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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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8/14

英雄の似顔絵

 ネラは、僕の手を握った。


 両手で。

 指の付け根に、小さな火傷の跡がいくつもあった。


「ありがとう」


 僕は顔を上げた。


「本当に、ありがとう」


 通りを歩く人が足を止めた。

 ネラは気づかないまま、僕の手を握り続けている。


 どう返せばいいのか分からなかった。

 エルナへ来てから、その言葉には、いつも事情が添えられていた。

 子どもを連れ戻したこと。結界を動かしたこと。目の前で僕がした仕事への礼だった。


 今、彼女が見ているのは、刷り物の中の男だった。


「夫がね」

 ネラが言った。

「魔王軍に、殺されたんだよ」


 リシェの足音が止まった。


     *


 ネラの夫は、鋳物を作っていた。


 鍋や、小さな部品。

 バルクと温室の設備を作ったのも、その人だという。


「町の外にも仕事があってね。南のレムナへ、品物を届けに行った」


 食堂へ戻ると、ネラは刷り物を机へ置いた。

 僕たちに椅子を勧めたが、自分は座らなかった。


「二年前のことだよ。あっちは軍の設備も多かったから、危ないと言ったんだけど」


 彼女は紙の端を伸ばした。

 皺は、戻らなかった。


「いつもと同じ、鍋の注文だった。軍の仕事じゃない。町の店が、仕入れてくれることになってた」


 僕はレムナを知っていた。

 魔王軍の攻撃で、北の区画が焼けた町だ。


 討伐隊に加わるより前、避難民の護送を手伝ったことがある。

 荷物を何も持たず、同じ名前を呼びながら歩く女性がいた。誰を探しているのか尋ねると、夫だと言った。


 その女性は、ネラではなかった。

 同じような人が、ほかにもいたということだった。


「荷車だけ戻った」

 彼女は言った。

「町の人が運んできてくれた。届けた鍋は、半分溶けてたって」


 リシェが、机の下で手を握った。

 僕には見えたが、ネラには見えなかった。


「遺体は?」

 尋ねてから、聞かない方がよかったかと思った。


「分からない。見つかった人たちは、まとめて葬ったそうだよ」


 ネラはようやく椅子へ座った。


「だから、終わったって聞いても、実感がなかった」


 紙の中で、男が剣を掲げている。

 その背後には、実際よりも大きく、まっすぐな王国の旗が描かれていた。


「でも、あんたがここにいるなら。本当に、倒したんだね」


 僕は頷いた。


 その事実だけは、変わらなかった。

「僕たちで、倒しました」


 ネラは目を閉じた。


 しばらくして、涙を拭った。

 その間、リシェは一言も話さなかった。


     *


 ネラが厨房へ戻ったあと、食堂には僕たちだけが残った。


 鍋の蓋を取る音がする。

 何かを切る音がする。


 人を亡くした話のあとにも、夕食を作らなければならない。

 そのことが、不思議なほど胸に残った。


「あなたが、助けに行った町なの?」

 リシェが尋ねた。


「行ったのは、攻撃のあと。避難する人を運んだ」


「……魔王軍だったって、確認されてるの」


 僕は彼女を見た。


 リシェはすぐに視線を落とした。

「ごめん。今、聞くことじゃなかった」


 僕は答えを急がなかった。


 彼女が疑いたくなる理由は分かった。

 エルナで花を見たとき、僕も同じことをした。別の誰かだと思おうとした。


「生き残った人の証言がある。僕が着く前に、町の守備隊とも戦ってる」

「そう」


「でも、その攻撃を誰が決めたのかまでは、僕は知らない」


 リシェの指が動いた。

 何かを掴みかけて、やめたように見えた。


 魔王が直接命令したのでなければ。

 誰かが勝手にやったのなら。


 僕にも思いつく言葉だった。

 彼女は、それを口にはしなかった。


「観測柱を、見てくる」

 立ち上がる。


「僕も」

「先に、食事を取って。あとで交代して」


 戸が閉まった。


 僕は机の上の絵を見た。

 そこに描かれた男には、迷いがなかった。


 僕は、自分が少し羨ましくなった。


     *


 ユノが戻ってきたのは、それから少しあとだった。


 手には、布で包んだ道具があった。

 机の紙を見つけ、歩みが遅くなる。


「これ、街道から?」


「そうみたい」


 少女は絵を覗き込んだ。

 眉を寄せる。


「似てない」

「僕も、そう思う」


「ここ、こんなに強そうじゃない」


 頬の線を指さされた。

 僕は返す言葉を探し、見つからなかった。


 ユノは隣に座った。

 道具を机へ置き、紙を自分の方へ引く。


「母さん、泣いた?」


「……うん」


 ユノが頷いた。

「また泣くと思ってた」


 僕は厨房へ目をやった。

 ネラは見えなかった。


 温室の帳面の字を思い出した。

 途中で変わった、書き手。


「前の帳面は、お父さんが?」

「うん」


 ユノは紙の絵を見つめたまま答えた。

「昔は、目盛りを読んでたのが私。書くのが父さん。自分で書けるようになってからも、ときどき直されてた」


 彼女の指には、黒い汚れが染みていた。

 何度洗っても落ちない、工房の汚れだった。


「バルクさんに、教わってるんだね」

「父さんと一緒に仕事してたから。今も、父さんの道具を使わせてくれる」


 僕は黙って聞いた。


 魔王軍に父親を奪われた子が、魔族の工房で技術を習っている。

 最初に聞いたら、僕は理由を尋ねたかもしれない。


 今は、少しだけ分かった。

 バルクは、ユノにとって、昔から知っているバルクなのだ。


「勇者って、魔族を倒す人だと思ってた」

 ユノが言った。


 僕は背筋を伸ばした。


「だから、昨日、工房主が外に出ろって言ったとき、嫌だった。私がいない間に、何かあったらと思って」


「バルクさんとは、戦わない」


 それだけは、すぐに言えた。


 ユノが僕を見る。

「ほかの人は?」


 答えが喉に止まった。

 これから何が起きても、誰とも戦わないとは約束できない。


「角があるから、という理由では戦わない」

 僕は言った。

「門で、僕はそれを間違えた。次はしないようにする」


 ユノは長い間、僕を見ていた。

 やがて、机から炭の欠片を取る。


「描き直していい?」

「僕に聞かれても、この紙は――」


「余白」


 彼女は紙の隅へ、小さな顔を描いた。

 目と、短い髪。眉が下がっている。


「これなら、似てる」


 見せられた顔は、ずいぶん困っていた。


 僕は笑いそうになって、少しだけ笑った。


     *


 夕食の席で、ネラはいつもより多く肉を入れてくれた。


 僕の椀へ。

 それから、リシェの椀にも。


 リシェは一瞬戸惑った。

 ネラは気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、次の客へ椀を渡した。


「結界、見てくれたんだろう。ありがとうね」


 リシェは、両手で椀を受け取った。

「まだ、直ってはいません」


「それでも、見てくれた」


 バルクは僕の隣に座った。

 昨日より、椅子ひとつ分近かった。


「奥で話してたのは、レムナのことか」

 小さな声で尋ねられた。


 頷くと、彼は皿に置いたパンをちぎった。


「行ったことがあるのか」

「避難の手伝いで」

「俺は、荷車を受け取りに行った」


 彼の指が止まった。

「代わりに行ってりゃ、と考えたこともある」


 僕はバルクを見た。


「俺なら、同じ魔族だから通してもらえたかもしれん。逆に、王国側に捕まったかもしれん。そんなことを考えても、どうにもならんのだがな」


 彼はパンを食べた。


「ヴァルゼンには、恩がある」

 その言葉は、ほとんど聞こえないくらいだった。

「この町を守ったのは、あいつだ。でも、あの男を返せと言えるなら、言いたかった」


 僕は椀の中を見た。

 温かい湯気が上がっていた。


 ネラの礼も、バルクの恩も、同じ食卓にあった。

 どちらかが席を立たなければならないわけではなかった。


 ただ、僕たちは、同じものを食べながら違うものを失っていた。


     *


 食後、リシェと記録を整理した。


 観測柱では、外からの負荷が少しずつ増えていた。

 昼間の白い筋は、魔力の流れが偏っている兆候かもしれないという。


「昨日直した軸のおかげで、今は持ってる」

 彼女が言った。

「でも、もう一方はまだ。嵐になる前に、できるところまで補強したい」


 僕は頷いた。

「剣は?」

「明日、もう一度測る。必要になるかもしれないから」


 紙の印を確かめる。

 エルナで使ったあとは、剣の補助をほとんど使っていなかった。


 リシェが結晶を見て、残量を書いた。


 しばらくして、彼女が言った。

「私、ネラさんに何も言えなかった」


 僕は帳面から顔を上げた。


「何を言えばいいのか、分からなかった。あの人に助けられたって言うのも、違う気がして」


「聞いてた」

 僕は答えた。

「途中でやめさせなかった」


「それだけ?」


 僕は少し考えた。

「僕はエルナで、それもできなくなりそうだった。別の魔王の話ならいいと思った」


 リシェは指先で巻き布を押した。


「私も、別の軍だったらと思った」


 声が小さかった。

 返事をする前に、彼女が続けた。


「ネラさんには、言わない。分からないことを、私が安心したいから決めつけたくない」


 僕は頷いた。

 それは、僕にも必要なことだった。


     *


 翌朝、工房へ向かう前に、食堂の壁を見た。


 刷り物が貼ってあった。

 ネラが、余白を折り込まずに留めていた。


 剣を掲げる男の下に、困った顔の小さな僕がいる。


「嫌なら、外すよ」

 ネラが言った。


 僕は首を振った。

「そのままで、大丈夫です」


「これ、ユノが描いたんだろう」

「はい」


 ネラが少し笑った。


 僕は絵の中の大きな剣を見た。

 あの剣なら、何でもできそうに見えた。

 僕の剣は、柄の結晶の光を少し失い、鞘の端にエルナの土がついていた。


 工房の方から鐘が鳴った。


 朝の時刻を知らせる音より、短い間隔だった。

 リシェが戸口へ現れた。


「外の負荷が上がってる。北の設備へ」


 僕は剣帯を確かめた。


 壁の中の僕を残し、まだ直っていない町の方へ走った。

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