魔王の命令書
砦の門には、旗が残っていなかった。
竿だけが、風に鳴っている。
門の脇の壁には火の跡があったが、内側の石畳には雑草が生え始めていた。
ミルカを出て三日目だった。
右腕の傷は塞がりかけていた。荷物を持つとまだ引きつるので、リシェと重さを分けた。
「ここ?」
僕が地図を確かめると、先を歩いていた案内の男が頷いた。
ロウから連絡を受け、近くの集落から来てくれた人だった。
荷を運ぶ仕事をしていて、砦が中継所だったころも知っているという。
「門は開いてるが、勝手に奥へ行くな。床が落ちてる」
僕は杖で足元を確かめた。
人のいなくなった砦には、敵がいない代わりに、直す人もいなかった。
中庭に、桶が二つ並んでいた。
片方には洗った布が干してある。
誰かがいる。
それに気づいたとき、建物の陰から声がした。
「剣を下ろせ」
僕はまだ抜いていなかった。
声の主には、持っているだけで十分だったのだろう。
片脚を引いた男が立っていた。
灰色の肌。耳の下へ伸びる硬い突起。
左手には短い杖を、右手には錆びた剣を持っている。
胸元には、魔王軍の印が残っていた。
僕は立ち止まった。
相手も動かなかった。
「物資の記録を見に来た」
案内の男が言った。
「昨日、伝えただろう」
「勇者が来るとは聞いてない」
リシェが僕の隣へ出た。
「結界の補充先を調べてる。戦いに来たんじゃない」
男の目が僕から離れない。
「そいつが、言え」
僕は剣帯の留め金を外した。
足元へ置く。
「戦いには来ていない」
男は、置かれた剣を見た。
それから、僕の包帯を見た。
「なら、そこに置いて入れ」
*
男は、オセルと名乗った。
砦の兵站を担当していたという。
戦闘で負った脚の傷が悪化し、部隊が退くときに残った。今は、近くの集落から食料を分けてもらっている。
「帳面を燃やせと言われなかったのか」
案内の男が尋ねる。
「軍のものは、片づけていた。途中で伝令が来なくなった」
オセルは鍵束を持ち上げた。
錆びた鍵が触れ合って鳴る。
「補充の記録まで捨てたら、誰に何が届いてないか分からなくなる」
彼は僕たちを地下へ案内した。
階段の途中に、濡れた靴跡があった。
下の部屋は、上より涼しかった。
壁際に木箱が並んでいる。いくつかは開いていて、空だった。
「軍用の食料は、もうない」
オセルが言った。
「探すなら、紙だけだ」
リシェが棚へ近づいた。
僕は入口に立った。
何を触ってよいか分からずにいると、オセルが椅子を顎で示した。
「座れ。立たれると、落ち着かない」
座ると、互いの目の高さが近くなった。
彼の右手は、まだ剣の柄の近くにあった。
リシェが帳面を開く。
町の名前を見つけ、小さく息を吸った。
「エルナ」
僕は顔を上げた。
彼女が頁をこちらへ向ける。
日付。補充量。交換部品の数。
いくつもの欄の端に、受領を示す印があった。
あの村へ届いたものが、ここを通っていた。
*
午前中いっぱい、記録を調べた。
ミルカ。
エルナ。
僕たちがまだ訪れたことのない村。
紙に並んだ数字は、どれも小さなものだった。
戸口の補修に使う蝶番。配管の継ぎ手。冬越しのための布。
戦場で拾った命令書は、兵の数や攻撃の時刻を記していた。
同じ軍の倉庫に、子ども用の外套の枚数が残っていることを、僕は知らなかった。
「これ、誰が決めたの」
リシェが尋ねた。
開いた頁には、急な減配の記録があった。
その下に、取り消しの線が引かれている。
オセルが覗き込んだ。
「ああ。南で軍用の石が足りなくなったときだ。先に集落への便を削ろうとした」
「それで?」
彼は別の棚から、薄い束を持ってきた。
紐をほどき、紙を一枚抜く。
短い命令だった。
人間の避難民が暮らす集落への配給を維持すること。
自前の調整設備を持たない場所を、先に切り捨ててはならないこと。
下には、魔王の印があった。
リシェの指が紙の上で止まった。
目が、何度も同じ行を辿った。
「ヴァルゼンが」
オセルは頷いた。
「俺たちには別の支給元があった。あっちにはない。そういう命令だった」
僕は紙を見た。
魔王の名の下に、人間を守れと書いてある。
それはもう、誰かの感謝の言葉だけではなかった。
日付と、実際に届いた物資の記録があった。
リシェが顔を上げた。
何か言おうとした。
その前に、オセルが束を戻した。
「都合のいい紙だけ抜くなよ」
部屋が静かになった。
「ほかにもある」
彼が言った。
*
午後、僕は別の棚を調べた。
戦時中の移送記録。
兵の人数。
砦から南へ送られた荷の一覧。
レムナ、という字が見えた。
僕は手を止めた。
ネラの夫が、鍋を届けに行った町。
ユノの帳面から、父親の字が途切れた場所。
紙を引き抜く。
上部には、攻撃準備の印が押されていた。
対象は町の結界設備。
それを止め、王国側の魔力の流れを変更させる、とある。
僕には、技術的な内容は分からなかった。
だが、戦闘に関する箇所は読めた。
守備隊が抵抗した場合、施設周辺の制圧を優先する。
町の北側から侵入し、夜明けまでに二つの拠点を確保する。
その下に、別の紙が綴じられていた。
周辺に民家が密集している。
火を使う兵器の使用は延焼を招く。
退避の確認が取れない。
現地から上げられた意見だった。
僕は次の頁をめくった。
作戦の続行を認める、とあった。
「リシェ」
彼女が振り返った。
僕は紙を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。
「これも、見てほしい」
彼女が近づく。
最初の頁を読み、次を読み、三枚目で動かなくなった。
魔王の印があった。
配給を維持する命令と、同じ印だった。
*
「この印が、本物かどうか」
リシェの声は、かすれていた。
オセルは紙の端を押さえた。
余白にある番号と、棚の帳面の番号を照らす。
「本部から来た写しだ。ここで受け取り、補給を出した。受領の番号も残ってる」
「印だけなら――」
彼女はそこで止まった。
僕はオセルを見た。
「この命令が、実際に使われたのか、知っている?」
「荷を出したのは俺だ。戻ってきた分も受け取った」
「現地には?」
「行ってない」
彼ははっきり言った。
「だから、誰がどの家へ火をつけたかまでは知らん。書いてあることと、俺がしたことだけだ」
僕は頷いた。
確かなことと、まだ分からないことを分ける。
紙に印があるだけで、あの町のすべてが分かるわけではない。
それでも、警告がなかったとは言えなくなった。
リシェは、続行を認める一行を見ていた。
「町の人がいるって」
彼女が言った。
「知ってたんだ」
オセルは答えなかった。
遠くで水が滴る音がした。
天井のどこかから、雨水が染みている。
僕は紙を机へ置いた。
濡らさないよう、桶を少しずらした。
その小さな仕事をしている間、誰も話さなかった。
*
夕方、地下を出た。
オセルは、持ち出す紙と残す紙を分けた。
すべてを渡すことはできないと言った。ほかの集落からも、記録を探しに来る人がいるからだ。
僕たちは必要なものを写した。
配給の命令も、レムナへの命令も。
写し終えると、オセルが日付と名前を添えた。
案内の男も、見届けた印を書いた。
「王国へ持っていくのか」
オセルが尋ねる。
「必要なところには」
「俺の名前を消すな」
僕は顔を上げた。
「俺が関わってないみたいにするな。食料を数えてただけだと言えば、楽なのは分かってる」
彼は、机の上の紙を揃えた。
「でも、それで軍が動いた」
僕は、彼の右手を見た。
もう剣には触れていなかった。
「消さない」
僕は答えた。
リシェは戸口に立っていた。
配給の写しを胸元へ入れようとして、思い直したように、攻撃命令の写しと重ねた。
同じ袋に、両方を収める。
それを見て、僕は何も言わなかった。
*
夜は、砦の空いている部屋を借りた。
窓の半分には板が打ちつけてあった。
風の音が、細く聞こえた。
リシェは灯りの下で、写した配管図を広げていた。
線は南へ伸び、レムナの近くで途切れている。
「途中の設備が、あの町にある」
彼女が言った。
「記録を、見せてもらえるかもしれない」
「行く?」
彼女は紙を見つめた。
「行かなきゃ、と思う」
僕は床へ広げた毛布を直した。
次の言葉を待った。
「でも、怖い」
リシェが言った。
「あの命令のあとに何が起きたのか、聞くのが」
僕は隣へ座った。
慰めるための言葉は、見つからなかった。
魔王はきっとそんなつもりではなかった、と言うこともできなかった。
「僕も、全部は知らない」
そう答えた。
「一緒に聞こう」
彼女は紙を畳んだ。
丁寧に角を揃えたのに、最後の一折りだけ、うまく合わなかった。
僕は手を出さなかった。
彼女が自分で折り直すのを待った。
袋には、村を守る命令と、町を攻める命令が入っている。
どちらも、明日の道へ持っていくことになった。




