魔王に花を供える村
初めてのジャンル、、笑
魔王を倒して六日目、僕は魔王のために手向けられた花を見た。
白い、小さな花だった。
道端にも咲いていそうな花が、石造りの台の上に並んでいる。根元を濡らした布で包み、萎れたものだけを抜き取ってある。今朝も誰かが手入れをしたのだろう。
その前で、ひとりの少女が膝をついていた。
灰色の外套。後ろでひとつに結んだ栗色の髪。組み合わせた指の節には、細かな傷がいくつも走っていた。
僕は足を止めた。
戦いが終わってから、弔いの場には何度も出会った。
崩れた砦の前。焼けた荷車のそば。名前の代わりに、使い込まれた靴だけが置かれた墓もあった。
だから、ここでも同じように頭を下げようとした。
石の台に刻まれた名前を読むまでは。
ヴァルゼン。
六日前、僕が胸を貫いた相手の名だった。
*
村を見つけたのは、偶然だった。
王都へ続く街道の一部が崩れていると聞き、僕は迂回路の確認を引き受けていた。ガレスたちが負傷者を連れて進む道とは、山をひとつ隔てている。
『見るだけだぞ。崩れてたら戻れ。お前ひとりで山まで直そうとするな』
出発前、ガレスは僕の荷物を指で叩きながら言った。
彼の左腕には、まだ厚い包帯が巻かれていた。
その腕で最後まで盾を支え、僕を魔王の前まで送り届けてくれた。なのに見送るときまで、心配されるのは僕の方だった。
腰の水筒を確かめ、坂道を上る。
昼前、尾根から細い煙が見えた。
地図を広げたが、該当する場所に集落の印はない。古い採掘場を示す黒い四角と、使われなくなった道が一本描かれているだけだった。
野営の煙にしては数が多い。
山火事なら、あまりに細く、まっすぐだった。
僕は地図を畳み、草に埋もれた道へ入った。
やがて、斜面に畑が現れた。
豆の蔓を支える棒。水を引くための浅い溝。畑の端には木の桶が置かれ、柄の短い鍬が立てかけられている。
そこから先には、暮らしがあった。
屋根はどれも低く、ところどころ継ぎ当てられていた。軒下では薄切りにした根菜が干され、遠くで金槌の音がする。煙突の煙には、煮炊きの匂いが混じっていた。
道の脇に、腰ほどの高さの石柱が立っていた。
表面を細い溝が巡り、その奥で淡い光が動いている。結界の設備らしかった。砦で見たものより、ずっと小さい。
石柱の横を通り抜けた途端、頬を刺していた風が和らいだ。
思わず振り返る。
外では乾いた草が激しく揺れているのに、こちら側の木の葉は静かだった。
「そこ、踏まないで」
声の方を見ると、道の先に少女がいた。
石の台に膝をつき、白い花を整えている。
彼女が指さした僕の足元には、小さな芽が並んでいた。
「ごめん」
靴を引く。
「花壇だったんだ」
「花壇に見えなかった?」
「……道の続きかと思った」
少女は僕の靴についた泥を見て、それから顔を上げた。
僕と同じくらいか、少し年下だろうか。
目の下に薄い隈がある。左手には布が巻かれ、その端に黒い染みがついていた。
「旅の人?」
「王都へ戻る途中なんだ。煙が見えたから」
「この道は王都には続いてない」
「地図には、道があるんだけど」
「三年前に落ちた橋の向こうならね」
僕は鞄に手をかけ、やめた。
地図を見せても、橋が戻るわけではない。
「水を分けてもらえないかな。代金は払う」
「井戸は広場。飲むなら東側の桶から」
「ありがとう」
彼女は再び花に目を落とした。
萎れた一本を抜き、手元の籠へ入れる。その仕草があまりに丁寧で、僕はその場を離れそびれた。
「誰か、亡くなったの?」
少女の手が止まる。
僕は、石の台へ視線を移した。
刻まれた文字の溝は新しかった。周囲に細かな石の粉が残っている。
名前は長くない。読み違えようもなかった。
「ヴァルゼン……?」
「知ってるの」
腰に下げた剣が、急に重くなった気がした。
「同じ名前の人を」
「たぶん、その人」
少女は立ち上がった。
「魔王ヴァルゼン。ここは、あの人を弔う場所だから」
返事ができなかった。
魔王の名を口にするとき、人は怒るか、怯えるか、そのどちらかだった。
僕が通ってきた町では、ずっとそうだった。
城壁に貼られた犠牲者の名前。
戻らない兵士を待つ家族。
魔王軍が来るという噂だけで、戸を閉ざす店。
その名前の前に花が並ぶことを、僕は考えたことがなかった。
「あなた、兵士?」
少女の視線が僕の胸元へ下りた。
外套の留め金。
王国の紋章の下に、剣を囲む三本の線が刻まれている。
出発するとき、ガレスに外しておけと言われた。
目立つと休めないぞ、と。
僕はその忠告を、半分冗談だと思っていた。
「その印」
少女の声から、さっきまでの調子が消えた。
彼女は今度は僕の腰を見た。
布を巻いていても、聖剣の白い鞘は隠しきれない。
「勇者……?」
否定すればよかったのかもしれない。
水をもらって、ただ通り過ぎれば。
でも、目の前に刻まれた名前を見ながら、それはできなかった。
「アルド」
僕は言った。
「僕の名前は、アルドだ」
少女が一歩、後ろへ下がった。
踵が石の台に当たる。
手に持っていた花が落ち、僕は反射的に屈みかけた。
「触らないで」
指が止まった。
少女は自分で花を拾った。
折れた茎を、巻き布のない方の手で支える。
長い沈黙のあと、彼女は僕を見た。
「あなたが殺した人は、私たちを生かしてくれた」
風の音がした。
遠くで鳴っていた金槌が、いつの間にか止まっていた。
*
広場へ行くまでに、僕のことは村中に伝わったらしかった。
水桶を抱えた女性が立ち止まり、僕の剣を見る。
戸口にいた老人は何も言わず、家の中へ戻った。
「ほんとに?」
井戸のそばにいた少年だけが、近寄ってきた。
「ほんとに勇者?」
頷くより早く、後ろから伸びた手が彼の肩を引いた。
「こっちへ来なさい」
「でも」
「いいから」
母親らしい女性は、僕と目を合わせなかった。
僕は空になりかけた水筒を持ったまま、井戸の前に立った。
水を汲んでいいのか、もう一度誰かに聞くべきか迷った。
聞いたところで、相手を困らせるだけにも思えた。
「東側って言ったでしょう」
振り返ると、花を供えていた少女がいた。
片手に道具箱を持っている。
「その桶は洗い物用」
「ああ……ごめん」
言われた方の桶から水を汲む。
彼女は僕を見張るように、井戸の柱に背を預けた。
いや、違う。立っているのがつらいのかもしれない。道具箱を下ろしたとき、指が小さく震えていた。
「手、怪我してるの?」
「あなたには関係ない」
「手当てなら、少しできる」
「自分でできる」
そこで会話が切れた。
水筒の口から水があふれ、慌てて柄杓を上げる。
指が冷たかった。
「魔王は」
口に出してから、続きを選び直した。
「この村に、何をしたんだ?」
少女は目を細めた。
「何をしたと思う?」
「分からない。だから聞きたい」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、道の向こうを指さす。
村の外れに、石積みの小屋があった。屋根の上から細い金属棒が伸び、先端に青白い光が灯っている。
「結界を造った」
彼女は言った。
「部品を運んで、直し方を教えて、動かすための魔力を送ってくれた」
「王国の設備じゃないのか」
「王国の人が、この村に何かを届けたのは、私が覚えている限りでは今日が初めて」
胸の留め金に、彼女の目が向く。
僕はそこを隠したくなった。
けれど、今さら外すこともできなかった。
「その前は?」
「嵐が来るたび、坑道へ逃げてた」
広場の向こうで、女性が洗濯物を取り込んでいる。
子どもの服が二枚、大人の服が一枚。
「何日も出られないことがあった。水を取りに行って帰らなかった人もいる。畑が駄目になった年は、種にする豆まで食べた」
少女は道具箱の取っ手を握り直した。
「結界ができてからは、外で眠ってしまった子を叱れるようになった」
僕は広場の端を見た。
さっきの少年が母親の服を引っ張り、何かをねだっている。
その足元には、削った木の輪と棒が転がっていた。
「……知らなかった」
「そう」
責める声ですらなかった。
だからこそ、その先を言えなくなった。
知らなかった。
僕は、魔王軍に焼かれた町なら知っている。崩れた家の下から、人を運び出したこともある。助かった人に手を握られ、ありがとうと言われた。
あの人たちが嘘をついていたわけじゃない。
けれど、この村の花も、嘘には見えなかった。
どちらかを否定できる言葉を探している自分に気づいて、僕は口を閉じた。
「リシェ」
石積みの小屋から、年配の男が顔を出した。
「北の目盛りが、また落ちた」
少女が顔を上げる。
「戻してから、どれくらい?」
「半刻も経ってない」
彼女は道具箱を持ち上げた。
その拍子に左手の巻き布がずれ、掌の赤く擦れた皮膚が見えた。
「待って。僕にも何か――」
「王都へ帰るなら、南の道を使って」
彼女は僕の言葉を遮った。
「西はもう通らないで。風が強くなる」
僕の横を通り過ぎ、足早に小屋へ向かう。
追いかけかけて、止まった。
今の僕が近づいて、何を手伝えるのか分からなかった。
結界の知識は、ほとんどない。
敵が来れば剣を抜ける。でも、さっきのように目盛りが落ちたと言われても、何を意味するのかさえ知らない。
広場にいた人たちが、次々に空を見上げた。
つられて顔を上げる。
青空には、薄い雲が広がっているだけだった。
それなのに、誰も安心した顔をしていなかった。
*
夕方まで、僕は村の南端にいた。
空き小屋の軒下で、崩れた道の様子を地図に書き込んだ。村の位置にも印をつけたが、名前を聞き忘れていた。
誰かに尋ねようとして、やめる。
そんなことを、何度か繰り返した。
帰れば報告できる。
地図にない村があること。魔王の結界で暮らしていること。
でも、王都で話を聞いてもらい、誰かがここまで来るのに、何日かかるだろう。
石積みの小屋には何度も人が出入りした。
金属を打つ音がして、途中で止まり、また始まる。
僕は剣を膝に置いた。
柄の結晶には、まだ光がある。
決戦以来、刃に力を流せば応えてくれたが、新しい魔力を吸うことはなかった。魔王の城を出る前、隊に同行していた術師は、内部の吸収機構が壊れていると言った。
戦いは終わったのだから、王都へ戻ってから調べればいい。
そのときは、僕もそう思った。
鞘に触れた指を離す。
守るべき人がいると思って、ここまで来た。
剣を振るうことには迷わなかった。
今は、花を一輪拾ってよいかさえ分からない。
足音がして顔を上げると、昼間の少年が立っていた。
「母さんが」
それだけ言って、布に包んだものを差し出す。
小さなパンが二つ入っていた。
「もらっていいの?」
少年は頷いた。
僕が礼を言うと、すぐに走っていった。
食べてみると、硬かった。
少し酸っぱく、噛むほどに穀物の甘さがした。
二つ目を包み直した、そのときだった。
かん、と鐘が鳴った。
一度だけ。
僕は顔を上げた。
村の人たちが、手を止めていた。
洗濯物を抱えたままの女性。薪を下ろしかけた老人。
二度目が鳴った。
石積みの小屋から、リシェが飛び出してきた。
「全員、家の中へ!」
声が、広場を横切った。
「窓を閉めて! 火は消さなくていい、外にあるものは置いて!」
人が走り始める。
さっきまで慎重に運ばれていた水桶が、道に倒された。
僕も立ち上がった。
風が変わっていた。
村へ入ったときには感じなかった冷たさが、頬を擦る。細かな砂が外套に当たり、乾いた音を立てた。
空を見た。
何もなかったはずの青に、細い白線が走っている。
端から端へ。
目で追っている間に枝分かれし、村の上へ広がっていく。
「リシェ!」
小屋から男が叫んだ。
「西が持たない!」
彼女が振り返った。
その視線の先で、西の石柱の光が消えた。
澄んだ音がした。
薄い氷を踏み抜いたときのような、あっけない音だった。
村を覆っていた空が、割れた。
亀裂の向こうは、同じ空ではなかった。
濁った灰色が渦を巻き、砕けた光の隙間へ押し寄せている。
僕は剣の柄を掴んだ。
そのとき、広場の向こうから女性の叫びが聞こえた。
「うちの子が、まだ外に!」
西の畑。
倒れた柵の向こうに、小さな人影があった。
昼間、僕にパンを届けた少年だった。




