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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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2/12

英雄を入れるな

 少年は、倒れた柵の向こうで立ちすくんでいた。

 片手で木の輪を抱えている。風にさらわれた玩具を追いかけたのだろう。村へ戻ろうとした足元に、外れた柵の横木が転がっていた。


 僕は走った。


「待って!」

 リシェの声が背中に当たる。

「西の柱より先は、息を吸わないで!」


 返事をする間に、風が口へ飛び込んだ。

 鉄を舐めたような味がした。喉の奥がひりつき、咳がこみ上げる。反射的に足が鈍った。


 少年のすぐ横で、土が浮いた。

 畑の表面が薄い皮のように剥がれ、灰色の渦へ吸い上げられていく。


 魔力嵐。

 名前は知っていた。遠征中、進路の変更を命じられたこともある。けれど僕が見ていたのは、いつも砦の結界の内側からだった。


 足を止めている場合ではなかった。

 外套の襟を口へ押し当て、息を止める。


 石柱を越えた瞬間、膝に力が入らなくなった。

 泥に足を取られたのかと思った。違う。地面は乾いている。見えない水の中へ踏み込んだように、身体そのものが重かった。


 聖剣を抜く。


 刀身の根元に白い筋が灯った。補助の魔力を脚へ回すと、鈍っていた筋肉が動いた。いつもより強く流さないと、前へ進めなかった。


 少年が顔を上げる。

 僕を見て何か叫んだが、風に潰れて聞こえない。


 剣を鞘へ戻し、しゃがみ込んだ。

 彼の右足が、柵と地面の間に挟まっていた。


 横木を掴む。持ち上がらない。

 折れた支柱の先が、深く土に食い込んでいる。


 息が苦しい。

 少年の唇が動いた。


 いたい。


 声ではなく、その形だけが分かった。


 僕は片膝を地面へつき、横木の下に肩を入れた。

 持ち上げるのではなく、ずらす。ガレスが瓦礫の下から人を出すとき、何度もやっていた方法だった。


 木が軋んだ。

 右肩に鋭い痛みが走る。

 少年の足が抜けた。


 彼を抱き寄せ、顔を僕の胸へ押しつける。

 帰り道を見た。


 灰色の向こうに、村が見えなかった。


 どちらから来た。

 石柱は。

 目を細めた瞬間、砂が入って涙がにじんだ。


 肺が勝手に空気を求めた。

 吸ってはいけない。そう考えたときには、喉がひゅっと鳴っていた。


 胃の底が捻れた。

 少年を落としそうになり、抱える腕に力を込める。


 赤いものが、目の前で揺れた。


 紐だった。

 風に踊る赤い紐が、腰の高さに一本張られている。


「それに沿って!」


 今度は、声が聞こえた。


 紐を辿る。

 三歩。四歩。

 足裏の感覚が薄れていく。踏んでいるのが地面なのか、自分の外套なのかさえ分からない。


 誰かの手が腕を掴んだ。


 リシェだった。

 腰に赤い紐を結び、柱の陰から半身を乗り出している。その後ろでは、年配の男が紐を両手で握っていた。


「子どもを先に!」


 僕は少年を差し出した。

 彼女が受け取る。男が肩を引き、2人が柱の内側へ戻る。


 急に身体が軽くなった。


 その軽さのまま、僕は膝から崩れた。


     *


 頬に冷たい布が触れた。


「ゆっくり吐いて。吸おうとしないで」


 言われても、肺が勝手に動いた。

 咳き込むたびに肋骨の下が痛む。吐き出した唾に、細かな灰色の粒が混じっていた。


「目は擦らない」


 手首を押さえられる。

 少しずつ水が流され、まぶたの裏のざらつきが薄れた。


 焦点が合うと、リシェがいた。


 僕は家の軒下に寝かされていた。すぐ近くで、少年の母親が子どもを抱きしめている。

 少年が泣いていた。

 声が出る。そのことに、ようやく息をつけた。


「足は?」

 僕が尋ねると、リシェは振り向かずに答えた。

「腫れてる。あとで、歩かせずに診てもらう」


 僕は起き上がろうとした。

 肩に手が置かれる。


「まだ動かないで」

「結界は」

「今、西側を閉じてる」


 広場の向こうで、人が石柱の根元を操作していた。小屋の屋根にあった青白い光は消え、代わりに南の柱が強く光っている。


 村の西端が、灰色の向こうに沈んでいた。

 さっきまで見えていた畑と物置が、もう見えない。


「全部は守れないから、範囲を縮めたの」

 僕の視線に気づいたのか、彼女が言った。

「最初にそうするつもりだった?」

「外に人がいないことを確かめてからね」


 リシェの袖は裂けていた。

 赤い紐の繊維が、外套に絡んでいる。


「僕を助けに、外へ出た?」

「柱から手が届くところまで」


 僕は口を開きかけ、閉じた。

 自分だけで助けるつもりで飛び出して、彼女まで危険にさらした。


「ごめん」

「次は、声を聞いて」


 叱るというより、仕事の確認のような言い方だった。

 その方が、ずっと胸に残った。


 年配の男が駆け寄ってきた。

「リシェ。北の補助盤が上がらん」

「二段目の弁は?」

「固まってる。工具でも動かない」


 彼女は立ち上がった。

 ふらついた足元を、男が支える。


「休めてないだろう」

「あとで」


 その返事を、僕は知っていた。

 ガレスに言われるたび、自分もそう答えていたからだ。


 リシェは道具箱を拾い、小屋へ向かった。


 少年の母親が、僕のそばに膝をついた。


「ありがとうございました」


 僕は顔を上げた。

 女性の目は赤かった。抱きしめた少年の背中を、まだ何度も撫でている。


「この子を、連れ戻してくださって」


 頷いたら、喉が痛んだ。

 礼を受け取っていいのか迷う自分がいた。でも、目の前の子どもが無事だったことまで、難しく考えたくはなかった。


「戻れて、よかった」


 少年が母親の服から顔を出した。


「輪っか」

「大丈夫。置いてきていい」

「違う。持ってる」


 彼の脇には、傷だらけの木の輪が挟まっていた。

 僕は、少しだけ笑った。


 そのとき、道の向こうから怒鳴り声がした。


「あいつを小屋へ近づけるな!」


 老人が立っていた。

 昼間、僕を見て戸を閉じた人だった。


「魔王様を殺した剣だぞ。結界に何をするか分からん」

「今、子どもを助けてくれたんだ」

 年配の男が言う。

「だから何だ。結界が止まったのは、そいつが――」


 老人は言い切らなかった。


 広場の人たちが、僕を見る。

 恨みだけではなかった。怯えている目があった。どう扱えばいいか分からず、誰かの判断を待っている目もあった。


 僕は鞘を押さえた。


 危険なものを持っているように見えるのだろう。

 実際、この剣で、彼らが頼っていた相手を殺した。


「剣は抜かない」

 僕は言った。

「指示されたことだけする。力仕事があれば、使ってほしい」


「お前の力なんぞ――」

「今は、それでも要る」


 小屋の戸口から、リシェが言った。


 老人が彼女を振り返る。

 リシェは僕を見た。


「歩ける?」

「歩ける」

「嘘なら、今言って」

「……走るのは、まだ無理だと思う」

「走らなくていい。重い板を持ち上げるのを手伝って」


 彼女は老人へ向き直った。


「剣は鞘に入れたまま。私が見てる」

「リシェ」

「今は、村の中で争ってる余裕がない」


 声が硬かった。

 老人は何か言いかけたが、やがて道を空けた。


 僕は立ち上がった。

 頭の奥が揺れたけれど、今度は隠さず、柱を借りて少し待った。


     *


 小屋の中は、熱かった。


 床から伸びる管が壁を這い、中央の石盤へ集まっている。金属の匂いがした。油の染みた布が何枚も散らばり、浅い皿には外した留め具が並んでいた。


「こっちを持って」


 リシェが指したのは、床に半分埋まった鉄板だった。

 片側の蝶番が歪み、斜めに引っかかっている。


 年配の男と2人で持ち上げる。

 右肩が痛んだ。


「下げて」

 すぐにリシェが言った。

「持ち方が変わった。肩、傷めてる?」


 僕は頷いた。

 彼女は鉄板の下に角材を差し込んだ。


「一度で上げなくていい。少しずつ」

 男が言った。

「力はあるんだろうが、腰まで壊すなよ」


 名前を尋ねると、トーヴと答えた。

 この村で、大工仕事と設備の手入れをしているらしい。


「結界は分からん。形のあるものを直すだけだ」

「それが直らないと、私にも何もできない」

 リシェが言った。


 2人のやりとりには、慣れがあった。

 誰が何をできるのか、いちいち確かめなくても分かっている。


 僕は角材を押し込みながら、自分の足の置き場を探した。


 鉄板の下には、小さな水車に似た装置があった。

 欠けた部品が噛み込み、軸を止めている。リシェが細い工具で破片を引き抜くと、装置が低く唸った。


「戻った」

 トーヴが息をついた。


 けれど、石盤の光は弱いままだった。

 リシェは指先を溝に当て、何かを数えている。


「足りない」

 その声は、ほとんど独り言だった。


 外で、鐘が鳴った。


 トーヴが顔を上げた。

 リシェは戸口へ走った。


 ついて出ると、家と家の間を覆う光が大きくたわんでいた。風に押された帆のように、内側へへこんでいる。


「北も閉じる! 井戸よりこっちへ!」


 リシェの声に、人々が動いた。


 僕は家の戸を叩き、残っている人がいないか確かめた。老人の手を取り、ゆっくり広場へ連れていく。

 さっき僕を拒んだ人だった。


 その人の手が僕の腕を握った。

 強く。何も言わずに。


 井戸を越えたところで、背後の石柱が鳴った。


 根元の土が崩れ、柱が傾く。

 その先には、まだ母子がいた。


 考えるより先に手が出た。

 僕は柱へ肩を当て、倒れるのを止めた。


「離れて!」

 リシェが叫ぶ。

「そこは流れが――」


 腰の鞘が、石柱に触れた。


 熱が走った。


 焼けるような痛みではない。

 剣を抜く直前、柄に灯る魔力の感触。それが、腰から石柱へ流れた。


 消えかけていた溝が、白く光った。


 たわんでいた光の壁が持ち直す。

 灰色の風が、押し返された。


 ほんの一呼吸だった。


 次の瞬間には光が薄れ、トーヴたちが差し入れた支えに柱の重さが移った。母子が走り抜け、リシェが根元の弁を閉じる。


 その区画の光が消えた。


 僕は一歩退いた。

 鞘から離した手が、震えていた。


 リシェが僕を見る。

 いや、僕の腰の剣を見ていた。


「今の」

 彼女が近づく。

「何をしたの?」


「何も」

 僕は息を整えながら言った。

「触れただけだ」


 彼女は石柱へ手を伸ばした。

 消えた溝をなぞり、もう一度、聖剣へ目を戻す。


 広場で誰かが泣いていた。

 誰かが人数を数えていた。


 その声の中で、リシェが呟いた。


「どうして、その剣から」


 続きは、小さすぎて聞き取れなかった。

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