剣に残った敵
「剣を、見せて」
リシェはそう言ってから、自分の言葉を確かめるように唇を結んだ。
僕は柄に手をかけた。
彼女の肩が強張る。
「ここで抜いていい?」
「……鞘のまま。まずは」
広場の人々は、中央の集会所へ移っていた。縮めた結界の中に入らない家もあり、毛布や食料を運び出している。
西の畑は戻らなかった。
けれど、トーヴが人数を数え直し、全員がいると告げたときには、何人かがその場へ座り込んだ。
僕たちは設備小屋へ戻った。
先ほどの老人が入口に立った。
「そいつを中へ入れるのか」
リシェは答えず、石盤の横に残った白い筋を示した。
「さっき、この色に光ったのを見たでしょう」
「だからって」
「調べたい。何が起きたのか」
老人は僕を見た。
目の端に深い皺がある。外へ出る前には気づかなかったが、杖の先が震えていた。
「妙なことをしたら、追い出す」
「分かった」
僕が答えると、老人は戸の横に腰を下ろした。
見張りなのだと思う。
剣帯を外し、机の上へ置く。
腰が軽くなると、代わりに肩や肋骨の痛みがはっきりした。
リシェは鞘に直接触れなかった。
細い棒の先に透明な欠片を挟み、柄の結晶へ近づける。
欠片が微かに光った。
彼女は棒を離し、もう一度近づけた。
同じことを三回繰り返す。
「これは、最初からこういう色だった?」
柄の結晶を指す。
「いや。前は、もっと青かった」
白くなったのは、決戦のあとだ。
剣そのものが損傷していると聞き、色の変化もそのせいだと思っていた。
「いつ変わったの?」
「魔王を……倒したあとに見たときには」
言葉が途切れた。
戸口で老人が動いた気配がした。
リシェは顔を上げなかった。
「それまでと、違うことは?」
「新しい魔力を吸わなくなった。隊の術師は、内部の機構が壊れてると言ってた」
「使う方は?」
「使える。でも、減った分が戻らない」
彼女は壁の棚から、古い帳面を取った。
背の部分は何度も縫い直されている。
濡れた紙を剥がすように、慎重に頁を開く。
そこには線と数字が並んでいた。
僕には読めなかった。
「聖剣は、魔力を吸う武器なの?」
「触れたものから。何でも、いくらでもというわけじゃないけど」
魔王の結界を破れると期待されたのも、その性質があったからだ。
受け止めた魔法を弱め、その一部を剣へ取り込む。僕が魔王の前まで辿り着けた理由のひとつでもあった。
リシェは帳面の頁と、光る欠片を見比べた。
「この村の結界は、ヴァルゼンの魔力に合わせて作られてる」
声が低かった。
「合わない魔力を入れると、通らないか、流れが乱れる。だから、外から届く補充が止まったら、蓄えてある分で動かすしかない」
「止まったのは、いつ?」
「六日前の夜」
僕は机の縁を掴んだ。
その夜、僕たちは城の外で眠った。
ガレスは眠らず、負傷者のそばにいた。僕は力を使い果たし、剣を抱いたまま、泥の上で朝を迎えた。
同じ夜、ここでは何が起きていたのだろう。
「すぐには、分からなかった」
リシェが続けた。
「嵐で届きにくくなることはあったから。でも翌日も、その次の日も、補充されなかった」
だから手を傷めていたのか。
だから目の下に隈があったのか。
「この剣の中に」
彼女は言いかけて、止まった。
帳面を閉じる。
その指が、紙の角を強く押さえていた。
「同じ反応がある。結界に届いていた魔力と」
*
魔王の顔を、よく覚えていない。
そう言ったら、誰も信じないだろう。
僕を称えた人は、きっと、最後の戦いを何度でも語れると思っている。
実際に覚えているのは、もっと小さなものだった。
ガレスの盾の縁が裂けた音。
口の中に溜まる血の味。
崩れた天井から舞い落ちる白い粉。
滑りそうになる剣の柄。
ヴァルゼンは、玉座にはいなかった。
床を走る溝の中心に立っていた。壁も柱も傷ついていたのに、その足元だけは何本もの光が残っていた。
その光を、僕は攻撃のための魔法陣だと思った。
魔王が腕を上げる。
黒い槍のようなものが飛んできた。
ガレスが盾で受け、膝をついた。
今だと叫ばれた。
僕は踏み込んだ。
剣が届いた。
その先の記憶は、ひどく静かだった。
あれだけ響いていた音が遠ざかり、僕と魔王の息だけが聞こえた。
魔王は、刃を掴んだ。
僕は引き抜こうとした。
動かなかった。
細い亀裂が、刃の根元に走った。
何かを言われた気がする。
聞き取れなかった。
それから、柄が焼けるほど熱くなった。
僕は今でも、それを最後の攻撃だったと思っている。
ただ、最後の攻撃だけで、すべてを説明できるのかは分からなかった。
「魔王の魔力を、封じ込めたのかもしれない」
僕はリシェに言った。
彼女は黙って聞いていた。
僕が話し終えても、すぐには返事をしなかった。
「中を、少しだけ調べてもいい?」
「必要なら」
「抜いて。私に向けないで、そこの受け台へ」
僕は言われたとおりにした。
白い刃が灯りの下へ出る。
根元の亀裂に、リシェの目が止まった。
彼女は薄い金属の輪を刃の周囲に置いた。透明な欠片を輪の溝へ挟み、石盤から外した細い管をつなぐ。
何度も位置を変えたあと、息を吐いた。
「流さないでね。今は見るだけ」
「分かった」
欠片の光が強くなった。
壁際の細い目盛りが、ほんの少し動いた。
リシェはすぐに管を外した。
「通る」
彼女が言った。
「少なくとも、ごく少量なら。この結界の入口を通せる」
戸口で、老人が立ち上がった。
「魔王様が、そこにいるのか」
リシェの手が止まった。
僕も何も言えなかった。
老人は近づいてきた。
剣を見つめる目が、さっきまでと違っていた。
「声は。話せないのか」
「分からない」
リシェは一度そう答え、それから首を横に振った。
「……今、分かったのは、魔力が似ているということだけ。あの人が生きてるとは言えない」
老人の肩が下がった。
僕は、刃に映る自分の顔を見た。
魔王の声は、一度も聞こえたことがない。
僕が剣に流すよう命じれば、力が動く。それだけだ。
ここに命が残っていると言えたら、何かが救われる気がした。
でも、言えなかった。
「そうか」
老人は机から離れた。
戸を開け、外へ出る。
閉めるとき、ぶつけないように手を添えたのが見えた。
*
トーヴが、深い椀を二つ持ってきた。
「食え。考えるのは、そのあとだ」
豆と根菜の煮込みだった。
湯気を吸うと、まだ喉が痛んだ。
リシェは椀を受け取ったが、机の端へ置いたまま帳面を開いた。
トーヴが無言で帳面を閉じる。
「冷める」
彼女は口を結び、ようやく匙を取った。
僕は一口食べた。
柔らかい豆が舌で潰れる。
空腹だったことに、そこで気づいた。
「結界が戻れば、畑も守れる?」
尋ねると、リシェは椀を見つめたまま答えた。
「外側の柱が無事なら。でも、先に家の範囲を戻す」
僕は頷いた。
「剣の力を使ってほしい」
匙の音が止まった。
「全部を、ここに入れていいと言ってるの?」
僕は答えかけた。
使えるなら、使えばいい。そのつもりだった。
リシェは僕を見た。
「この村だけじゃない」
小屋の奥へ視線を向ける。
棚の上に、封の切られた書簡が重ねられていた。
「同じように補充を受けてた場所がある。少なくとも、私が連絡を取ってたところが四つ」
「そこも、六日前から?」
「確認できたのは一か所。昨日、使いの人が来た。うちより残ってるけど、減り続けてるって」
僕は匙を置いた。
目の前の村を救えば終わりではなかった。
地図に載っていない場所が、ほかにもある。
「どれだけ使えば、この村は持つ?」
「まだ分からない。だから、全部なんて言わないで」
声は厳しかった。
でも、彼女は僕から剣を取り上げようとはしなかった。
「最初は、少しだけ入れる。目盛りの変化を見て、必要な分を計算する。それでも機械が壊れてたら、先に直す。魔力を入れるだけでは、直らないから」
僕は頷いた。
分からないことを、分かったふりで引き受けない。
それが今の僕にできる、最初の仕事なのかもしれなかった。
リシェは食事を終えると、柄の結晶の横へ細い紙を当てた。
光っている範囲の端を、炭で印す。
「これを、使う前の記録にする」
僕はその紙を見つめた。
剣を手にしてから、残量を誰かと数えたことはなかった。戦いのあとには少しずつ補充できていたからだ。
これからは違う。
紙に引かれた一本の線が、妙に重かった。
*
夜半、風が弱まった。
小屋の戸を開けると、集会所の窓に明かりが灯っていた。
何人もの影が動いている。寝床を詰め、鍋を回し、子どもを抱いて歩いていた。
リシェは僕の隣に立った。
手には、修復に使う金属の輪がある。
「どうして、まだいるの」
不意に尋ねられた。
「帰れって言ったでしょう」
「困ってるから」
彼女の口元が歪んだ。
僕は続けた。
「……それだけじゃない。僕が関係してるなら、知らないまま帰りたくない」
「知って、どうするの」
すぐには答えられなかった。
全部救う、と言うのは簡単だった。
剣の力を全部使えと言うのと同じくらい、簡単だった。
「まず、この村を持たせたい」
僕は言った。
「そのあとで、ほかの場所を確かめたい。今は、それしか言えない」
リシェは金属の輪を両手で持った。
巻き布の端が汚れている。
「私は、あなたが何を考えてここへ来たのか知らない」
「うん」
「あの人が、あなたに何をしたのかも知らない」
「……うん」
彼女は一度、息を吸った。
「今、誰が正しかったかを話したら、たぶん、私は作業ができなくなる」
「分かった」
戸口の向こうで、結界の石盤が低く鳴った。
一定の間隔で鳴る、細い音だった。
「だから今夜は、手伝って」
僕は頷いた。
リシェは中へ戻り、机の脇に置いた聖剣を示した。
僕はそれを持ち上げた。
六日前、すべてを終わらせるために振るった剣だった。
その刃を今度は、壊れかけた村の結界へ向けて、静かに差し出した。




