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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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10/14

あなたも怖いのね

 目を閉じると、牙が来た。


 顔のすぐ前。

 息の匂いまで、残っていた。


 僕は寝台から起き上がった。

 右腕が引きつり、声が漏れる。


 部屋は暗かった。

 食堂の裏にある、行商人用の小さな部屋。隣の寝台では、荷運びの男が寝息を立てている。


 外で、風が戸板を鳴らした。


 僕は壁に立てかけた剣を取った。

 鞘ごと膝に置き、柄を握る。


 そうしていると、少しだけ呼吸が落ち着いた。


 意味がないことは分かっていた。

 剣を握って眠っても、次に素早く動けるわけではない。むしろ指が固くなる。ガレスにも、何度も言われた。


 それでも、離すと、何かを失う気がした。


 隣の男が寝返りを打った。

 僕は音を立てないように寝台を降り、外套を羽織った。


     *


 裏口の階段に座ると、夜の空気が頬に触れた。


 嵐は、遠ざかっていた。

 見上げると結界の薄い膜の向こうに、星が見える。


 昼間、温室の屋根が一部割れた。

 店の看板が落ち、荷車も壊れた。

 それでも、町の人に死者は出なかったと聞いた。


 いい結果だったはずだ。


 なのに、目を閉じると牙が来る。


 剣を握る手に力が入った。

 指の関節が痛む。


「そこにいたの」


 戸口から声がした。


 リシェだった。

 小さな灯りを持っている。巻き直した左手の布が、白く見えた。


「まだ、見回り?」

 僕が尋ねると、彼女は首を振った。

「交代した。今はバルクさんたち」


 僕の膝へ視線が落ちる。


「眠れない?」


「少し」


 彼女は灯りを段の上へ置いた。

 隣ではなく、一段上に座る。


 しばらく、二人で通りを見ていた。

 夜番の足音が遠くを通り、また静かになる。


「腕、痛むの」

「それもある」


 リシェは待った。

 次に何を言えばいいかを、僕に残してくれた。


 僕は柄を見た。

 指を一本、開いた。


「目を閉じると、さっきのが見える」


 口にすると、急に情けなくなった。

 魔王を倒したのに。

 あれほどの戦いを越えたのに。


 町の門で、獣に倒されただけで。


「また、同じことが起きたらと思って」


 リシェが僕を見る。

 灯りは足元にあるので、表情はよく見えなかった。


「あなたも、怖いのね」


 責める声ではなかった。

 驚いたような、少し慎重な声だった。


「怖いよ」

 僕は答えた。

「ずっと」


     *


 最初に聖剣へ触れたとき、僕は勇者ではなかった。


 王国の訓練所で、足の速さなら上から数えた方が早い。

 剣は、上手な方ではあった。

 けれど、一番ではなかった。


 訓練の終わりに、適性を調べる試験があった。

 聖剣へ流れ込む魔力を、持ち主がどれだけ受け止められるか。


 僕には、その適性があった。


 剣を扱う役に選ばれ、特別な訓練を受けた。

 失敗するたびに、周囲の人が時間を使って教えてくれた。


「選ばれたから、怖くなくなると思ってた」

 僕はリシェに言った。

「剣を使えるようになれば。最初の戦いを越えれば。もっと強くなればって」


「ならなかった?」

「慣れることは、あった」


 足音で人数を読む。

 刃の向きから、次の動きを予想する。

 怖くても、考える順番を決めておけば動ける。


 でも、怖くなくなることはなかった。


「魔王のところへ行く前、何度も靴の紐を結び直した」

 思い出すと、少し笑えた。

「切れてないか、ほどけないか、気になって。ガレスに、紐を殺すつもりかって言われた」


 リシェが小さく息を漏らした。


 僕は続けた。

「怖いって言うと、何かが終わる気がした。みんな、僕を前まで連れてきてくれたから」


「言わなかったの?」

「ガレスには、一度」


「何て?」

「知ってる、って」


 あのときは腹が立った。

 必死で隠していたものが、最初から見えていたのかと。


 今、思い出す声は、怒っていなかった。

 ガレスは僕の靴の紐を見て、少し笑っただけだった。


 リシェは膝の上で手を重ねた。


「私、あなたは、そういうのが少ない人だと思ってた」


「魔王を倒したから?」


 彼女は頷いた。

「私にとっては、倒せる相手じゃなかったから」


 強さの話だけではないのだろう。

 僕は、そう受け取った。


「実際に戦ったのは、僕ひとりじゃない。ガレスが盾を受けて、ほかの人が道を作ってくれた。僕がしたのは、最後に剣を届かせることだった」


「それでも、届かせたのはあなたでしょう」


「うん」


 彼女は僕から目を逸らさなかった。

 僕も逸らさなかった。


 怖かったことと、したことは、同時に残る。

 片方を話したら、もう片方が消えるわけではなかった。


     *


 足元の灯りが、少し小さくなった。


 リシェが覆いを調整する。

 その手の甲に、新しい擦り傷があった。


「昼、僕を引っ張ったとき?」

 指さすと、彼女は自分の手を見た。

「たぶん。気づかなかった」


「怖くなかった?」


 彼女はすぐに答えなかった。


「怖かった」

 やがて言った。

「護符が、どれくらい持つか分からなかったから」


「数呼吸って」

「外の風を防ぐならね。獣の牙は、試したことがない」


 僕は彼女を見た。


 あの光は、僕が思っていたほど確かなものではなかった。

 それでも、彼女は使った。


「ごめん」

「助けてもらったとき、毎回謝るの?」


 僕は口を閉じた。


「さっきは、ありがとうって言ってた」

「……うん」

「それでいい」


 リシェは外套を引き寄せた。


「私は、あなたが死んでもいいと思って、旅を頼んだんじゃない」


 僕は柄から手を離しかけ、また触れた。


「剣が必要だから?」


 問いは、口から出たあとで幼く聞こえた。

 必要だから助けたのかと、確かめたがっている。


 彼女は少し眉を寄せた。


「剣も必要」

 それから続けた。

「でも、倒れてる人を置いていきたいわけじゃない。あなたが誰でも」


 僕は頷いた。


 僕だけのための言葉ではなかった。

 だから、その言葉なら受け取れた。


「もし、勇者じゃなかったら」

 僕はぽつりと言った。

「こういうところへ来る理由も、なくなるのかな」


「どうして?」


「力がなくなったら、守れない」


 リシェは僕の手を見た。

 それから、階段の脇に積んである修理用の板を見た。


「今日、誰がその板を運んだ?」


「僕と、バルクさん」


「聖剣で?」

「いや」


「ユノが、お年寄りの靴を直してた。ネラさんは、人を集めてた。あの人たちは、来る理由がない?」


 僕は何も言えなかった。


 彼女はそれ以上、言わなかった。

 優しい結論を押しつけようとせず、灯りの覆いを元へ戻した。


 僕は柄を握っていた指を、一度全部開いた。


 手のひらに、痕が残っていた。


     *


 翌朝、バルクに練習用の木剣を借りた。


「寝てない顔だな」

 彼が言った。


「途中からは、眠れました」


「なら、倒れるまでやるなよ」


 工房の裏で、ゆっくり振った。

 剣の補助は使わない。


 身体が重かった。

 昨日の傷のせいだけではない。僕は思っていたより長く、魔力の補助を頼りにしていたのだ。


 一歩踏む。

 戻る。

 曲がる。


 足を置く位置を、最初から確かめる。


 門番の男が通りかかった。

 しばらく見てから、杖代わりの槍で地面を叩く。


「左が開く。肩をかばってる」


「分かりますか」


「門で毎日立ってりゃ、人の歩き方は見る」


 僕は動きを遅くした。

 指摘されたところを直し、もう一度振る。


 男はそれだけ見て、仕事へ戻った。


 リシェが井戸から水を運んできた。

 僕が手を伸ばしかけると、彼女は桶を置いた。


「今日は、軽い方だけ」

 もう一つの桶を示す。


 僕は、軽い方を持った。


 どうしてか、それを昨日ほど恥ずかしいと思わなかった。


     *


 町には、さらに二日とどまった。


 北の二番設備が動くようになり、供給管の修理箇所も確認できた。

 大きな貯蔵槽の残量を数え直すと、無駄な漏れを止めた分も含め、今の範囲ならしばらく持つ見込みになった。


 ただし、補充が戻ったわけではない。

 バルクは避難を始める日付を、食堂の壁へ貼った。


 ネラの刷り物の隣だった。


 英雄の絵だけでは、暮らしは続かない。

 残る量と、動く日付も必要だった。


 二日目の午後、監視所から使いが来た。


 エルナの報告と、僕宛ての手紙を持っていた。


 エルナの方は、修復から六日目の記録だった。

 決めた範囲を保ち、十日目に避難の判断をする予定も変えていない。

 イネスの字の横に、トーヴが短く、東の戸の蝶番を直したと書いていた。


 リシェはそこを二度読んだ。

 肩が、少し下がった。


 僕宛ての封には、ガレスの字があった。


 王都ではなく、負傷者を預けた街道の町からだった。

 僕の手紙がそこで追いついたらしい。


『まず、生きていると分かってよかった』


 最初の一行で、喉が詰まった。


『事情は分かった、とはまだ言えん。俺にも知らないことが多い。お前の報告を写して、王都へ先に送る。結界に詳しい者を探してもらう』


 その下には、短い指示が続いていた。


 確かめた場所と日付を記すこと。

 推測と、見たことを分けること。

 行き先が変わったら知らせること。


 最後に、少し強い筆圧で書いてあった。


『全部救ってから帰る、などと約束するな。できたことも、できなかったことも送れ。それで次に動く者が考えられる』


 僕は紙を畳まずに持っていた。


「怒ってる?」

 リシェが尋ねる。


「たぶん、少し」

「もっと怒ると思ってた」


「僕も」


 手紙をもう一度読んだ。

 返事を書くため、机の空いているところへ座った。


     *


 使いは、別の知らせも持っていた。


 ミルカの東に、使われなくなった砦がある。

 補充路の記録を探していた者が、そこに封じた保管室を見つけたという。


 ロウの地図では中継所の印がついていた場所だった。

 戦争の終盤には、軍の施設としても使われていたらしい。


「荷を運んだ記録があるかもしれない」

 バルクが言った。

「どこを通って、どこへ送ってたか。こっちに残ってる図は、途中までなんだ」


 リシェが地図を広げた。


 ミルカから、二日。

 道を確かめながらなら、三日かかる。


 僕は剣の残量を記した紙を、その横へ置いた。

 まだ、三分の二ほど残っている。


 多いのか、少ないのか。

 行く先のことが分からなければ、決められない。


「そこへ行こう」

 僕は言った。


 リシェは頷く前に、僕の腕を見た。

「明日、傷を確かめてから」


「分かった」


「痛いなら、言って」

「言う」


 彼女は地図に新しい線を引いた。


 その夜、僕は剣を寝台から少し離れた場所へ置いた。

 手を伸ばせば取れる。

 でも、握らなくてもよい場所に。


 すぐには眠れなかった。

 目を閉じると、まだ牙が見えた。


 それでも、あの瞬間には別のものもあった。


 薄い光。

 外套を引く手。

 こっち、と呼ぶ声。


 僕はその声のあとまで思い出してから、もう一度、目を閉じた。

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