あなたは、まだ許せない
最初の作業で、失敗した。
聖剣の先を金属の輪へ近づけ、言われたとおりに魔力を流したつもりだった。
壁の目盛りが跳ね、リシェがすぐに管を外した。
「多い」
その声に、僕は息を止めた。
床に置かれた小さな石が、赤く光っている。
リシェは火ばさみでそれを持ち上げ、砂を敷いた桶へ移した。
「壊れた?」
「逃がす方へ流した。入口までは入ってない」
僕は剣を持つ手を下げた。
「ごめん」
「今の半分より、もっと少なく」
戦いでは、速く、強く流す必要があった。
迷えば刃が届かない。受け止めるのが遅れれば、仲間に魔法が当たる。
必要とされているのは、その逆だった。
リシェは金属の輪の位置を直した。
さっき僕が魔力を流した管は、結界そのものではなく、小さな測定用の石へつながっていた。いきなり本体へ入れないと聞いたときは、慎重すぎると思った。
今は、その手順に救われていた。
「息を吐くくらいで」
「吐くくらい」
「力まないで。剣を振るわないでしょう」
僕は肘を下げた。
柄を握りしめるのをやめ、重さを支えるだけにする。
細く。
ゆっくり。
刃の根元に、かすかな光が生まれた。
壁の目盛りが動いた。
今度は、リシェが止めなかった。
「それを、保って」
数える声がした。
一、二、三。
僕は動かずに待った。
肩が痛んだ。息を止めそうになるたびに、彼女が吐いてと言った。
「止めて」
柄から力を抜く。
光が消えた。
リシェは帳面に数字を書き、測定用の石を確かめた。
何も言わない時間が長かった。
「同じこと、もう一度できる?」
頷こうとして、僕は尋ねた。
「どれくらい、ずれてもいい?」
彼女が顔を上げた。
「今の目盛りから、ひとつ上下するくらい」
「それ以上なら、声をかけて」
「分かった」
二度目は、少し弱すぎた。
三度目で、同じ幅に収まった。
ガレスが見たら驚くだろう。
魔王に剣を届かせたときより、小さな目盛りを動かせたことに、僕は安堵していた。
*
夜明け前、村の人たちが小屋へ集まった。
眠ったのは一刻にも満たなかった。
それでも、目を閉じる前より頭が働いた。リシェも交代で横になった。集会所で子どもたちを世話していたイネスという女性が、その間、石盤の監視を引き受けた。
イネスも、村で結界を扱うひとりだった。
ただ、修復用の新しい接続を組む仕事には慣れていないらしい。
「見てないで、手順を書いて」
彼女はリシェに言った。
「あなたがいなくても、止めるくらいできるように」
リシェは一瞬、何かを言いかけた。
結局、帳面を取り、止める弁の順番を大きな字で書いた。
トーヴは夜のうちに柱の支えを直していた。
ほかの村人は、避難所を残すために必要な範囲を測り、崩れた柵を片づけた。
僕が剣を持って座っている間に、いくつもの仕事が終わっていた。
「まず、ここまで戻す」
リシェが床に広げた村の図を指した。
住宅と井戸、それに共同の倉庫が入っている。西の畑は外れていた。
「畑は」
誰かが尋ねた。
「全部戻すと、持つ日数が短くなる」
「種が残ってる区画だけでも」
彼女は図に細い線を足した。
トーヴと相談し、柱をひとつ外側へ戻すことになった。すべては守れなくても、次に植える種までは失わずに済むかもしれない。
ひとつ線を引くたび、残せるものと残せないものが決まった。
僕は図を覗き込んだ。
剣を置く場所は描いていない。
その代わり、人の立つ場所が何か所も印されていた。
「この印は?」
「調整する人。私の合図で、順番に開ける」
「ひとりでできないの?」
「離れてるから。それに、流れ方をそれぞれ見てもらわないと」
リシェは印のひとつを指で叩いた。
「あなたは、ここ。動かないで」
僕の役目は小さな四角ひとつだった。
それを見て、少しだけ安心した。
*
作業は、朝の光の中で始まった。
小屋の窓から、空が見えた。
灰色は薄くなっている。でも遠い尾根の上には、まだ濁った筋が残っていた。
聖剣を受け台へ乗せる。
刃には金属の輪が三つ取りつけられていた。最初の輪が流れを受け、次が量を調整し、最後が異常な分を逃がす。リシェはそう説明した。
「勝手に強めないこと」
「分かった」
「止めてと言ったら、途中でも止めて」
「分かった」
彼女は柄の結晶へ紙を当てた。
昨夜の線より、ほんの少し光が縮んでいる。
試した分。
少年を助けたときに使った分。
何もしていないつもりでも、残りは減っていた。
「始める」
僕は息を吐いた。
柄へ意識を向け、細く力を流す。
目盛りが上がった。
リシェが片手を上げる。
窓の外で、トーヴが合図を返した。
少し遅れて、外の柱に光が走った。
床の奥で音がした。
止まっていた水車が回り始めるような、重い音だった。
「そのまま」
リシェは石盤に触れ、隣の目盛りを見る。
僕は彼女の声だけを聞こうとした。
外から叫び声がした。
「東、上がりすぎる!」
リシェが顔を上げた。
「アルド、止めて」
すぐに力を引いた。
剣が暗くなる。
窓の向こうで、イネスが何かを操作していた。腕を上げ、下げ、もう一度目盛りを覗く。
トーヴが走っていく。
待つしかなかった。
少し強めれば押し通せるのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。
昨夜、砂の桶で赤く光っていた石を思い出す。
僕は柄を握り直さず、そのまま待った。
「戻った!」
イネスの声がした。
リシェが記録を取り、もう一度、輪の向きを調整する。
「東の管が、思ったより細くなってる。ここからは、さっきより少なく」
「どれくらい?」
「目盛りの半分」
僕は頷いた。
二度目の開始は、遅かった。
でも、止まらなかった。
白い光が床を進み、壁を上り、小屋の外へ出ていく。
村の空に、薄い膜が広がった。
裂けていた端が重なる。
濁った風が、少しずつ遠ざかった。
誰かが声を上げた。
まだだ、とリシェが言う。
僕の右手が震えた。
彼女が見ている。分かっている。
「手首、少し下げて。剣の重さは台に預けて」
言われたとおりにすると、震えが弱まった。
自分で全部支える必要はなかった。
長い時間が過ぎた気がした。
実際には、どれくらいだったのか分からない。
最後にリシェが、静かに言った。
「止めて」
僕は力を引いた。
結界の光は、消えなかった。
*
歓声は、すぐには起こらなかった。
みんな、空を見ていた。
また割れるのではないかと、息を潜めて待っていた。
トーヴが柱を確かめた。
イネスが石盤の数字を読み上げる。
リシェが帳面へ書き込んだ。
「保ってる」
その言葉で、ようやく誰かが泣いた。
人々が顔を見合わせ、握っていた手を離し、座り込んだ。
僕は柄から手を放した。
指が開きにくかった。
リシェが結晶へ紙を当てる。
新しい線を引いた。
「一割より、少し多い」
彼女が言った。
「昨夜測ったところから、それくらい減った」
残る光を見た。
まだ多く見えた。
でも、村ひとつを直すだけで、これだけ減る。
「この村は、どれくらい持つ?」
「今の範囲なら、次の大きな嵐が来なければ二十日くらい。天候が穏やかなら、もう少し」
「二十日」
繰り返すと、彼女が頷いた。
「ずっと、じゃない」
僕は窓の外を見た。
少年の母親が家の戸を開けていた。
少年はイネスのそばの椅子に座り、添え木のついた足を浮かせている。
二十日。
短いと思った。
でも昨夜、今夜を越せるか分からなかった人たちにとっては、確かに増えた時間だった。
「その間に、次を考えるんだね」
「そう」
リシェは記録を乾かすため、頁を開いたまま置いた。
「逃げる準備も含めて」
*
昼過ぎ、僕は村の外れで、花壇の縁を直していた。
石がひとつ外れ、土が道へ流れていた。
踏んでしまった芽が、寝たままになっている。起こせばいいのか分からず、周囲の土だけをそっと寄せた。
「そこ、深く埋めないで」
顔を上げると、リシェがいた。
今度は道具箱ではなく、小さな水差しを持っている。
彼女は膝をつき、指先で土を戻した。
根元へ少しだけ水を落とす。
「戻るかな」
僕が尋ねると、彼女は言った。
「分からない。待ってみる」
石の台には、新しい花が供えられていた。
僕が助けた少年の母親が、朝、置いていったものだった。
僕は名前を見た。
ヴァルゼン。
村を助けたからといって、この名前の前に立つ難しさは変わらなかった。
「ここを出たら、連絡所へ行く」
リシェが言った。
「西じゃなくて、北の古い監視所。ほかの集落の記録がある」
「君が?」
「村の方は、イネスたちが見られる。縮める順番と、避難を始める目盛りも決めた」
彼女は水差しを置いた。
表面に、小さな欠けがあった。
「あなたに、来てほしい」
僕は彼女を見た。
「剣が必要だから」
すぐに言い添えられた。
「それに、あなたひとりを向かわせても、設備が扱えない」
「分かった」
「簡単に言わないで。王都へ帰るのが遅くなる」
「知らせは送る」
「危ない道もある」
「道は、教えてほしい」
リシェは僕の顔を見つめた。
言い返す言葉を探しているようだった。
やがて、視線を石の台へ戻した。
「あなたは、まだ許せない」
僕は頷いた。
「村を助けてもらっても。今、一緒に作業できても。それと、あの人がいなくなったことは、別だから」
「うん」
「途中で、嫌なことを言うかもしれない」
今度は、すぐに返事をしなかった。
何でも受け入れると言うのは、違う気がした。
「そのときは、僕も言う」
僕は答えた。
「分からないことは聞くし、違うと思ったら、そう言う」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「……それでいい」
僕は外れた石を持ち上げた。
どこへ戻すか尋ねると、彼女が指さした。
まだ、赦されたわけではない。
何が正しかったのかも分からない。
それでも、明日、一緒に向かう場所ができた。
石を置くと、リシェが両側の土を押さえた。
僕はその手が離れるのを待ってから、ゆっくりと指を抜いた。




