魔族と囲む食卓
ミルカの門を守っていた男には、角があった。
額の左右から、短い角が二本伸びている。
片方の先は欠け、残った根元に革紐が巻かれていた。
男が顔を上げた瞬間、僕の手は剣の柄へ動いた。
抜いてはいない。
けれど、男には見えた。
彼の指が、槍を握り直した。
僕は手を離した。
遅かった。男の視線は、僕の顔ではなく腰に止まっている。
「ロウのところから、部品を持ってきました」
リシェが一歩前へ出た。
箱の蓋を開き、包んだ布の端をめくる。
男は中を見てから、僕を見た。
「そいつは?」
「荷物を運んでくれてる。結界のことで、工房に話があるの」
男はすぐには門を開けなかった。
僕は両手を、身体の横へ下ろして待った。
やがて、彼が脇へ寄った。
「町で剣を抜くな。揉めたら、こっちへ来い」
「分かった」
すれ違うとき、男の右足が不自然に動くのが見えた。
槍は、身体を支えるためにも使われていた。
門を抜けてから、リシェが足を止めた。
「今、どうして剣に触ったの」
「……反射的に」
自分でも嫌になる答えだった。
でも、ほかに言いようがなかった。
角を見た。
魔王の城へ続く道で、僕たちに槍を向けた兵士の姿が重なった。
「何もされてない」
リシェが言った。
「分かってる」
彼女は何か言いかけ、口を閉じた。
僕は門を振り返らなかった。もう一度目が合ったら、どんな顔をすればいいか分からなかった。
*
監視所を出てから、二晩を道沿いの小屋で過ごした。
肩の痛みは少しずつ引いていたが、荷物を上げ下ろしするとまだ響いた。リシェは部品の箱を自分で持つと言った。
僕は一度断った。
二度目には、箱だけ渡した。
川沿いを回った分、予定より半日かかった。
ミルカへ入ったときには、昼の鐘が鳴っていた。
通りの両側に店があった。
鍛冶屋の軒先には鍋と蹄鉄が並び、その隣では古着を干している。売り声は、僕の知っている町とよく似ていた。
違うのは、その声を出している人たちだった。
幅の広い耳を持つ女性が、根菜を量っている。
人間の老人が、その籠を覗いて値切っている。
荷車を押す男の腕には、細かな鱗のようなものがあった。
少年が走ってきて、その男の背中へぶつかった。
「前を見ろ」
「ごめん!」
少年は僕の横をすり抜け、路地へ消えた。
僕は立ち止まりそうになった。
リシェが少し先で振り返る。
「はぐれないで」
慌てて歩いた。
食べ物の匂いがする。
どこかで赤ん坊が泣いている。
頭の上の結界は薄く光り、その下では、売り物の値段を巡る口論が続いていた。
僕は何を想像していたのだろう。
魔族の町には、市場がないとでも思っていたのか。
そんなはずはなかった。
知識としては知っていた。魔族には言葉があり、国があり、暮らしがある。
でも、その暮らしを目の前で見たことはなかった。
*
工房は、町の水路に面していた。
入口から、金属を削る音が聞こえた。
リシェが声をかけると、奥で大きな影が動いた。
「遅かったな」
男の声がした。
「軸が先に折れちまうかと思った」
「ロウのところで受け取ったのは、一昨日です」
「なら、道に文句を言うしかないな」
出てきた男の肩幅は、ガレスより広かった。
短い髪の間から太い角が一本、後ろへ反るように生えている。片腕の袖を捲り、肘まで黒く汚れていた。
男は箱を受け取り、その重さを確かめた。
次に僕の腰を見た。
視線が止まる。
「リシェ」
「説明します」
「そいつの名前は」
彼女が僕を見る。
僕は自分で答えた。
「アルドです」
金属を削る音が止んだ。
工房の奥に、もう一人いた。
痩せた少女が、作業台の陰からこちらを見ていた。人間の子だった。
男は箱を台へ置いた。
「魔王を倒した」
「はい」
男の喉が動いた。
怒鳴られると思った。
けれど、彼は戸口の横へ寄り、奥の少女へ声をかけた。
「ユノ。裏へ行ってろ」
「でも、途中」
「いいから」
少女は不満そうに工具を置いた。
僕の前を通るとき、剣を大きく避けた。
怒っているのではない。
怯えている。
それに気づくまで、少しかかった。
「バルクさん」
リシェが言った。
「この人は、町を襲いに来たわけじゃない。エルナの結界を持たせるのを手伝ってくれた」
「手伝う?」
バルクという男が、僕を見た。
「こいつが?」
僕は頷いた。
信じてもらえる言葉を持っていなかったので、それ以上は言わなかった。
リシェが帳面を広げた。
エルナの残量。測定の結果。補充の前後で変わった聖剣の光。
バルクは座らずに聞いた。
ときどき、工具を置いた台へ手を伸ばしかけた。そのたびに、途中で引っ込めた。
僕は剣帯を外した。
「どこへ置けばいいですか」
男の目が動いた。
「作業の邪魔になるので」
僕は付け足した。
「必要になるまで、抜きません」
彼は壁際の箱を指した。
「そこだ。こっちから見えるように」
僕は鞘を置き、手の届かない場所まで離れた。
*
最初に見せてもらったのは、聖剣を使う場所ではなかった。
町の北側にある、小さな設備室。
床を外すと、赤茶色に錆びた軸が見えた。
「回ってないのは、ここですか」
リシェが尋ねる。
「無理に動かすと、隣まで傷める。今は切ってある」
バルクは持ってきた部品を並べた。
「二つ直れば、南の負担は減るはずだ」
僕は外した蓋を運んだ。
バルクは僕が近づくたび、身体を硬くした。
重い金具を持ち上げようとすると、先に自分で抱えた。
「そっちの、小さいのを持て」
「これは2人で――」
「いい」
僕は手を引いた。
エルナでは、何を任されればいいか分からなかった。
ここでは、任せてもらうこと自体が難しかった。
リシェが軸の周りを調べている間、僕は外で錆を落とした。
言われた分だけ。使ってよいと渡された工具だけで。
ユノが水を運んできた。
工房にいた少女だった。
桶を地面へ置き、少し離れる。
「飲んでいいの?」
僕が尋ねると、彼女は頷いた。
「工房主が」
「ありがとう」
彼女は僕の手元を見た。
「それ、刃を立てると傷がつく」
「あ、そうなんだ」
「寝かせて。こう」
僕から工具を取ろうとして、手が止まる。
代わりに、別の木片を拾って角度を示した。
僕は真似した。
「こう?」
ユノは頷いた。
それから、水の入った桶を残して戻っていった。
小さな仕事だった。
それでも、僕が今ここにいてよい理由が、ひとつ増えた気がした。
*
日が落ちるころ、軸が一本、回るようになった。
二本目は台座のひびが深く、部品を換えるだけでは直らなかった。
翌朝、補強材を入れることになった。
町全体の結界の様子は、まだ変わらなかった。
リシェは数字を読み、少しだけ落ち方が緩くなったと言った。
夕食は、工房の隣の食堂で取った。
ネラという女性が切り盛りしていた。
人間だった。太い腕で鍋を持ち上げ、長い机の中央へ置く。
「食べる人は椀を出して」
僕が荷物を探していると、目の前に木の椀が置かれた。
「客用がある」
バルクだった。
彼は僕から二つ離れた椅子に座った。
ユノがその隣へ座る。リシェは僕の向かいだった。
魔族の男と同じ鍋から食事を取る。
ただそれだけのことに、僕は妙に緊張していた。
バルクが腰の小刀を抜いた。
僕の指が机の縁を掴む。
彼は硬いパンを切った。
半分をユノの皿へ置く。
僕は自分の手を膝へ下ろした。
リシェが見ていた。
何も言わなかった。
煮込みには、豆と、細く切った肉が入っていた。
酸味のある葉が浮いている。
「食えないものがあるのか」
バルクが尋ねた。
「いえ」
「なら、冷める前に食え」
僕は匙を取った。
一口目は、味が分からなかった。
二口目で、塩が少し強いと思った。
ユノがパンを浸しすぎて、椀へ落とした。
慌てて拾おうとして、バルクに止められる。
「熱いだろうが」
「今なら取れる」
「匙を使え」
ネラが笑った。
リシェも、口元を少し緩めた。
僕は椀を持ち直した。
初めて見るはずの食卓に、知っていることがいくつもあった。
熱いものを触るなと叱る声。
パンを半分にする手。
食べるのが遅い相手を、待つ人。
「門の人も、ここで食べるんですか」
僕は尋ねた。
「ああ。交代したら来る」
ネラが答えた。
「何かあった?」
僕は匙を置いた。
「顔を見て、剣に手をかけました。何もされていないのに」
誰も話さなくなった。
「謝りたいです。でも、また近づいたら、怖がらせるかもしれない」
バルクが僕を見た。
長い間、何も言わなかった。
「謝って、すぐ平気になれと言うなよ」
やがて彼が言った。
「はい」
「それなら、言えばいい」
僕は頷いた。
あとから来た門番に謝ると、彼はしばらく黙っていた。
それから、次はするなと言った。
僕は、はいと答えた。
それ以上、許してもらうための言葉を探さなかった。
*
食事が終わるころ、ネラが空の椀を重ねた。
「明日は、温室も見てもらえるかい」
バルクへ尋ねる。
「また片側が冷えたのか」
「今日は逆。暑すぎたらしいよ」
ユノが顔を上げた。
「それ、直した」
バルクの手が止まる。
「何をした」
「二つの間、少しだけ開けた」
「勝手に触るなって――」
「先月、やっていいって言った」
「見るだけなら、だ」
ユノは唇を尖らせた。
リシェが口を挟む。
「二つって、何をつないだの?」
「温室の結界。隣同士だから」
僕には、その答えのどこが特別なのか分からなかった。
けれど、リシェは匙を置いた。
「明日、見せてくれる?」
ユノの目が、初めてこちらをまっすぐ向いた。
僕ではなく、リシェへ。
「見たら、分かるよ」
彼女が言った。
「余ってる方から、足りない方へ渡しただけだから」
リシェはすぐに答えなかった。
机の端で、指が何かの形をなぞっていた。
本日のみ3話投稿です。明日以降は基本的に2話ずつ投稿していく予定です。




