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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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4/20

あなたは、まだ許せない

 最初の作業で、失敗した。


 聖剣の先を金属の輪へ近づけ、言われたとおりに魔力を流したつもりだった。

 壁の目盛りが跳ね、リシェがすぐに管を外した。


「多い」


 その声に、僕は息を止めた。


 床に置かれた小さな石が、赤く光っている。

 リシェは火ばさみでそれを持ち上げ、砂を敷いた桶へ移した。


「壊れた?」

「逃がす方へ流した。入口までは入ってない」


 僕は剣を持つ手を下げた。


「ごめん」

「今の半分より、もっと少なく」


 戦いでは、速く、強く流す必要があった。

 迷えば刃が届かない。受け止めるのが遅れれば、仲間に魔法が当たる。


 必要とされているのは、その逆だった。


 リシェは金属の輪の位置を直した。

 さっき僕が魔力を流した管は、結界そのものではなく、小さな測定用の石へつながっていた。いきなり本体へ入れないと聞いたときは、慎重すぎると思った。


 今は、その手順に救われていた。


「息を吐くくらいで」

「吐くくらい」

「力まないで。剣を振るわないでしょう」


 僕は肘を下げた。

 柄を握りしめるのをやめ、重さを支えるだけにする。


 細く。

 ゆっくり。


 刃の根元に、かすかな光が生まれた。


 壁の目盛りが動いた。

 今度は、リシェが止めなかった。


「それを、保って」


 数える声がした。

 一、二、三。


 僕は動かずに待った。

 肩が痛んだ。息を止めそうになるたびに、彼女が吐いてと言った。


「止めて」


 柄から力を抜く。

 光が消えた。


 リシェは帳面に数字を書き、測定用の石を確かめた。

 何も言わない時間が長かった。


「同じこと、もう一度できる?」


 頷こうとして、僕は尋ねた。

「どれくらい、ずれてもいい?」


 彼女が顔を上げた。


「今の目盛りから、ひとつ上下するくらい」

「それ以上なら、声をかけて」

「分かった」


 二度目は、少し弱すぎた。

 三度目で、同じ幅に収まった。


 ガレスが見たら驚くだろう。

 魔王に剣を届かせたときより、小さな目盛りを動かせたことに、僕は安堵していた。


     *


 夜明け前、村の人たちが小屋へ集まった。


 眠ったのは一刻にも満たなかった。

 それでも、目を閉じる前より頭が働いた。リシェも交代で横になった。集会所で子どもたちを世話していたイネスという女性が、その間、石盤の監視を引き受けた。


 イネスも、村で結界を扱うひとりだった。

 ただ、修復用の新しい接続を組む仕事には慣れていないらしい。


「見てないで、手順を書いて」

 彼女はリシェに言った。

「あなたがいなくても、止めるくらいできるように」


 リシェは一瞬、何かを言いかけた。

 結局、帳面を取り、止める弁の順番を大きな字で書いた。


 トーヴは夜のうちに柱の支えを直していた。

 ほかの村人は、避難所を残すために必要な範囲を測り、崩れた柵を片づけた。


 僕が剣を持って座っている間に、いくつもの仕事が終わっていた。


「まず、ここまで戻す」


 リシェが床に広げた村の図を指した。

 住宅と井戸、それに共同の倉庫が入っている。西の畑は外れていた。


「畑は」

 誰かが尋ねた。

「全部戻すと、持つ日数が短くなる」

「種が残ってる区画だけでも」


 彼女は図に細い線を足した。

 トーヴと相談し、柱をひとつ外側へ戻すことになった。すべては守れなくても、次に植える種までは失わずに済むかもしれない。


 ひとつ線を引くたび、残せるものと残せないものが決まった。


 僕は図を覗き込んだ。

 剣を置く場所は描いていない。

 その代わり、人の立つ場所が何か所も印されていた。


「この印は?」

「調整する人。私の合図で、順番に開ける」

「ひとりでできないの?」

「離れてるから。それに、流れ方をそれぞれ見てもらわないと」


 リシェは印のひとつを指で叩いた。

「あなたは、ここ。動かないで」


 僕の役目は小さな四角ひとつだった。

 それを見て、少しだけ安心した。


     *


 作業は、朝の光の中で始まった。


 小屋の窓から、空が見えた。

 灰色は薄くなっている。でも遠い尾根の上には、まだ濁った筋が残っていた。


 聖剣を受け台へ乗せる。

 刃には金属の輪が三つ取りつけられていた。最初の輪が流れを受け、次が量を調整し、最後が異常な分を逃がす。リシェはそう説明した。


「勝手に強めないこと」

「分かった」

「止めてと言ったら、途中でも止めて」

「分かった」


 彼女は柄の結晶へ紙を当てた。

 昨夜の線より、ほんの少し光が縮んでいる。


 試した分。

 少年を助けたときに使った分。


 何もしていないつもりでも、残りは減っていた。


「始める」


 僕は息を吐いた。

 柄へ意識を向け、細く力を流す。


 目盛りが上がった。

 リシェが片手を上げる。


 窓の外で、トーヴが合図を返した。

 少し遅れて、外の柱に光が走った。


 床の奥で音がした。

 止まっていた水車が回り始めるような、重い音だった。


「そのまま」


 リシェは石盤に触れ、隣の目盛りを見る。

 僕は彼女の声だけを聞こうとした。


 外から叫び声がした。


「東、上がりすぎる!」


 リシェが顔を上げた。

「アルド、止めて」


 すぐに力を引いた。

 剣が暗くなる。


 窓の向こうで、イネスが何かを操作していた。腕を上げ、下げ、もう一度目盛りを覗く。

 トーヴが走っていく。


 待つしかなかった。


 少し強めれば押し通せるのではないか。

 そんな考えが頭をよぎった。

 昨夜、砂の桶で赤く光っていた石を思い出す。


 僕は柄を握り直さず、そのまま待った。


「戻った!」


 イネスの声がした。


 リシェが記録を取り、もう一度、輪の向きを調整する。

「東の管が、思ったより細くなってる。ここからは、さっきより少なく」


「どれくらい?」

「目盛りの半分」


 僕は頷いた。


 二度目の開始は、遅かった。

 でも、止まらなかった。


 白い光が床を進み、壁を上り、小屋の外へ出ていく。

 村の空に、薄い膜が広がった。


 裂けていた端が重なる。

 濁った風が、少しずつ遠ざかった。


 誰かが声を上げた。

 まだだ、とリシェが言う。


 僕の右手が震えた。

 彼女が見ている。分かっている。


「手首、少し下げて。剣の重さは台に預けて」


 言われたとおりにすると、震えが弱まった。

 自分で全部支える必要はなかった。


 長い時間が過ぎた気がした。

 実際には、どれくらいだったのか分からない。


 最後にリシェが、静かに言った。


「止めて」


 僕は力を引いた。


 結界の光は、消えなかった。


     *


 歓声は、すぐには起こらなかった。


 みんな、空を見ていた。

 また割れるのではないかと、息を潜めて待っていた。


 トーヴが柱を確かめた。

 イネスが石盤の数字を読み上げる。

 リシェが帳面へ書き込んだ。


「保ってる」


 その言葉で、ようやく誰かが泣いた。

 人々が顔を見合わせ、握っていた手を離し、座り込んだ。


 僕は柄から手を放した。

 指が開きにくかった。


 リシェが結晶へ紙を当てる。

 新しい線を引いた。


「一割より、少し多い」

 彼女が言った。

「昨夜測ったところから、それくらい減った」


 残る光を見た。

 まだ多く見えた。

 でも、村ひとつを直すだけで、これだけ減る。


「この村は、どれくらい持つ?」

「今の範囲なら、次の大きな嵐が来なければ二十日くらい。天候が穏やかなら、もう少し」


「二十日」


 繰り返すと、彼女が頷いた。

「ずっと、じゃない」


 僕は窓の外を見た。


 少年の母親が家の戸を開けていた。

 少年はイネスのそばの椅子に座り、添え木のついた足を浮かせている。


 二十日。

 短いと思った。

 でも昨夜、今夜を越せるか分からなかった人たちにとっては、確かに増えた時間だった。


「その間に、次を考えるんだね」

「そう」


 リシェは記録を乾かすため、頁を開いたまま置いた。

「逃げる準備も含めて」


     *


 昼過ぎ、僕は村の外れで、花壇の縁を直していた。


 石がひとつ外れ、土が道へ流れていた。

 踏んでしまった芽が、寝たままになっている。起こせばいいのか分からず、周囲の土だけをそっと寄せた。


「そこ、深く埋めないで」


 顔を上げると、リシェがいた。

 今度は道具箱ではなく、小さな水差しを持っている。


 彼女は膝をつき、指先で土を戻した。

 根元へ少しだけ水を落とす。


「戻るかな」

 僕が尋ねると、彼女は言った。

「分からない。待ってみる」


 石の台には、新しい花が供えられていた。

 僕が助けた少年の母親が、朝、置いていったものだった。


 僕は名前を見た。

 ヴァルゼン。


 村を助けたからといって、この名前の前に立つ難しさは変わらなかった。


「ここを出たら、連絡所へ行く」

 リシェが言った。

「西じゃなくて、北の古い監視所。ほかの集落の記録がある」


「君が?」


「村の方は、イネスたちが見られる。縮める順番と、避難を始める目盛りも決めた」


 彼女は水差しを置いた。

 表面に、小さな欠けがあった。


「あなたに、来てほしい」


 僕は彼女を見た。


「剣が必要だから」

 すぐに言い添えられた。

「それに、あなたひとりを向かわせても、設備が扱えない」


「分かった」


「簡単に言わないで。王都へ帰るのが遅くなる」

「知らせは送る」

「危ない道もある」

「道は、教えてほしい」


 リシェは僕の顔を見つめた。

 言い返す言葉を探しているようだった。


 やがて、視線を石の台へ戻した。


「あなたは、まだ許せない」


 僕は頷いた。


「村を助けてもらっても。今、一緒に作業できても。それと、あの人がいなくなったことは、別だから」


「うん」


「途中で、嫌なことを言うかもしれない」


 今度は、すぐに返事をしなかった。

 何でも受け入れると言うのは、違う気がした。


「そのときは、僕も言う」

 僕は答えた。

「分からないことは聞くし、違うと思ったら、そう言う」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「……それでいい」


 僕は外れた石を持ち上げた。

 どこへ戻すか尋ねると、彼女が指さした。


 まだ、赦されたわけではない。

 何が正しかったのかも分からない。


 それでも、明日、一緒に向かう場所ができた。


 石を置くと、リシェが両側の土を押さえた。

 僕はその手が離れるのを待ってから、ゆっくりと指を抜いた。

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