小さな結界師
温室の中は、土の匂いがした。
朝露の残る通りから一歩入ると、頬に触れる空気が変わる。
外では縮こまっていた指が、少しずつ温まった。
低い葉が、畝に沿って並んでいた。
僕が軍の食事で見慣れていた干し野菜とは違い、どれも柔らかそうだった。
「踏まないでね」
ユノが言った。
僕は足元を確認した。
リシェがこちらを見たので、昨日までのことを思い出しているのだと分かった。
「踏まないよ」
「そこ、通路じゃない」
僕は靴を引いた。
リシェは何も言わなかった。言わないでくれたことが、少しありがたかった。
温室は二棟あった。
石の低い囲いに木の骨組みを立て、天井には薄く削った透明な板を並べている。隙間を小さな結界で覆い、冷気や細かな魔力の乱れを防いでいた。
町全体を守る大きな結界の内側に、さらに小さな結界がある。
僕がそう確かめると、ユノは頷いた。
「外のを、服だと思えばいい。こっちは毛布」
リシェが少し首を傾げた。
「温室の温度を上げてるのは、地中の温水管もあるでしょう」
「それも、毛布の中」
ユノは言い切った。
リシェは訂正しようとして、やめた。
僕には、十分に分かりやすかった。
バルクは入口で腕を組んでいた。
昨日の夕食のあと、勝手に設備を触った件はまだ終わっていないらしかった。
「どこを開けた」
彼が尋ねる。
ユノは温室の間にしゃがみ込んだ。
地面に埋めた木箱を開く。
中には小さな二つの容器と、それをつなぐ金属の管があった。
「こっち。ほんの少し」
リシェも膝をついた。
管の根元を指で確かめる。
「同じ型?」
「同じ日に、同じ炉で作ったんだ」
バルクが答えた。
「最初から、融通するつもりでな。ただ、使うなら俺に言えと――」
「いなかった」
ユノが小さく言った。
「設備室にいたろう」
「止めに行ったら、困ると思った」
バルクの眉が寄った。
叱る言葉が出る前に、リシェが尋ねた。
「片方が足りないって、どうやって分かったの?」
ユノが顔を上げた。
*
ユノは一冊の帳面を持ってきた。
表紙の角が丸くなり、紐で綴じた部分だけが新しかった。
開くと、数字の横に葉の絵が描いてある。
「朝と夕方に見る。こっちの温度と、こっちの残り」
頁をめくる。
同じ欄が、何日分も続いていた。
途中から字の形が変わっていた。
丸みのある大きな字から、力の入った小さな字へ。
「前から見てたんだ」
僕が言うと、ユノは頷いた。
「前は、書くだけだった」
リシェは一昨日の欄を見た。
「この日は、右側だけ上がってる」
「枝を切ったから。日が当たるようになった」
「それで、保温に使う分が減った?」
「たぶん」
ユノは窓の外の木を指した。
折れかけた枝を切り落としたせいで、日差しの入り方が変わっていた。
リシェは頁と地面の箱を見比べた。
「どれくらい開けたの?」
「この線まで」
弁の横には、引っかいた印があった。
バルクが指でなぞる。
「これより先は開けるなって、前に教えたところか」
「うん」
「その前に、温度を見たか」
「見た」
「開けたあとは」
「下がったから、少し戻した」
バルクの肩が、少しだけ下がった。
リシェはユノの目の高さまで腰を落とした。
「今度は、誰かを呼んでからにして。見たことも、先に伝えて」
ユノが唇を結ぶ。
「間違ってた?」
「確かめ方は、大事なところを見てる。でも、ひとりで見落としたとき、止めてくれる人がいない」
僕は彼女の横顔を見た。
エルナの設備小屋で、眠らずに計算していた姿を思い出した。
リシェ自身も、そのことを考えたのかもしれない。
帳面の端へ置いた手を、一度引っ込めた。
「私も、次からは人に見てもらう」
彼女が言った。
ユノはバルクを見た。
バルクはすぐには頷かなかったが、帳面を閉じずに机へ置いた。
「午後、俺とやり直す。最初から」
「……うん」
*
温室の結界は、魔王の魔力では動いていなかった。
交換用の蓄魔石を、町の商人から買っているという。
小さな設備なので、必要な量も少ない。
「じゃあ、町の結界も、それを使えないの?」
僕が尋ねると、リシェは管の輪を見せた。
「こっちは、この石を通す形に作ってある。町の結界とは、入口の仕組みが違う」
「変えれば?」
「変えられるかは、調べたい。でも、入口だけ換えて済むとは限らない」
バルクが話を継いだ。
「前に、別の型の石を入れたやつがいた。光ったから使えると思ったら、途中の管が焼けた。量だけ合ってりゃいいわけじゃない」
僕は輪を受け取った。
掌に載る、小さな金属だった。
それを同じ形に揃えるだけでも、技術がいるのだろう。
まして、村全体を覆う結界なら。
リシェは二つの容器の間へ、細い測定棒を置いた。
ユノに断ってから、ごく少しだけ弁を動かす。
透明な欠片が光った。
片側の目盛りが下がり、もう片側がゆっくり上がる。
僕はその動きを見ていた。
「足りない方へ、渡ってる」
「うん」
ユノが答えた。
「でも、こっちも空っぽなら渡せない」
単純なことだった。
それでも、僕はしばらく目を離せなかった。
エルナでは、聖剣から結界へ流した。
こちらでは、隣の結界から流れている。
「村と村でも、できる?」
言ってから、リシェを見る。
彼女はすぐに答えなかった。
「同じようなことを考えた人は、いると思う」
やがて言った。
「私も、連結の仕組みは教わった。でも、離れた場所を実際につないだことはない」
バルクが木箱の蓋を指した。
「ここでも、管が長くなるほど傷み方が増える。離れりゃ、その途中を守らなきゃならん」
「大きさも違う」
リシェが続けた。
「片方が急にたくさん引いたら、もう片方まで落ちるかもしれない」
僕は目盛りを見た。
少し動いただけで、同じ高さにはならなかった。
思いついたから、できるわけではない。
でも、できないと決まったわけでもなかった。
「記録しておいていい?」
リシェがユノへ尋ねた。
少女はすぐに頷いた。
「これも写す?」
帳面を差し出す。
リシェは受け取る前に、手の土を布で拭いた。
*
午後は、町の設備室で作業した。
僕とバルクで、補強材を運んだ。
昨日なら彼ひとりで持っていたはずの板を、今日は片側だけ差し出された。
「そっちは持てるか」
「持てます」
「肩、傷めてるんだろう」
「軽い方なら」
「なら、右を持て」
それだけだった。
でも僕は、軽い方を渡されたことを嬉しく思った。
運び込んだ板を支え、バルクが留め具を打つ。
音が狭い部屋へ響く。
「魔王も、ここへ来たことがあるんですか」
手を止めずに尋ねた。
バルクの金槌が、途中で止まった。
「一度だけ」
「どんな――」
問いを続けかけ、やめた。
どんな人だったかと聞けば、この人の知っている魔王が返ってくる。僕が見た最後の姿と同じとは限らない。
「何をしに?」
聞き直した。
「最初の配給路を通すときだ。工房を貸せと言われた」
バルクが留め具を打つ。
「狭いと言いやがった。ここが広くなる金を寄越せと言ったら、翌年、本当に来た」
彼の口元が少し動いた。
笑いかけた顔が、途中で止まる。
「お前に話すのは、妙な気分だな」
「……はい」
僕は板を支え続けた。
話をやめてくれとは思わなかった。
続けてくれと頼むこともできなかった。
バルクが最後の留め具を打つ。
「放していい」
両手を離すと、板はその場に留まった。
彼が力をかけて確かめ、頷いた。
「次のを持ってこい」
僕は外へ出た。
次に何をすればいいかが分かるのは、ありがたかった。
*
夕方、温室でユノの作業を見た。
バルクが横で見守り、リシェが少し後ろに立つ。
ユノは目盛りを読み、声に出してから弁へ触れた。
「右が七。左が四。間を、ここまで開ける」
僕には、数字の七がどれほどの量なのか分からなかった。
それでも、昨日よりずっと安心して見ていられた。
ユノが目盛りを確認する。
「右が少し下がった。左は、まだ」
「待て」
バルクが言った。
少女の指が止まった。
少しして、左の光が動く。
「あ、来た」
「遅れて来るんだ。動かないからって、開けすぎるな」
リシェが帳面へ書き込んだ。
大きな丸を、ひとつつけた。
僕は温室の葉を見た。
誰かが毎朝数字を読み、少しずつ弁を回しているから、この葉は育つ。
僕が見ていた光の向こうには、いつも、こういう手があったのだろう。
作業が終わると、ユノは立ち上がった。
膝に土がついていた。
「結界師になれるかな」
誰に尋ねたのか、分からなかった。
バルクが顔を上げるより先に、リシェが答えた。
「もう、仕事の一部はしてる」
「ほんと?」
「でも、分からないことを隠さない結界師になって」
ユノは頷いた。
それから、少し考える。
「リシェも?」
「私も」
2人が顔を見合わせた。
僕はその少し離れたところで、使った工具を拭いた。
*
温室を出たとき、遠くの空に白い筋が見えた。
雲より細く、真っ直ぐすぎた。
リシェも気づき、立ち止まった。
「嵐?」
僕が尋ねる。
「まだ分からない。外の観測柱を見てもらう」
彼女は足を速めた。
僕もついていく。
通りの向こうから、荷車が入ってきた。
荷台に新聞代わりの刷り物が積まれている。王国の街道から来た商人が、何枚かを店へ配っていた。
ネラが、その一枚を受け取った。
「もう新しいのが出たのかい」
彼女は紙を開き、しばらく見つめた。
それから、こちらを振り返る。
紙には、剣を高く掲げる男の絵があった。
足元には、黒く塗り潰された大きな影。
男の顔は、僕には似ていなかった。
目が鋭く、顎が太く、傷ひとつない。
けれど、その下には確かに、僕の名前があった。
ネラの指が、紙の端を強く掴んだ。
「アルドって」
彼女の声は、昨日と同じではなかった。
「本当に、あんたが」
僕は、次に何を言われるのか分からず、通りの真ん中に立っていた。




