あなたも怖いのね
目を閉じると、牙が来た。
顔のすぐ前。
息の匂いまで、残っていた。
僕は寝台から起き上がった。
右腕が引きつり、声が漏れる。
部屋は暗かった。
食堂の裏にある、行商人用の小さな部屋。隣の寝台では、荷運びの男が寝息を立てている。
外で、風が戸板を鳴らした。
僕は壁に立てかけた剣を取った。
鞘ごと膝に置き、柄を握る。
そうしていると、少しだけ呼吸が落ち着いた。
意味がないことは分かっていた。
剣を握って眠っても、次に素早く動けるわけではない。むしろ指が固くなる。ガレスにも、何度も言われた。
それでも、離すと、何かを失う気がした。
隣の男が寝返りを打った。
僕は音を立てないように寝台を降り、外套を羽織った。
*
裏口の階段に座ると、夜の空気が頬に触れた。
嵐は、遠ざかっていた。
見上げると結界の薄い膜の向こうに、星が見える。
昼間、温室の屋根が一部割れた。
店の看板が落ち、荷車も壊れた。
それでも、町の人に死者は出なかったと聞いた。
いい結果だったはずだ。
なのに、目を閉じると牙が来る。
剣を握る手に力が入った。
指の関節が痛む。
「そこにいたの」
戸口から声がした。
リシェだった。
小さな灯りを持っている。巻き直した左手の布が、白く見えた。
「まだ、見回り?」
僕が尋ねると、彼女は首を振った。
「交代した。今はバルクさんたち」
僕の膝へ視線が落ちる。
「眠れない?」
「少し」
彼女は灯りを段の上へ置いた。
隣ではなく、一段上に座る。
しばらく、二人で通りを見ていた。
夜番の足音が遠くを通り、また静かになる。
「腕、痛むの」
「それもある」
リシェは待った。
次に何を言えばいいかを、僕に残してくれた。
僕は柄を見た。
指を一本、開いた。
「目を閉じると、さっきのが見える」
口にすると、急に情けなくなった。
魔王を倒したのに。
あれほどの戦いを越えたのに。
町の門で、獣に倒されただけで。
「また、同じことが起きたらと思って」
リシェが僕を見る。
灯りは足元にあるので、表情はよく見えなかった。
「あなたも、怖いのね」
責める声ではなかった。
驚いたような、少し慎重な声だった。
「怖いよ」
僕は答えた。
「ずっと」
*
最初に聖剣へ触れたとき、僕は勇者ではなかった。
王国の訓練所で、足の速さなら上から数えた方が早い。
剣は、上手な方ではあった。
けれど、一番ではなかった。
訓練の終わりに、適性を調べる試験があった。
聖剣へ流れ込む魔力を、持ち主がどれだけ受け止められるか。
僕には、その適性があった。
剣を扱う役に選ばれ、特別な訓練を受けた。
失敗するたびに、周囲の人が時間を使って教えてくれた。
「選ばれたから、怖くなくなると思ってた」
僕はリシェに言った。
「剣を使えるようになれば。最初の戦いを越えれば。もっと強くなればって」
「ならなかった?」
「慣れることは、あった」
足音で人数を読む。
刃の向きから、次の動きを予想する。
怖くても、考える順番を決めておけば動ける。
でも、怖くなくなることはなかった。
「魔王のところへ行く前、何度も靴の紐を結び直した」
思い出すと、少し笑えた。
「切れてないか、ほどけないか、気になって。ガレスに、紐を殺すつもりかって言われた」
リシェが小さく息を漏らした。
僕は続けた。
「怖いって言うと、何かが終わる気がした。みんな、僕を前まで連れてきてくれたから」
「言わなかったの?」
「ガレスには、一度」
「何て?」
「知ってる、って」
あのときは腹が立った。
必死で隠していたものが、最初から見えていたのかと。
今、思い出す声は、怒っていなかった。
ガレスは僕の靴の紐を見て、少し笑っただけだった。
リシェは膝の上で手を重ねた。
「私、あなたは、そういうのが少ない人だと思ってた」
「魔王を倒したから?」
彼女は頷いた。
「私にとっては、倒せる相手じゃなかったから」
強さの話だけではないのだろう。
僕は、そう受け取った。
「実際に戦ったのは、僕ひとりじゃない。ガレスが盾を受けて、ほかの人が道を作ってくれた。僕がしたのは、最後に剣を届かせることだった」
「それでも、届かせたのはあなたでしょう」
「うん」
彼女は僕から目を逸らさなかった。
僕も逸らさなかった。
怖かったことと、したことは、同時に残る。
片方を話したら、もう片方が消えるわけではなかった。
*
足元の灯りが、少し小さくなった。
リシェが覆いを調整する。
その手の甲に、新しい擦り傷があった。
「昼、僕を引っ張ったとき?」
指さすと、彼女は自分の手を見た。
「たぶん。気づかなかった」
「怖くなかった?」
彼女はすぐに答えなかった。
「怖かった」
やがて言った。
「護符が、どれくらい持つか分からなかったから」
「数呼吸って」
「外の風を防ぐならね。獣の牙は、試したことがない」
僕は彼女を見た。
あの光は、僕が思っていたほど確かなものではなかった。
それでも、彼女は使った。
「ごめん」
「助けてもらったとき、毎回謝るの?」
僕は口を閉じた。
「さっきは、ありがとうって言ってた」
「……うん」
「それでいい」
リシェは外套を引き寄せた。
「私は、あなたが死んでもいいと思って、旅を頼んだんじゃない」
僕は柄から手を離しかけ、また触れた。
「剣が必要だから?」
問いは、口から出たあとで幼く聞こえた。
必要だから助けたのかと、確かめたがっている。
彼女は少し眉を寄せた。
「剣も必要」
それから続けた。
「でも、倒れてる人を置いていきたいわけじゃない。あなたが誰でも」
僕は頷いた。
僕だけのための言葉ではなかった。
だから、その言葉なら受け取れた。
「もし、勇者じゃなかったら」
僕はぽつりと言った。
「こういうところへ来る理由も、なくなるのかな」
「どうして?」
「力がなくなったら、守れない」
リシェは僕の手を見た。
それから、階段の脇に積んである修理用の板を見た。
「今日、誰がその板を運んだ?」
「僕と、バルクさん」
「聖剣で?」
「いや」
「ユノが、お年寄りの靴を直してた。ネラさんは、人を集めてた。あの人たちは、来る理由がない?」
僕は何も言えなかった。
彼女はそれ以上、言わなかった。
優しい結論を押しつけようとせず、灯りの覆いを元へ戻した。
僕は柄を握っていた指を、一度全部開いた。
手のひらに、痕が残っていた。
*
翌朝、バルクに練習用の木剣を借りた。
「寝てない顔だな」
彼が言った。
「途中からは、眠れました」
「なら、倒れるまでやるなよ」
工房の裏で、ゆっくり振った。
剣の補助は使わない。
身体が重かった。
昨日の傷のせいだけではない。僕は思っていたより長く、魔力の補助を頼りにしていたのだ。
一歩踏む。
戻る。
曲がる。
足を置く位置を、最初から確かめる。
門番の男が通りかかった。
しばらく見てから、杖代わりの槍で地面を叩く。
「左が開く。肩をかばってる」
「分かりますか」
「門で毎日立ってりゃ、人の歩き方は見る」
僕は動きを遅くした。
指摘されたところを直し、もう一度振る。
男はそれだけ見て、仕事へ戻った。
リシェが井戸から水を運んできた。
僕が手を伸ばしかけると、彼女は桶を置いた。
「今日は、軽い方だけ」
もう一つの桶を示す。
僕は、軽い方を持った。
どうしてか、それを昨日ほど恥ずかしいと思わなかった。
*
町には、さらに二日とどまった。
北の二番設備が動くようになり、供給管の修理箇所も確認できた。
大きな貯蔵槽の残量を数え直すと、無駄な漏れを止めた分も含め、今の範囲ならしばらく持つ見込みになった。
ただし、補充が戻ったわけではない。
バルクは避難を始める日付を、食堂の壁へ貼った。
ネラの刷り物の隣だった。
英雄の絵だけでは、暮らしは続かない。
残る量と、動く日付も必要だった。
二日目の午後、監視所から使いが来た。
エルナの報告と、僕宛ての手紙を持っていた。
エルナの方は、修復から六日目の記録だった。
決めた範囲を保ち、十日目に避難の判断をする予定も変えていない。
イネスの字の横に、トーヴが短く、東の戸の蝶番を直したと書いていた。
リシェはそこを二度読んだ。
肩が、少し下がった。
僕宛ての封には、ガレスの字があった。
王都ではなく、負傷者を預けた街道の町からだった。
僕の手紙がそこで追いついたらしい。
『まず、生きていると分かってよかった』
最初の一行で、喉が詰まった。
『事情は分かった、とはまだ言えん。俺にも知らないことが多い。お前の報告を写して、王都へ先に送る。結界に詳しい者を探してもらう』
その下には、短い指示が続いていた。
確かめた場所と日付を記すこと。
推測と、見たことを分けること。
行き先が変わったら知らせること。
最後に、少し強い筆圧で書いてあった。
『全部救ってから帰る、などと約束するな。できたことも、できなかったことも送れ。それで次に動く者が考えられる』
僕は紙を畳まずに持っていた。
「怒ってる?」
リシェが尋ねる。
「たぶん、少し」
「もっと怒ると思ってた」
「僕も」
手紙をもう一度読んだ。
返事を書くため、机の空いているところへ座った。
*
使いは、別の知らせも持っていた。
ミルカの東に、使われなくなった砦がある。
補充路の記録を探していた者が、そこに封じた保管室を見つけたという。
ロウの地図では中継所の印がついていた場所だった。
戦争の終盤には、軍の施設としても使われていたらしい。
「荷を運んだ記録があるかもしれない」
バルクが言った。
「どこを通って、どこへ送ってたか。こっちに残ってる図は、途中までなんだ」
リシェが地図を広げた。
ミルカから、二日。
道を確かめながらなら、三日かかる。
僕は剣の残量を記した紙を、その横へ置いた。
まだ、三分の二ほど残っている。
多いのか、少ないのか。
行く先のことが分からなければ、決められない。
「そこへ行こう」
僕は言った。
リシェは頷く前に、僕の腕を見た。
「明日、傷を確かめてから」
「分かった」
「痛いなら、言って」
「言う」
彼女は地図に新しい線を引いた。
その夜、僕は剣を寝台から少し離れた場所へ置いた。
手を伸ばせば取れる。
でも、握らなくてもよい場所に。
すぐには眠れなかった。
目を閉じると、まだ牙が見えた。
それでも、あの瞬間には別のものもあった。
薄い光。
外套を引く手。
こっち、と呼ぶ声。
僕はその声のあとまで思い出してから、もう一度、目を閉じた。




