英雄を入れるな
少年は、倒れた柵の向こうで立ちすくんでいた。
片手で木の輪を抱えている。風にさらわれた玩具を追いかけたのだろう。村へ戻ろうとした足元に、外れた柵の横木が転がっていた。
僕は走った。
「待って!」
リシェの声が背中に当たる。
「西の柱より先は、息を吸わないで!」
返事をする間に、風が口へ飛び込んだ。
鉄を舐めたような味がした。喉の奥がひりつき、咳がこみ上げる。反射的に足が鈍った。
少年のすぐ横で、土が浮いた。
畑の表面が薄い皮のように剥がれ、灰色の渦へ吸い上げられていく。
魔力嵐。
名前は知っていた。遠征中、進路の変更を命じられたこともある。けれど僕が見ていたのは、いつも砦の結界の内側からだった。
足を止めている場合ではなかった。
外套の襟を口へ押し当て、息を止める。
石柱を越えた瞬間、膝に力が入らなくなった。
泥に足を取られたのかと思った。違う。地面は乾いている。見えない水の中へ踏み込んだように、身体そのものが重かった。
聖剣を抜く。
刀身の根元に白い筋が灯った。補助の魔力を脚へ回すと、鈍っていた筋肉が動いた。いつもより強く流さないと、前へ進めなかった。
少年が顔を上げる。
僕を見て何か叫んだが、風に潰れて聞こえない。
剣を鞘へ戻し、しゃがみ込んだ。
彼の右足が、柵と地面の間に挟まっていた。
横木を掴む。持ち上がらない。
折れた支柱の先が、深く土に食い込んでいる。
息が苦しい。
少年の唇が動いた。
いたい。
声ではなく、その形だけが分かった。
僕は片膝を地面へつき、横木の下に肩を入れた。
持ち上げるのではなく、ずらす。ガレスが瓦礫の下から人を出すとき、何度もやっていた方法だった。
木が軋んだ。
右肩に鋭い痛みが走る。
少年の足が抜けた。
彼を抱き寄せ、顔を僕の胸へ押しつける。
帰り道を見た。
灰色の向こうに、村が見えなかった。
どちらから来た。
石柱は。
目を細めた瞬間、砂が入って涙がにじんだ。
肺が勝手に空気を求めた。
吸ってはいけない。そう考えたときには、喉がひゅっと鳴っていた。
胃の底が捻れた。
少年を落としそうになり、抱える腕に力を込める。
赤いものが、目の前で揺れた。
紐だった。
風に踊る赤い紐が、腰の高さに一本張られている。
「それに沿って!」
今度は、声が聞こえた。
紐を辿る。
三歩。四歩。
足裏の感覚が薄れていく。踏んでいるのが地面なのか、自分の外套なのかさえ分からない。
誰かの手が腕を掴んだ。
リシェだった。
腰に赤い紐を結び、柱の陰から半身を乗り出している。その後ろでは、年配の男が紐を両手で握っていた。
「子どもを先に!」
僕は少年を差し出した。
彼女が受け取る。男が肩を引き、2人が柱の内側へ戻る。
急に身体が軽くなった。
その軽さのまま、僕は膝から崩れた。
*
頬に冷たい布が触れた。
「ゆっくり吐いて。吸おうとしないで」
言われても、肺が勝手に動いた。
咳き込むたびに肋骨の下が痛む。吐き出した唾に、細かな灰色の粒が混じっていた。
「目は擦らない」
手首を押さえられる。
少しずつ水が流され、まぶたの裏のざらつきが薄れた。
焦点が合うと、リシェがいた。
僕は家の軒下に寝かされていた。すぐ近くで、少年の母親が子どもを抱きしめている。
少年が泣いていた。
声が出る。そのことに、ようやく息をつけた。
「足は?」
僕が尋ねると、リシェは振り向かずに答えた。
「腫れてる。あとで、歩かせずに診てもらう」
僕は起き上がろうとした。
肩に手が置かれる。
「まだ動かないで」
「結界は」
「今、西側を閉じてる」
広場の向こうで、人が石柱の根元を操作していた。小屋の屋根にあった青白い光は消え、代わりに南の柱が強く光っている。
村の西端が、灰色の向こうに沈んでいた。
さっきまで見えていた畑と物置が、もう見えない。
「全部は守れないから、範囲を縮めたの」
僕の視線に気づいたのか、彼女が言った。
「最初にそうするつもりだった?」
「外に人がいないことを確かめてからね」
リシェの袖は裂けていた。
赤い紐の繊維が、外套に絡んでいる。
「僕を助けに、外へ出た?」
「柱から手が届くところまで」
僕は口を開きかけ、閉じた。
自分だけで助けるつもりで飛び出して、彼女まで危険にさらした。
「ごめん」
「次は、声を聞いて」
叱るというより、仕事の確認のような言い方だった。
その方が、ずっと胸に残った。
年配の男が駆け寄ってきた。
「リシェ。北の補助盤が上がらん」
「二段目の弁は?」
「固まってる。工具でも動かない」
彼女は立ち上がった。
ふらついた足元を、男が支える。
「休めてないだろう」
「あとで」
その返事を、僕は知っていた。
ガレスに言われるたび、自分もそう答えていたからだ。
リシェは道具箱を拾い、小屋へ向かった。
少年の母親が、僕のそばに膝をついた。
「ありがとうございました」
僕は顔を上げた。
女性の目は赤かった。抱きしめた少年の背中を、まだ何度も撫でている。
「この子を、連れ戻してくださって」
頷いたら、喉が痛んだ。
礼を受け取っていいのか迷う自分がいた。でも、目の前の子どもが無事だったことまで、難しく考えたくはなかった。
「戻れて、よかった」
少年が母親の服から顔を出した。
「輪っか」
「大丈夫。置いてきていい」
「違う。持ってる」
彼の脇には、傷だらけの木の輪が挟まっていた。
僕は、少しだけ笑った。
そのとき、道の向こうから怒鳴り声がした。
「あいつを小屋へ近づけるな!」
老人が立っていた。
昼間、僕を見て戸を閉じた人だった。
「魔王様を殺した剣だぞ。結界に何をするか分からん」
「今、子どもを助けてくれたんだ」
年配の男が言う。
「だから何だ。結界が止まったのは、そいつが――」
老人は言い切らなかった。
広場の人たちが、僕を見る。
恨みだけではなかった。怯えている目があった。どう扱えばいいか分からず、誰かの判断を待っている目もあった。
僕は鞘を押さえた。
危険なものを持っているように見えるのだろう。
実際、この剣で、彼らが頼っていた相手を殺した。
「剣は抜かない」
僕は言った。
「指示されたことだけする。力仕事があれば、使ってほしい」
「お前の力なんぞ――」
「今は、それでも要る」
小屋の戸口から、リシェが言った。
老人が彼女を振り返る。
リシェは僕を見た。
「歩ける?」
「歩ける」
「嘘なら、今言って」
「……走るのは、まだ無理だと思う」
「走らなくていい。重い板を持ち上げるのを手伝って」
彼女は老人へ向き直った。
「剣は鞘に入れたまま。私が見てる」
「リシェ」
「今は、村の中で争ってる余裕がない」
声が硬かった。
老人は何か言いかけたが、やがて道を空けた。
僕は立ち上がった。
頭の奥が揺れたけれど、今度は隠さず、柱を借りて少し待った。
*
小屋の中は、熱かった。
床から伸びる管が壁を這い、中央の石盤へ集まっている。金属の匂いがした。油の染みた布が何枚も散らばり、浅い皿には外した留め具が並んでいた。
「こっちを持って」
リシェが指したのは、床に半分埋まった鉄板だった。
片側の蝶番が歪み、斜めに引っかかっている。
年配の男と2人で持ち上げる。
右肩が痛んだ。
「下げて」
すぐにリシェが言った。
「持ち方が変わった。肩、傷めてる?」
僕は頷いた。
彼女は鉄板の下に角材を差し込んだ。
「一度で上げなくていい。少しずつ」
男が言った。
「力はあるんだろうが、腰まで壊すなよ」
名前を尋ねると、トーヴと答えた。
この村で、大工仕事と設備の手入れをしているらしい。
「結界は分からん。形のあるものを直すだけだ」
「それが直らないと、私にも何もできない」
リシェが言った。
2人のやりとりには、慣れがあった。
誰が何をできるのか、いちいち確かめなくても分かっている。
僕は角材を押し込みながら、自分の足の置き場を探した。
鉄板の下には、小さな水車に似た装置があった。
欠けた部品が噛み込み、軸を止めている。リシェが細い工具で破片を引き抜くと、装置が低く唸った。
「戻った」
トーヴが息をついた。
けれど、石盤の光は弱いままだった。
リシェは指先を溝に当て、何かを数えている。
「足りない」
その声は、ほとんど独り言だった。
外で、鐘が鳴った。
トーヴが顔を上げた。
リシェは戸口へ走った。
ついて出ると、家と家の間を覆う光が大きくたわんでいた。風に押された帆のように、内側へへこんでいる。
「北も閉じる! 井戸よりこっちへ!」
リシェの声に、人々が動いた。
僕は家の戸を叩き、残っている人がいないか確かめた。老人の手を取り、ゆっくり広場へ連れていく。
さっき僕を拒んだ人だった。
その人の手が僕の腕を握った。
強く。何も言わずに。
井戸を越えたところで、背後の石柱が鳴った。
根元の土が崩れ、柱が傾く。
その先には、まだ母子がいた。
考えるより先に手が出た。
僕は柱へ肩を当て、倒れるのを止めた。
「離れて!」
リシェが叫ぶ。
「そこは流れが――」
腰の鞘が、石柱に触れた。
熱が走った。
焼けるような痛みではない。
剣を抜く直前、柄に灯る魔力の感触。それが、腰から石柱へ流れた。
消えかけていた溝が、白く光った。
たわんでいた光の壁が持ち直す。
灰色の風が、押し返された。
ほんの一呼吸だった。
次の瞬間には光が薄れ、トーヴたちが差し入れた支えに柱の重さが移った。母子が走り抜け、リシェが根元の弁を閉じる。
その区画の光が消えた。
僕は一歩退いた。
鞘から離した手が、震えていた。
リシェが僕を見る。
いや、僕の腰の剣を見ていた。
「今の」
彼女が近づく。
「何をしたの?」
「何も」
僕は息を整えながら言った。
「触れただけだ」
彼女は石柱へ手を伸ばした。
消えた溝をなぞり、もう一度、聖剣へ目を戻す。
広場で誰かが泣いていた。
誰かが人数を数えていた。
その声の中で、リシェが呟いた。
「どうして、その剣から」
続きは、小さすぎて聞き取れなかった。




