帰れる場所の話
休みの日の朝も、リシェは道具箱を開けた。
宿舎の食堂へ下りると、机の上に測定棒が並んでいた。
僕は、その前に立った。
「休むんじゃなかった?」
「磨いてるだけ」
彼女の視線が、僕の手へ下りる。
僕は剣の手入れに使う布を持っていた。
二人とも、何も言わなくなった。
朝食を運んできたガレスが、それを見た。
椀を置き、測定棒と布をまとめて机の端へ寄せる。
「飯」
短く言った。
僕たちは椅子へ座った。
*
食後、街へ出た。
どこへ行くかを決めない散歩だった。
道具を買いに行こうと言ったら、ガレスに却下された。
「仕事で使わないものを、一つ見てこい」
彼はそう言った。
「買わなくてもいいから」
そんな課題を出されるとは思わなかった。
市場へ入ると、人が多かった。
果物、布、古い本、靴。
修理に必要なものならすぐ目に入るのに、自分が欲しいものは分からなかった。
リシェも同じらしかった。
店先の金属細工を見て、途中で目を逸らす。
「今、配管の留め具に使えそうだと思った?」
僕が尋ねると、彼女は黙った。
「僕も」
彼女が笑った。
声を出して笑うのを、ずいぶん久しぶりに聞いた気がした。
通りの端で、小さなパンを買った。
表面に蜜が塗ってある。
リシェは一口食べ、目を丸くした。
「甘い」
「甘いパンだから」
「こんなにとは思わなかった」
僕は、前に食べたことがあると答えかけた。
そのあとで、彼女が初めて見る店の前にいることを、少し嬉しく思った。
知らない景色が、怖いものばかりではなくてよかった。
*
広場の噴水の脇に座った。
水は一定の高さで上がり、石の縁へ落ちる。
子どもが手を伸ばし、母親に服を濡らすなと注意されていた。
リシェは、その水を長く見ていた。
「これも、結界の力?」
尋ねる。
「井戸の設備から回してるはず。でも、詳しくは知らない」
彼女は頷いた。
「きれいだね」
それだけ言って、しばらく黙った。
僕は、余計な説明をしなかった。
水を戻す量や、必要な動力の話をせずに、彼女がきれいだと思ったものを見ていたかった。
パンを食べ終えると、彼女が紙を丁寧に畳んだ。
「旅が終わったら、ここに戻るの?」
不意に尋ねられた。
「ここ?」
「王都。勇者の仕事があるんでしょう」
僕は噴水を見た。
討伐のあと、何をするか。
褒賞の話はあった。軍へ残る道もあると言われた。
でも、具体的な暮らしを思い描いたことはなかった。
「分からない」
僕は答えた。
「戻るものだと思ってたけど、何をするかまでは」
「故郷は?」
「北の方。王都ほど大きくない町」
リシェが頷く。
僕はそこにある川や、冬に滑りやすくなる坂の話をした。
小さいころ、門の外で魔物の群れに出会い、兵士に助けられた話も。
話しながら、記憶が少し違って見えた。
助けてくれた兵士は、格好よかった。
僕にはそう見えた。
でも、荷車の陰で水を飲んでいた手は、震えていた。
今なら、その震えの意味が少し分かる。
「その人みたいになりたかった」
僕は言った。
「なったと思う」
リシェが答えた。
僕は彼女を見た。
彼女はパンの紙を膝へ置いたまま、こちらを見ていた。
「エルナの子を、連れ戻したでしょう」
僕は少し笑った。
「そのあと、君に連れ戻されたけど」
「それでも」
彼女の声は、揺らがなかった。
*
「リシェは、村へ帰る?」
僕が尋ねると、彼女は頷いた。
「一度は。家がどうなってるかも見たいし、戻れるなら、結界を直したい」
「そのあとは?」
彼女は少し考えた。
「分からない。前は、ずっと村にいると思ってた」
噴水の向こうで、子どもが笑った。
「でも、今は、ほかの場所も見てしまったから。知らないふりで、村のことだけ考えられるかなって」
僕は頷いた。
よく分かった。
行った場所が増えると、気にかかる人も増える。
それは嬉しいことのはずなのに、時々、抱えきれなくなる。
「全部、自分で見に行かなくてもいいのかもしれない」
僕は言った。
「記録を送ってもらうとか、誰かに任せるとか」
リシェが、こちらを見た。
「あなたが言うんだ」
「僕にも、言ってる」
彼女は少し笑い、頷いた。
それから、思い切ったように口を開いた。
「村へ来ない?」
僕は聞き返しそうになった。
「旅が終わったら。王都ですることが、まだ決まってないなら」
彼女は続けた。
「結界の仕事、手伝ってくれる人がいると助かる。荷物を運ぶだけじゃなくて、点検とか、記録とか」
僕は、すぐに答えられなかった。
魔王の力が残る剣を持っているから。
その必要で一緒に旅をしていた。
今、誘われている時間には、その力が残っていないかもしれない。
「僕でいいの?」
思わず尋ねた。
リシェの眉が少し寄る。
「今、あなたに聞いてる」
僕は噴水へ目を戻した。
水音が、妙に大きく聞こえた。
「考えたい」
僕は答えた。
「ちゃんと」
彼女は少しだけ肩を落としたように見えた。
僕は慌てて付け足した。
「嫌だからじゃない。嬉しい。でも、ここで勢いで返事をして、あとで困らせたくない」
彼女は僕を見た。
やがて、頷く。
「急がなくていい」
言葉を切った。
「今は、試験が先だから」
僕も頷いた。
それでも、試験のあとに続くものが、初めて少し見えた。
*
帰り道、小さな文具の店へ入った。
色のついた糸で綴じた帳面が並んでいた。
仕事用の無地のものより、少し高い。
リシェが、淡い青の表紙を手に取る。
中を開き、すぐに戻そうとした。
「欲しい?」
僕が尋ねる。
「使う帳面は、まだあるから」
「仕事で使わないものを見てこいって、言われたよ」
彼女は表紙を撫でた。
僕は自分用に、小さな紙束を買った。
値札を見て迷っている彼女へ、買ってあげるとは言わなかった。
選ぶ時間を待った。
結局、リシェはその帳面を買った。
店を出てから、何を書くか尋ねると、まだ決めていないと言った。
「測定値以外」
彼女は付け足した。
「今日のパンとか」
「甘すぎたって?」
「おいしかったでしょう」
「おいしかった」
その答えが、どうしてか嬉しかった。
*
午後、宿舎へ戻ると、ガレスがいた。
「仕事で使わないものは見つかったか」
僕は紙束を、リシェは青い帳面を見せた。
彼は少し疑わしい顔をした。
「結局、書くものか」
「測定値は書かないそうです」
僕が言うと、リシェに肘で軽く突かれた。
ガレスが笑った。
いつか、こんな午後が普通になるのだろうか。
大きな仕事が片づいた褒美ではなく、ただ一日の途中にある時間として。
僕は窓の外を見た。
王都の空には、薄い雲が流れていた。
リシェは自分の部屋へ戻りかけ、戸口で振り返った。
「さっきの話」
「うん」
「仕事だけじゃなくて。村の近くに、花がきれいな場所もある」
彼女は言ってから、少し困った顔をした。
僕が返事をする前に、続ける。
「案内できると思う」
僕は頷いた。
「見たい」
それだけは、迷わず答えられた。
*
翌日から、試験の準備が再開した。
台座の固定。
配管の確認。
調整器の組み立て。
作業の途中で、僕は何度も村の風景を想像した。
実際に見たのは、壊れかけた結界と、避難を準備する人々だけだった。
その先に、普通の朝がある。
リシェが帳面を持ち、僕が道具箱を運ぶ。
想像すると、柄の光が減ることへの怖さが、少しだけ別の形になった。
力を使い切ったら終わるのではなく、そのあとにも行く場所があるかもしれない。
けれど、まだ決まったわけではない。
彼女へ返す言葉も、自分の中で育てる必要があった。
夕方、試験の最終手順が配られた。
日時。
参加者。
中止の条件。
リシェは青い帳面ではなく、いつもの作業帳へ書き込んだ。
「明日」
彼女が言った。
「うん」
僕たちは目を合わせた。
村の話は、その場ではしなかった。
明日、安全に終えたあとに、続きを考えたかった。




