英雄の似顔絵
ネラは、僕の手を握った。
両手で。
指の付け根に、小さな火傷の跡がいくつもあった。
「ありがとう」
僕は顔を上げた。
「本当に、ありがとう」
通りを歩く人が足を止めた。
ネラは気づかないまま、僕の手を握り続けている。
どう返せばいいのか分からなかった。
エルナへ来てから、その言葉には、いつも事情が添えられていた。
子どもを連れ戻したこと。結界を動かしたこと。目の前で僕がした仕事への礼だった。
今、彼女が見ているのは、刷り物の中の男だった。
「夫がね」
ネラが言った。
「魔王軍に、殺されたんだよ」
リシェの足音が止まった。
*
ネラの夫は、鋳物を作っていた。
鍋や、小さな部品。
バルクと温室の設備を作ったのも、その人だという。
「町の外にも仕事があってね。南のレムナへ、品物を届けに行った」
食堂へ戻ると、ネラは刷り物を机へ置いた。
僕たちに椅子を勧めたが、自分は座らなかった。
「二年前のことだよ。あっちは軍の設備も多かったから、危ないと言ったんだけど」
彼女は紙の端を伸ばした。
皺は、戻らなかった。
「いつもと同じ、鍋の注文だった。軍の仕事じゃない。町の店が、仕入れてくれることになってた」
僕はレムナを知っていた。
魔王軍の攻撃で、北の区画が焼けた町だ。
討伐隊に加わるより前、避難民の護送を手伝ったことがある。
荷物を何も持たず、同じ名前を呼びながら歩く女性がいた。誰を探しているのか尋ねると、夫だと言った。
その女性は、ネラではなかった。
同じような人が、ほかにもいたということだった。
「荷車だけ戻った」
彼女は言った。
「町の人が運んできてくれた。届けた鍋は、半分溶けてたって」
リシェが、机の下で手を握った。
僕には見えたが、ネラには見えなかった。
「遺体は?」
尋ねてから、聞かない方がよかったかと思った。
「分からない。見つかった人たちは、まとめて葬ったそうだよ」
ネラはようやく椅子へ座った。
「だから、終わったって聞いても、実感がなかった」
紙の中で、男が剣を掲げている。
その背後には、実際よりも大きく、まっすぐな王国の旗が描かれていた。
「でも、あんたがここにいるなら。本当に、倒したんだね」
僕は頷いた。
その事実だけは、変わらなかった。
「僕たちで、倒しました」
ネラは目を閉じた。
しばらくして、涙を拭った。
その間、リシェは一言も話さなかった。
*
ネラが厨房へ戻ったあと、食堂には僕たちだけが残った。
鍋の蓋を取る音がする。
何かを切る音がする。
人を亡くした話のあとにも、夕食を作らなければならない。
そのことが、不思議なほど胸に残った。
「あなたが、助けに行った町なの?」
リシェが尋ねた。
「行ったのは、攻撃のあと。避難する人を運んだ」
「……魔王軍だったって、確認されてるの」
僕は彼女を見た。
リシェはすぐに視線を落とした。
「ごめん。今、聞くことじゃなかった」
僕は答えを急がなかった。
彼女が疑いたくなる理由は分かった。
エルナで花を見たとき、僕も同じことをした。別の誰かだと思おうとした。
「生き残った人の証言がある。僕が着く前に、町の守備隊とも戦ってる」
「そう」
「でも、その攻撃を誰が決めたのかまでは、僕は知らない」
リシェの指が動いた。
何かを掴みかけて、やめたように見えた。
魔王が直接命令したのでなければ。
誰かが勝手にやったのなら。
僕にも思いつく言葉だった。
彼女は、それを口にはしなかった。
「観測柱を、見てくる」
立ち上がる。
「僕も」
「先に、食事を取って。あとで交代して」
戸が閉まった。
僕は机の上の絵を見た。
そこに描かれた男には、迷いがなかった。
僕は、自分が少し羨ましくなった。
*
ユノが戻ってきたのは、それから少しあとだった。
手には、布で包んだ道具があった。
机の紙を見つけ、歩みが遅くなる。
「これ、街道から?」
「そうみたい」
少女は絵を覗き込んだ。
眉を寄せる。
「似てない」
「僕も、そう思う」
「ここ、こんなに強そうじゃない」
頬の線を指さされた。
僕は返す言葉を探し、見つからなかった。
ユノは隣に座った。
道具を机へ置き、紙を自分の方へ引く。
「母さん、泣いた?」
「……うん」
ユノが頷いた。
「また泣くと思ってた」
僕は厨房へ目をやった。
ネラは見えなかった。
温室の帳面の字を思い出した。
途中で変わった、書き手。
「前の帳面は、お父さんが?」
「うん」
ユノは紙の絵を見つめたまま答えた。
「昔は、目盛りを読んでたのが私。書くのが父さん。自分で書けるようになってからも、ときどき直されてた」
彼女の指には、黒い汚れが染みていた。
何度洗っても落ちない、工房の汚れだった。
「バルクさんに、教わってるんだね」
「父さんと一緒に仕事してたから。今も、父さんの道具を使わせてくれる」
僕は黙って聞いた。
魔王軍に父親を奪われた子が、魔族の工房で技術を習っている。
最初に聞いたら、僕は理由を尋ねたかもしれない。
今は、少しだけ分かった。
バルクは、ユノにとって、昔から知っているバルクなのだ。
「勇者って、魔族を倒す人だと思ってた」
ユノが言った。
僕は背筋を伸ばした。
「だから、昨日、工房主が外に出ろって言ったとき、嫌だった。私がいない間に、何かあったらと思って」
「バルクさんとは、戦わない」
それだけは、すぐに言えた。
ユノが僕を見る。
「ほかの人は?」
答えが喉に止まった。
これから何が起きても、誰とも戦わないとは約束できない。
「角があるから、という理由では戦わない」
僕は言った。
「門で、僕はそれを間違えた。次はしないようにする」
ユノは長い間、僕を見ていた。
やがて、机から炭の欠片を取る。
「描き直していい?」
「僕に聞かれても、この紙は――」
「余白」
彼女は紙の隅へ、小さな顔を描いた。
目と、短い髪。眉が下がっている。
「これなら、似てる」
見せられた顔は、ずいぶん困っていた。
僕は笑いそうになって、少しだけ笑った。
*
夕食の席で、ネラはいつもより多く肉を入れてくれた。
僕の椀へ。
それから、リシェの椀にも。
リシェは一瞬戸惑った。
ネラは気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、次の客へ椀を渡した。
「結界、見てくれたんだろう。ありがとうね」
リシェは、両手で椀を受け取った。
「まだ、直ってはいません」
「それでも、見てくれた」
バルクは僕の隣に座った。
昨日より、椅子ひとつ分近かった。
「奥で話してたのは、レムナのことか」
小さな声で尋ねられた。
頷くと、彼は皿に置いたパンをちぎった。
「行ったことがあるのか」
「避難の手伝いで」
「俺は、荷車を受け取りに行った」
彼の指が止まった。
「代わりに行ってりゃ、と考えたこともある」
僕はバルクを見た。
「俺なら、同じ魔族だから通してもらえたかもしれん。逆に、王国側に捕まったかもしれん。そんなことを考えても、どうにもならんのだがな」
彼はパンを食べた。
「ヴァルゼンには、恩がある」
その言葉は、ほとんど聞こえないくらいだった。
「この町を守ったのは、あいつだ。でも、あの男を返せと言えるなら、言いたかった」
僕は椀の中を見た。
温かい湯気が上がっていた。
ネラの礼も、バルクの恩も、同じ食卓にあった。
どちらかが席を立たなければならないわけではなかった。
ただ、僕たちは、同じものを食べながら違うものを失っていた。
*
食後、リシェと記録を整理した。
観測柱では、外からの負荷が少しずつ増えていた。
昼間の白い筋は、魔力の流れが偏っている兆候かもしれないという。
「昨日直した軸のおかげで、今は持ってる」
彼女が言った。
「でも、もう一方はまだ。嵐になる前に、できるところまで補強したい」
僕は頷いた。
「剣は?」
「明日、もう一度測る。必要になるかもしれないから」
紙の印を確かめる。
エルナで使ったあとは、剣の補助をほとんど使っていなかった。
リシェが結晶を見て、残量を書いた。
しばらくして、彼女が言った。
「私、ネラさんに何も言えなかった」
僕は帳面から顔を上げた。
「何を言えばいいのか、分からなかった。あの人に助けられたって言うのも、違う気がして」
「聞いてた」
僕は答えた。
「途中でやめさせなかった」
「それだけ?」
僕は少し考えた。
「僕はエルナで、それもできなくなりそうだった。別の魔王の話ならいいと思った」
リシェは指先で巻き布を押した。
「私も、別の軍だったらと思った」
声が小さかった。
返事をする前に、彼女が続けた。
「ネラさんには、言わない。分からないことを、私が安心したいから決めつけたくない」
僕は頷いた。
それは、僕にも必要なことだった。
*
翌朝、工房へ向かう前に、食堂の壁を見た。
刷り物が貼ってあった。
ネラが、余白を折り込まずに留めていた。
剣を掲げる男の下に、困った顔の小さな僕がいる。
「嫌なら、外すよ」
ネラが言った。
僕は首を振った。
「そのままで、大丈夫です」
「これ、ユノが描いたんだろう」
「はい」
ネラが少し笑った。
僕は絵の中の大きな剣を見た。
あの剣なら、何でもできそうに見えた。
僕の剣は、柄の結晶の光を少し失い、鞘の端にエルナの土がついていた。
工房の方から鐘が鳴った。
朝の時刻を知らせる音より、短い間隔だった。
リシェが戸口へ現れた。
「外の負荷が上がってる。北の設備へ」
僕は剣帯を確かめた。
壁の中の僕を残し、まだ直っていない町の方へ走った。




