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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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7/14

小さな結界師

 温室の中は、土の匂いがした。


 朝露の残る通りから一歩入ると、頬に触れる空気が変わる。

 外では縮こまっていた指が、少しずつ温まった。


 低い葉が、畝に沿って並んでいた。

 僕が軍の食事で見慣れていた干し野菜とは違い、どれも柔らかそうだった。


「踏まないでね」

 ユノが言った。


 僕は足元を確認した。

 リシェがこちらを見たので、昨日までのことを思い出しているのだと分かった。


「踏まないよ」

「そこ、通路じゃない」


 僕は靴を引いた。

 リシェは何も言わなかった。言わないでくれたことが、少しありがたかった。


 温室は二棟あった。

 石の低い囲いに木の骨組みを立て、天井には薄く削った透明な板を並べている。隙間を小さな結界で覆い、冷気や細かな魔力の乱れを防いでいた。


 町全体を守る大きな結界の内側に、さらに小さな結界がある。

 僕がそう確かめると、ユノは頷いた。


「外のを、服だと思えばいい。こっちは毛布」


 リシェが少し首を傾げた。

「温室の温度を上げてるのは、地中の温水管もあるでしょう」

「それも、毛布の中」


 ユノは言い切った。

 リシェは訂正しようとして、やめた。


 僕には、十分に分かりやすかった。


 バルクは入口で腕を組んでいた。

 昨日の夕食のあと、勝手に設備を触った件はまだ終わっていないらしかった。


「どこを開けた」

 彼が尋ねる。


 ユノは温室の間にしゃがみ込んだ。

 地面に埋めた木箱を開く。

 中には小さな二つの容器と、それをつなぐ金属の管があった。


「こっち。ほんの少し」


 リシェも膝をついた。

 管の根元を指で確かめる。


「同じ型?」

「同じ日に、同じ炉で作ったんだ」

 バルクが答えた。

「最初から、融通するつもりでな。ただ、使うなら俺に言えと――」


「いなかった」

 ユノが小さく言った。


「設備室にいたろう」

「止めに行ったら、困ると思った」


 バルクの眉が寄った。

 叱る言葉が出る前に、リシェが尋ねた。


「片方が足りないって、どうやって分かったの?」


 ユノが顔を上げた。


     *


 ユノは一冊の帳面を持ってきた。


 表紙の角が丸くなり、紐で綴じた部分だけが新しかった。

 開くと、数字の横に葉の絵が描いてある。


「朝と夕方に見る。こっちの温度と、こっちの残り」


 頁をめくる。

 同じ欄が、何日分も続いていた。


 途中から字の形が変わっていた。

 丸みのある大きな字から、力の入った小さな字へ。


「前から見てたんだ」

 僕が言うと、ユノは頷いた。

「前は、書くだけだった」


 リシェは一昨日の欄を見た。

「この日は、右側だけ上がってる」


「枝を切ったから。日が当たるようになった」

「それで、保温に使う分が減った?」

「たぶん」


 ユノは窓の外の木を指した。

 折れかけた枝を切り落としたせいで、日差しの入り方が変わっていた。


 リシェは頁と地面の箱を見比べた。


「どれくらい開けたの?」

「この線まで」


 弁の横には、引っかいた印があった。

 バルクが指でなぞる。


「これより先は開けるなって、前に教えたところか」

「うん」


「その前に、温度を見たか」

「見た」

「開けたあとは」

「下がったから、少し戻した」


 バルクの肩が、少しだけ下がった。


 リシェはユノの目の高さまで腰を落とした。

「今度は、誰かを呼んでからにして。見たことも、先に伝えて」


 ユノが唇を結ぶ。


「間違ってた?」

「確かめ方は、大事なところを見てる。でも、ひとりで見落としたとき、止めてくれる人がいない」


 僕は彼女の横顔を見た。

 エルナの設備小屋で、眠らずに計算していた姿を思い出した。


 リシェ自身も、そのことを考えたのかもしれない。

 帳面の端へ置いた手を、一度引っ込めた。


「私も、次からは人に見てもらう」

 彼女が言った。


 ユノはバルクを見た。

 バルクはすぐには頷かなかったが、帳面を閉じずに机へ置いた。


「午後、俺とやり直す。最初から」

「……うん」


     *


 温室の結界は、魔王の魔力では動いていなかった。


 交換用の蓄魔石を、町の商人から買っているという。

 小さな設備なので、必要な量も少ない。


「じゃあ、町の結界も、それを使えないの?」

 僕が尋ねると、リシェは管の輪を見せた。


「こっちは、この石を通す形に作ってある。町の結界とは、入口の仕組みが違う」

「変えれば?」

「変えられるかは、調べたい。でも、入口だけ換えて済むとは限らない」


 バルクが話を継いだ。


「前に、別の型の石を入れたやつがいた。光ったから使えると思ったら、途中の管が焼けた。量だけ合ってりゃいいわけじゃない」


 僕は輪を受け取った。

 掌に載る、小さな金属だった。


 それを同じ形に揃えるだけでも、技術がいるのだろう。

 まして、村全体を覆う結界なら。


 リシェは二つの容器の間へ、細い測定棒を置いた。

 ユノに断ってから、ごく少しだけ弁を動かす。


 透明な欠片が光った。

 片側の目盛りが下がり、もう片側がゆっくり上がる。


 僕はその動きを見ていた。


「足りない方へ、渡ってる」

「うん」

 ユノが答えた。

「でも、こっちも空っぽなら渡せない」


 単純なことだった。

 それでも、僕はしばらく目を離せなかった。


 エルナでは、聖剣から結界へ流した。

 こちらでは、隣の結界から流れている。


「村と村でも、できる?」


 言ってから、リシェを見る。


 彼女はすぐに答えなかった。


「同じようなことを考えた人は、いると思う」

 やがて言った。

「私も、連結の仕組みは教わった。でも、離れた場所を実際につないだことはない」


 バルクが木箱の蓋を指した。

「ここでも、管が長くなるほど傷み方が増える。離れりゃ、その途中を守らなきゃならん」


「大きさも違う」

 リシェが続けた。

「片方が急にたくさん引いたら、もう片方まで落ちるかもしれない」


 僕は目盛りを見た。

 少し動いただけで、同じ高さにはならなかった。


 思いついたから、できるわけではない。

 でも、できないと決まったわけでもなかった。


「記録しておいていい?」

 リシェがユノへ尋ねた。


 少女はすぐに頷いた。

「これも写す?」


 帳面を差し出す。

 リシェは受け取る前に、手の土を布で拭いた。


     *


 午後は、町の設備室で作業した。


 僕とバルクで、補強材を運んだ。

 昨日なら彼ひとりで持っていたはずの板を、今日は片側だけ差し出された。


「そっちは持てるか」

「持てます」


「肩、傷めてるんだろう」

「軽い方なら」

「なら、右を持て」


 それだけだった。

 でも僕は、軽い方を渡されたことを嬉しく思った。


 運び込んだ板を支え、バルクが留め具を打つ。

 音が狭い部屋へ響く。


「魔王も、ここへ来たことがあるんですか」


 手を止めずに尋ねた。

 バルクの金槌が、途中で止まった。


「一度だけ」

「どんな――」


 問いを続けかけ、やめた。

 どんな人だったかと聞けば、この人の知っている魔王が返ってくる。僕が見た最後の姿と同じとは限らない。


「何をしに?」

 聞き直した。


「最初の配給路を通すときだ。工房を貸せと言われた」


 バルクが留め具を打つ。

「狭いと言いやがった。ここが広くなる金を寄越せと言ったら、翌年、本当に来た」


 彼の口元が少し動いた。

 笑いかけた顔が、途中で止まる。


「お前に話すのは、妙な気分だな」


「……はい」


 僕は板を支え続けた。

 話をやめてくれとは思わなかった。

 続けてくれと頼むこともできなかった。


 バルクが最後の留め具を打つ。


「放していい」


 両手を離すと、板はその場に留まった。

 彼が力をかけて確かめ、頷いた。


「次のを持ってこい」


 僕は外へ出た。

 次に何をすればいいかが分かるのは、ありがたかった。


     *


 夕方、温室でユノの作業を見た。


 バルクが横で見守り、リシェが少し後ろに立つ。

 ユノは目盛りを読み、声に出してから弁へ触れた。


「右が七。左が四。間を、ここまで開ける」


 僕には、数字の七がどれほどの量なのか分からなかった。

 それでも、昨日よりずっと安心して見ていられた。


 ユノが目盛りを確認する。

「右が少し下がった。左は、まだ」


「待て」

 バルクが言った。


 少女の指が止まった。

 少しして、左の光が動く。


「あ、来た」


「遅れて来るんだ。動かないからって、開けすぎるな」


 リシェが帳面へ書き込んだ。

 大きな丸を、ひとつつけた。


 僕は温室の葉を見た。

 誰かが毎朝数字を読み、少しずつ弁を回しているから、この葉は育つ。


 僕が見ていた光の向こうには、いつも、こういう手があったのだろう。


 作業が終わると、ユノは立ち上がった。

 膝に土がついていた。


「結界師になれるかな」


 誰に尋ねたのか、分からなかった。

 バルクが顔を上げるより先に、リシェが答えた。


「もう、仕事の一部はしてる」

「ほんと?」

「でも、分からないことを隠さない結界師になって」


 ユノは頷いた。

 それから、少し考える。


「リシェも?」

「私も」


 2人が顔を見合わせた。

 僕はその少し離れたところで、使った工具を拭いた。


     *


 温室を出たとき、遠くの空に白い筋が見えた。


 雲より細く、真っ直ぐすぎた。

 リシェも気づき、立ち止まった。


「嵐?」

 僕が尋ねる。


「まだ分からない。外の観測柱を見てもらう」


 彼女は足を速めた。

 僕もついていく。


 通りの向こうから、荷車が入ってきた。

 荷台に新聞代わりの刷り物が積まれている。王国の街道から来た商人が、何枚かを店へ配っていた。


 ネラが、その一枚を受け取った。


「もう新しいのが出たのかい」


 彼女は紙を開き、しばらく見つめた。

 それから、こちらを振り返る。


 紙には、剣を高く掲げる男の絵があった。

 足元には、黒く塗り潰された大きな影。


 男の顔は、僕には似ていなかった。

 目が鋭く、顎が太く、傷ひとつない。


 けれど、その下には確かに、僕の名前があった。


 ネラの指が、紙の端を強く掴んだ。


「アルドって」


 彼女の声は、昨日と同じではなかった。


「本当に、あんたが」


 僕は、次に何を言われるのか分からず、通りの真ん中に立っていた。

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