばしやすい場所へ、道具を並べた。
「ありがとう」
彼女が短く言った。
「次に、剣」
*
町の装置は、エルナより大きかった。
同じように剣を近づけても、輪に触れる光の幅が違う。
試しに流したわずかな力だけで、リシェは一度止めた。
「抵抗が違う。輪を、もう一段」
彼女がバルクへ言う。
「持つか」
「低い量なら。急に上げないで」
最後の言葉は、僕へ向けられていた。
頷いた。
喉が乾いていた。
「どれくらい使う?」
尋ねる。
「まず、今の範囲を維持する分。直せるまでの時間を買う」
「そのあとに残るのは?」
リシェが柄の結晶へ紙を当てた。
指で、おおよその位置を示す。
「うまくいっても、全体の四分の一くらいは、ここで使うかもしれない」
「最初にあった量の?」
「今、残ってる量の」
僕は数字を頭の中で並べた。
エルナで一割あまり。
さらに、残りの四分の一。
思ったより大きかった。
「もっと減らせる?」
「供給管の修理が早く済めば。でも、約束はできない」
バルクが、窓の外を見た。
視線の先には、人を集めた食堂があった。
僕は剣を受け台へ載せた。
「必要なところで止めてほしい」
「分かってる」
光を流した。
壁の目盛りが持ち直す。
その向こうで、結界を支える低い音が戻ってきた。
窓の外の灰色が、一歩退いた。
僕は手元へ視線を戻した。
柄の結晶の光が、ゆっくりと短くなっている。
力は、痛みも音もなく減っていった。
だからこそ、目を離せなかった。
*
供給管の修理には時間がかかった。
破れた箇所だけを塞いでも、その手前が変形していた。使える部分まで切り戻し、予備の管をつなぐ必要があった。
外では、バルクたちが作業していた。
僕は小屋から動けなかった。
肩が重い。
指先が痺れてくる。
リシェが台の高さを変え、僕の肘の下へ丸めた布を入れた。
「まだ、同じ量?」
「同じ」
「きついなら、言って」
「腕が痺れる。でも、流すのはできる」
彼女が頷く。
僕が黙って我慢する方が、困るのだろう。
途中で一度、外の結界が大きくたわんだ。
僕の指が強張った。
「増やさないで」
リシェの声がした。
「今のは外の負荷。燃料を増やしても、処理できる量は変わらない」
僕は息を吐いた。
何かが起きるたび、もっと強くすればいいと思ってしまう。
剣を持つ手が、その考えを覚えていた。
リシェが外へ合図する。
別の場所で守る範囲が少し縮まり、たわみが浅くなった。
外の人がしている仕事を、信じて待った。
やがて、バルクが戻ってきた。
「つないだ。ゆっくり戻せ」
リシェが石盤を操作した。
僕の剣から流れる光と、床下から届く光が重なった。
「少しずつ、減らして」
僕は力を緩めた。
目盛りは下がらない。
もう少し。
さらに少し。
「止めて」
剣の光が消えた。
結界は、残った。
僕は手を開いた。
痺れた指が、すぐには動かなかった。
*
騒ぎは、それで終わらなかった。
南の門から、笛の音がした。
短く、三度。
バルクが顔を上げる。
「獣だ」
町を守る結界は、風や魔力の流れを整える。
身体を持つものを、何でも弾く壁ではない。そう教えられたのは、設備室へ入った朝だった。
嵐に追われた魔物が、谷から上がってきていた。
僕は剣を鞘へ戻し、立った。
膝が少し笑った。
「アルド」
リシェが呼ぶ。
「門へ行く」
「今、どれだけ使ったか――」
「分かってる。だから、正面から飛び込まない」
自分にも言い聞かせた。
外へ出ると、二頭の影が見えた。
低い姿勢。長い牙。背中に硬い板のようなものが並んでいる。
砦の近くで見たことがあった。
硬い背を狙わず、前脚の内側へ刃を入れる。補助の力があれば、横へ回り込める。
僕は柄を握った。
いつもの力が、来なかった。
出ないわけではない。
でも、身体へ届く速さが違った。強く流そうとすると、傷ついた根元が熱を持った。
足が、思ったところへ届かない。
一頭が門の影から飛び出した。
僕は横へ避けたつもりだった。
爪が外套を裂いた。
右腕が痺れる。
門番が槍を突き出し、獣を遠ざけた。
「下がれ!」
僕は一歩退いた。
守るために力を使った。
それで、次に守るときの力が減った。
頭では分かっていたことが、爪の近さでようやく身体へ届いた。
二頭目は、荷車の陰へ回った。
そこには、まだ避難の荷を下ろしている人がいた。
僕は叫んだ。
「車から離れて!」
獣が跳んだ。
前へ出た。
聖剣を斜めに当て、軌道をずらす。刃は通ったが、浅かった。
重い身体が肩へぶつかった。
足がもつれ、石畳へ転ぶ。
空が見えた。
すぐに、牙が覆いかぶさった。
「顔を下げて!」
リシェの声。
薄い光が、僕と獣の間へ広がった。
作業用の護符だった。
数呼吸だけ守る、小さな膜。
牙が触れ、光が歪んだ。
それでも、頭を退く時間があった。
僕は横へ転がり、荷車の車輪を掴んで起き上がった。
リシェが鉄の棒で車輪止めを外していた。
荷車が傾き、獣の前へ滑る。
「こっち!」
呼ばれた方へ動いた。
彼女の手が、僕の外套を引く。
門番の槍が、荷車の下から伸びた。
獣の前脚が崩れる。
今度は、速さに頼らなかった。
動きが止まる瞬間を待ち、刃の位置を確かめた。
僕は剣を突いた。
手応えがあった。
もう一頭は、バルクと見張りたちが長い棒で路地へ追い込み、門を閉じて退路を外へ作っていた。行き場を見つけた獣が、灰色の方へ逃げていく。
誰も追わなかった。
僕も、追う力はなかった。
*
腰を下ろすと、右腕から血が落ちた。
深くはない。
そう言いかけて、リシェの顔を見てやめた。
彼女は布を取り出し、傷口へ当てた。
手が少し震えていた。
「どこが痛い」
「右腕と、肩。背中も打った」
「息は」
「できる」
ひとつずつ答えた。
彼女は布を巻き終えると、膝の上に手を置いた。
しばらく、動かなかった。
「助かった」
僕は言った。
「ありがとう」
リシェは顔を上げない。
「剣が、前みたいに動かなくて」
言い訳になりそうで、続きを止めた。
「分からなかったんでしょう」
彼女が言った。
「使ったあと、どれくらい変わるか」
「うん」
「次は、先に確かめて」
僕は頷いた。
彼女はようやく顔を上げた。
責める言葉より先に、目の奥の怖さが見えた。
僕が地面へ倒れたとき、彼女も怖かったのだと、そのとき初めて分かった。
柄の結晶は、朝よりも短く光っていた。
あとで測ると、エルナで記録した最初の量から、およそ三分の一を失っていた。
僕はその紙を、剣帯の内側へ入れた。
今度は、数字を見なかったことにはしない。
町の空には、薄い光が残っていた。
その下で、ネラが湯を沸かし始める。
バルクが壊れた荷車を起こす。
ユノが、散らばった工具を拾う。
僕は立ち上がろうとして、リシェに止められた。
「それは、私たちがやる」
僕は座り直した。
剣を膝から下ろし、彼女が戻ってくるのを待った。




