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君と勇者のいらない世界へ  作者: きびだんご


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21/22

帰れる場所の話

 休みの日の朝も、リシェは道具箱を開けた。


 宿舎の食堂へ下りると、机の上に測定棒が並んでいた。

 僕は、その前に立った。


「休むんじゃなかった?」


「磨いてるだけ」


 彼女の視線が、僕の手へ下りる。

 僕は剣の手入れに使う布を持っていた。


 二人とも、何も言わなくなった。


 朝食を運んできたガレスが、それを見た。

 椀を置き、測定棒と布をまとめて机の端へ寄せる。


「飯」

 短く言った。


 僕たちは椅子へ座った。


     *


 食後、街へ出た。


 どこへ行くかを決めない散歩だった。

 道具を買いに行こうと言ったら、ガレスに却下された。


「仕事で使わないものを、一つ見てこい」

 彼はそう言った。

「買わなくてもいいから」


 そんな課題を出されるとは思わなかった。


 市場へ入ると、人が多かった。

 果物、布、古い本、靴。

 修理に必要なものならすぐ目に入るのに、自分が欲しいものは分からなかった。


 リシェも同じらしかった。

 店先の金属細工を見て、途中で目を逸らす。


「今、配管の留め具に使えそうだと思った?」

 僕が尋ねると、彼女は黙った。


「僕も」


 彼女が笑った。

 声を出して笑うのを、ずいぶん久しぶりに聞いた気がした。


 通りの端で、小さなパンを買った。

 表面に蜜が塗ってある。


 リシェは一口食べ、目を丸くした。

「甘い」


「甘いパンだから」

「こんなにとは思わなかった」


 僕は、前に食べたことがあると答えかけた。

 そのあとで、彼女が初めて見る店の前にいることを、少し嬉しく思った。


 知らない景色が、怖いものばかりではなくてよかった。


     *


 広場の噴水の脇に座った。


 水は一定の高さで上がり、石の縁へ落ちる。

 子どもが手を伸ばし、母親に服を濡らすなと注意されていた。


 リシェは、その水を長く見ていた。


「これも、結界の力?」

 尋ねる。


「井戸の設備から回してるはず。でも、詳しくは知らない」


 彼女は頷いた。

「きれいだね」


 それだけ言って、しばらく黙った。


 僕は、余計な説明をしなかった。

 水を戻す量や、必要な動力の話をせずに、彼女がきれいだと思ったものを見ていたかった。


 パンを食べ終えると、彼女が紙を丁寧に畳んだ。


「旅が終わったら、ここに戻るの?」

 不意に尋ねられた。


「ここ?」

「王都。勇者の仕事があるんでしょう」


 僕は噴水を見た。


 討伐のあと、何をするか。

 褒賞の話はあった。軍へ残る道もあると言われた。

 でも、具体的な暮らしを思い描いたことはなかった。


「分からない」

 僕は答えた。

「戻るものだと思ってたけど、何をするかまでは」


「故郷は?」


「北の方。王都ほど大きくない町」


 リシェが頷く。

 僕はそこにある川や、冬に滑りやすくなる坂の話をした。

 小さいころ、門の外で魔物の群れに出会い、兵士に助けられた話も。


 話しながら、記憶が少し違って見えた。


 助けてくれた兵士は、格好よかった。

 僕にはそう見えた。


 でも、荷車の陰で水を飲んでいた手は、震えていた。

 今なら、その震えの意味が少し分かる。


「その人みたいになりたかった」

 僕は言った。


「なったと思う」

 リシェが答えた。


 僕は彼女を見た。

 彼女はパンの紙を膝へ置いたまま、こちらを見ていた。


「エルナの子を、連れ戻したでしょう」


 僕は少し笑った。

「そのあと、君に連れ戻されたけど」


「それでも」


 彼女の声は、揺らがなかった。


     *


「リシェは、村へ帰る?」


 僕が尋ねると、彼女は頷いた。


「一度は。家がどうなってるかも見たいし、戻れるなら、結界を直したい」


「そのあとは?」


 彼女は少し考えた。


「分からない。前は、ずっと村にいると思ってた」


 噴水の向こうで、子どもが笑った。


「でも、今は、ほかの場所も見てしまったから。知らないふりで、村のことだけ考えられるかなって」


 僕は頷いた。

 よく分かった。


 行った場所が増えると、気にかかる人も増える。

 それは嬉しいことのはずなのに、時々、抱えきれなくなる。


「全部、自分で見に行かなくてもいいのかもしれない」

 僕は言った。

「記録を送ってもらうとか、誰かに任せるとか」


 リシェが、こちらを見た。

「あなたが言うんだ」


「僕にも、言ってる」


 彼女は少し笑い、頷いた。


 それから、思い切ったように口を開いた。


「村へ来ない?」


 僕は聞き返しそうになった。


「旅が終わったら。王都ですることが、まだ決まってないなら」

 彼女は続けた。

「結界の仕事、手伝ってくれる人がいると助かる。荷物を運ぶだけじゃなくて、点検とか、記録とか」


 僕は、すぐに答えられなかった。


 魔王の力が残る剣を持っているから。

 その必要で一緒に旅をしていた。


 今、誘われている時間には、その力が残っていないかもしれない。


「僕でいいの?」

 思わず尋ねた。


 リシェの眉が少し寄る。


「今、あなたに聞いてる」


 僕は噴水へ目を戻した。

 水音が、妙に大きく聞こえた。


「考えたい」

 僕は答えた。

「ちゃんと」


 彼女は少しだけ肩を落としたように見えた。

 僕は慌てて付け足した。


「嫌だからじゃない。嬉しい。でも、ここで勢いで返事をして、あとで困らせたくない」


 彼女は僕を見た。

 やがて、頷く。


「急がなくていい」

 言葉を切った。

「今は、試験が先だから」


 僕も頷いた。


 それでも、試験のあとに続くものが、初めて少し見えた。


     *


 帰り道、小さな文具の店へ入った。


 色のついた糸で綴じた帳面が並んでいた。

 仕事用の無地のものより、少し高い。


 リシェが、淡い青の表紙を手に取る。

 中を開き、すぐに戻そうとした。


「欲しい?」

 僕が尋ねる。


「使う帳面は、まだあるから」


「仕事で使わないものを見てこいって、言われたよ」


 彼女は表紙を撫でた。


 僕は自分用に、小さな紙束を買った。

 値札を見て迷っている彼女へ、買ってあげるとは言わなかった。

 選ぶ時間を待った。


 結局、リシェはその帳面を買った。

 店を出てから、何を書くか尋ねると、まだ決めていないと言った。


「測定値以外」

 彼女は付け足した。


「今日のパンとか」

「甘すぎたって?」

「おいしかったでしょう」

「おいしかった」


 その答えが、どうしてか嬉しかった。


     *


 午後、宿舎へ戻ると、ガレスがいた。


「仕事で使わないものは見つかったか」


 僕は紙束を、リシェは青い帳面を見せた。

 彼は少し疑わしい顔をした。


「結局、書くものか」

「測定値は書かないそうです」

 僕が言うと、リシェに肘で軽く突かれた。


 ガレスが笑った。


 いつか、こんな午後が普通になるのだろうか。

 大きな仕事が片づいた褒美ではなく、ただ一日の途中にある時間として。


 僕は窓の外を見た。

 王都の空には、薄い雲が流れていた。


 リシェは自分の部屋へ戻りかけ、戸口で振り返った。


「さっきの話」

「うん」


「仕事だけじゃなくて。村の近くに、花がきれいな場所もある」


 彼女は言ってから、少し困った顔をした。

 僕が返事をする前に、続ける。


「案内できると思う」


 僕は頷いた。

「見たい」


 それだけは、迷わず答えられた。


     *


 翌日から、試験の準備が再開した。


 台座の固定。

 配管の確認。

 調整器の組み立て。


 作業の途中で、僕は何度も村の風景を想像した。

 実際に見たのは、壊れかけた結界と、避難を準備する人々だけだった。


 その先に、普通の朝がある。

 リシェが帳面を持ち、僕が道具箱を運ぶ。


 想像すると、柄の光が減ることへの怖さが、少しだけ別の形になった。

 力を使い切ったら終わるのではなく、そのあとにも行く場所があるかもしれない。


 けれど、まだ決まったわけではない。

 彼女へ返す言葉も、自分の中で育てる必要があった。


 夕方、試験の最終手順が配られた。


 日時。

 参加者。

 中止の条件。


 リシェは青い帳面ではなく、いつもの作業帳へ書き込んだ。


「明日」

 彼女が言った。


「うん」


 僕たちは目を合わせた。

 村の話は、その場ではしなかった。


 明日、安全に終えたあとに、続きを考えたかった。

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