地図から消された灯り
出発の朝、リシェは三度、小屋へ戻った。
一度目は帳面を忘れたと言った。
二度目は東の目盛りが気になったと言った。
三度目には、イネスが戸口を塞いだ。
「さっきも見た」
「でも、朝は流れが変わるから」
「変わる幅も聞いた。その範囲を越えたら、ここを閉じる」
イネスは壁の手順表を指さした。
リシェが昨夜書いたものだった。
「読めるわよ。あなたの字は小さいけど」
「次は、大きく書く」
「次じゃなくて、昨日言ったんだけどね」
リシェは言い返さず、手順表の端を整えた。
離れかけた指が、もう一度、紙を押さえる。
僕は荷物を持って待っていた。
出発すると決めてから、彼女はほとんど休まずに引き継ぎをした。毎朝確かめる場所。異常があったとき、最初に止める弁。結界をさらに縮める順番。
イネスはその説明を聞くだけでなく、自分で操作して見せた。
リシェは一度も、もういいとは言わなかった。
「私がいない間に――」
「何かあったら、書いてあるとおりにする。書いてないことなら、無理をしない」
イネスは穏やかに続けた。
「あなたがいても、できないことはあるでしょう」
リシェが目を伏せた。
トーヴが、戸口に杖を立てかけた。
細いが、先端には金属が巻いてある。
「道の確認に使え。昨日、橋の手前を見てきた。流されてない方の道に赤い布を結んである」
僕が礼を言うと、彼は首を振った。
「礼より、見落とすなよ。霧が出ると分かりにくい」
荷物に足されたものは、杖だけではなかった。
乾燥豆。小さな鍋。巻き直した包帯。
僕が泊まった空き小屋の前には、焼いたパンの包みも置かれていた。
誰が置いたのか、見ていない。
少年は椅子に座ったまま手を振った。
僕が近づくと、声を潜める。
「今度は、輪っか追いかけない」
「外が荒れてるときはね」
「晴れてたら?」
「お母さんに聞いて」
彼は少し不満そうな顔をした。
その母親が後ろで頷いていたので、たぶん、正しい返事だった。
リシェが小屋の戸口から離れた。
「行く」
誰に言ったのか分からない、小さな声だった。
*
村の名は、エルナだった。
ようやく尋ねると、リシェは僕の地図を覗き込み、空白を指で叩いた。
「ここ。谷の向きが少し違う」
「名前の綴りは?」
彼女が教えると、僕は書き込んだ。
地図に載っていないことを、彼女は驚かなかった。
「その地図、いつの?」
「支給されたのは、半年くらい前」
「作られたのは?」
端の小さな文字を読む。
七年前の日付だった。
リシェは僕の手から地図を取らず、もう一度、谷の印を指した。
「ここ、昔は採掘場だった。鉱脈が細くなって、人が減ったあとも、残った家があったの」
「役所に届けなかった?」
「届けた人はいると聞いた。でも私は、その返事を見たことがない」
僕は地図の余白に日付を書いた。
自分が何を知ったのか、いつ確かめたのか。あとで報告するときに、曖昧にしないためだった。
道は北へ向かっていた。
濡れた岩を越え、低い木の枝を避けて進む。
リシェは歩くのが速かった。
僕の肩を気にしているのか、急な坂の前だけは足を緩めた。こちらを見ることはしなかった。
「その杖、使わないの」
しばらくして言われた。
「歩けるから」
「歩くためじゃない。土の下に空洞がないか、突いて確かめるの」
僕は足元を見た。
踏もうとしていた場所の下から、水の音がした。
杖を差し込むと、土が崩れた。
靴が丸ごと入るほどの穴が開く。
「……ありがとう」
リシェは頷き、また歩き始めた。
僕は剣を使わずに済む道を、彼女の後ろで覚えた。
*
監視所は、昼過ぎに見えた。
崖に背を預けるように建った、四角い石の建物だった。旗はなく、入口の脇には割れた水桶が伏せてある。
廃墟かと思った。
けれど煙突から、細い煙が出ていた。
リシェが戸を三度叩く。
「エルナから。リシェです」
中で音がした。
留め具が外れ、戸が少しだけ開く。
「生きてたか」
白髪の男が顔を出した。
片目に白い濁りがある。リシェを見ていた視線が、僕の剣へ落ちた。
戸が止まった。
「そっちは」
「アルド。結界のことで、連れてきた」
男の顔が硬くなった。
僕の名前を知っているらしかった。
リシェは続けた。
「村の結界を、昨日、持たせた。中で説明したい」
長い間があった。
やがて男は戸を開けた。
「武器は、勝手に抜くな」
僕は頷いた。
中には机が三つあった。
壁に棚が並び、巻いた紙や、革袋に入った小さな部品が置かれている。
王国の砦にあった作戦室とは違った。
机の脚には継ぎ足した木片があり、窓の隙間には布が詰められていた。
でも書類は、整っていた。
男はロウと名乗った。
かつて採掘場の監督をしていたという。
「今は、道と荷の世話だ。手紙も預かる」
彼は僕を見た。
「お前さんの側の役所みたいに、立派ではないがね」
僕は机の上へ地図を置いた。
「ここで分かることを、教えてほしい」
ロウはすぐには座らなかった。
リシェが剣と結界の反応を説明し、使った量を示した紙を置く。
そこで初めて、彼は椅子を引いた。
*
広げられた地図には、印が十七あった。
赤い丸。
黒い四角。
名前の横に引かれた、細い線。
僕の地図と並べると、同じ地方とは思えなかった。
こちらで空白の場所に、あちらでは村や中継所がある。
ロウは印を順に示した。
「全部が集落じゃない。人の住んでない中継設備もある。こっちは、三年前に放棄した」
一本の線で消された印に触れる。
僕は慌てて数えるのをやめた。
「今も人がいるのは?」
「確かめてあるのは九つ。あと二つは、便りが古い」
リシェが小さな紙束を受け取った。
日時と数字が書かれている。設備の残量記録だった。
彼女は一枚ずつ、日付を読み上げた。
「これは、討伐より前」
「そうだ」
「こっちは、四日前」
「昨日着いた。運んだ者は、今朝、南へ出た」
紙を並べ替える。
机の上に、新しい記録と、古い記録が分かれていった。
生きた地図ではなかった。
印があるから安全なのではない。消えていないから、そこに人がいると断言できるわけでもない。
誰かが歩いて運んできた、少し前の世界だった。
「全部、魔王が守っていたのか」
僕が尋ねると、ロウは首を振った。
「自前の結界を使う場所もある。補充だけ受けてたところもな」
「人間の村も?」
「エルナを見ただろう」
「……魔族の場所もある?」
ロウが僕を見る。
「ある。それで、向かう順番を変えるつもりか」
すぐに違うと言おうとした。
けれど、口が止まった。
魔族の集落。
僕が知っている魔族は、鎧を着ていた。砦を攻め、剣を振るい、僕たちを殺そうとした。
そこで暮らす人の姿を、僕はうまく思い浮かべられなかった。
「知らないから、確かめたい」
そう答えた。
ロウは少し黙り、それから地図の中央を指した。
「ミルカ。人間も、魔族もいる町だ」
リシェの指が止まった。
彼女が持っている記録と、同じ名前だった。
*
ミルカの残量は、四日前の時点で半分を少し下回っていた。
町が大きい分、使う量も多い。
古い設備の一部が止まり、残ったものへ負担が寄っているという。
「補充より、先に直せるかもしれない」
リシェが言った。
「直るかどうか、現物を見ないと分からないけど」
ロウは棚から、薄い箱を出した。
中には、小さな金属の部品が収められていた。
「頼まれていた軸受けだ。運ぶ者を待ってた」
「これだけ?」
「鋳直す材料が足りん」
リシェは部品をひとつ取り上げ、光へかざした。
「持っていく」
僕は道を確認した。
ここから徒歩で二日ほど。崩れた橋を避ければ、もう半日かかる。
もっと近い場所にも印があった。
「こっちは?」
「避難が終わってる。戻せるなら戻したいが、今は先にミルカだ」
ロウの声は平らだった。
何度も、こうして順番を決めてきたのだろう。
僕は指をエルナへ戻した。
「村の分が、二十日くらいしかない」
「だから、十日目で判断する」
リシェが言った。
「補充の見込みがなければ、蓄えを使い切る前に避難を始める。残す人も含めて、イネスたちと決めた」
「避難先は?」
「ここの南の坑道と、まだ余力のある集落。移動する間の食料は、分けてある」
ロウが頷いた。
「こっちでも荷車を回す。戻る約束をして、村で待たせるなよ」
その言葉は、僕に向けられていた。
僕は頷いた。
助けると約束することと、待っていれば助かると思わせることは、違う。
地図の線が、少しずつ重くなっていった。
*
夕方、監視所に荷車が着いた。
南の集落へ向かう商人が、一晩休むという。
王国の街道へも戻ると聞き、僕はガレスへの手紙を書いた。
エルナという村があること。
結界の補充が途絶えていること。
同じ状況の町へ、結界師と向かうこと。
魔王の魔力が聖剣に残っている可能性については、確かめたことと、まだ分からないことを分けて書いた。
書いていると、自分が分からないことの多さに気づいた。
助けが必要だ。
最後に、そう書いた。
何を送ってほしいのか、少し考えた。
兵士ではない。
今のところ、僕の知っている戦いは起きていない。
結界に詳しい人を探してほしい。
この地方の記録を調べてほしい。
それから、心配をかけてごめん、と付け足した。
ガレスなら、その一文にいちばん怒るかもしれない。
謝るくらいなら無事でいろと言う顔が、目に浮かんだ。
手紙を封じると、リシェが向かいの席に座った。
彼女もイネスへの短い報告を書いていた。
「王都へ?」
「ガレスに。ここへ来る前、一緒に戦ってた人」
「信用できるの?」
「できる」
僕はそこで言葉を止めず、続けた。
「ただ、結界のことは僕より少し分かるくらいだと思う。だから、分かる人を探してもらう」
リシェは頷いた。
王国に助けを求めることへ、何か言われるかと思った。
彼女は何も言わなかった。
食事のあと、ロウが古い暦を持ってきた。
「こっちも、見ておけ」
数年分の嵐の記録だった。
季節の変わり目に、大きな印が集まっている。
「大噴出の季節が来る。早けりゃ、あとひと月半くらいだ」
リシェの顔が曇った。
「今年の兆候は?」
「まだ揃ってない。早まるか、遅れるかも分からん。ただ、普段より持つと見積もるのはやめた方がいい」
ロウは暦を机へ置いた。
八日前、僕は戦争が終わったと思った。
今も、そのこと自体は間違いではないはずだ。
でも、戦いが終わるのを待ってくれないものがある。
リシェは新しい紙へ、必要な部品と、各地へ尋ねる項目を書き出し始めた。
ロウが便りに添えて回してくれるという。
僕は紙を押さえた。
彼女の手が、僕の指の手前で一瞬止まった。
それから、文字がまた続いた。
*
翌朝、僕たちはミルカへ向かった。
部品の箱は、僕の荷物に入った。
リシェは何度も、底へ布を敷いたか確かめた。
「剣より丁寧に扱うんだね」
僕が言うと、彼女は真顔で答えた。
「剣は、落としても少しは大丈夫でしょう」
否定できなかった。
監視所の前で地図を広げる。
僕の地図には、エルナのほかに、いくつもの名前が増えていた。
記録の日付と、確認できていない場所には、その印も添えた。
最初からそこにあったようには、見えなかった。
紙の古い線の上に、新しい文字がぎこちなく重なっている。
「消されてたのかな」
僕は呟いた。
リシェが地図を見る。
「何が?」
「村とか、町とか」
彼女は少し考えた。
「誰かが消したのかもしれない。更新しなかっただけかもしれない。今の私には分からない」
その通りだった。
理由まで、空白から読み取ることはできない。
「でも、ないことにはできない」
彼女が言った。
僕は地図を畳んだ。
丘の向こうから、朝の光が差していた。
その下のどこかで、人間と魔族が同じ町に暮らしている。
僕が倒すべき敵だと思っていた相手が、そこで朝食を食べているかもしれない。
誰かに腹を立て、仕事へ遅れ、子どもに呼ばれているかもしれない。
まだ、想像はうまく形にならなかった。
だから、見に行く。
リシェが先に歩き出した。
僕は杖で足元を確かめ、そのあとへ続いた。




