城壁の内側の晴天
王都の門をくぐったとき、空は晴れていた。
外では、朝から薄い雨が降っていた。
門の手前で外套を絞った人が、内側では布を外して歩いている。
石畳は乾いていた。
店先には果物が並び、洗濯物が高い場所まで干されている。
僕が知っている王都だった。
リシェは、門を振り返った。
雨の境目が、遠くの空に見える。
普通の雨まで結界が全部遮るわけではない。それでも、この日の王都は穏やかだった。
「いつも、こう?」
彼女が尋ねた。
「いつもじゃない。雨も降る」
僕は答えてから、言葉を足した。
「でも、ひどい嵐で外へ出られなくなったことは、僕がいた間にはない」
リシェは頷いた。
何も責めなかった。
そのことが、かえって重かった。
*
ガレスは、宿舎の前で待っていた。
左腕の包帯は薄くなっていた。
僕を見ると、右手を上げる。
「遅い」
最初の言葉は、それだった。
「ごめん」
「道が崩れてるか見るだけのはずだっただろう」
返す言葉がなかった。
彼は僕の肩へ手を置き、途中で止めた。
「そっちも傷めたのか」
「少し」
「少し、を数えてみろ」
僕が黙ると、ガレスは深く息を吐いた。
そのあとで、リシェへ向き直る。
「手紙で聞いている。ガレスだ」
リシェは名乗り、頭を下げた。
ガレスは彼女の鞄と、荷車の箱を見た。
「結界の記録か」
「はい」
「先に、濡れない場所へ入れよう。話は、それからだ」
彼は僕の荷をひとつ持った。
負傷した側ではない手で、軽い箱を選んだ。
僕はそれを取り返さなかった。
*
ガレスは、僕たちの話を長く聞いた。
途中で遮ったのは、日付を確かめるときだけだった。
どこへ何日かかり、誰から何を受け取ったのか。
リシェが記録を見せ、僕が出来事を説明する。
聖剣の残量も、測定の紙を渡した。
三分の二ほど。
それを見たときだけ、彼は眉を寄せた。
「残りが分からないまま使ったのか」
「最初は」
「今は?」
「使う前とあとで、測ってる」
ガレスが頷いた。
「なら、続けろ」
責められると思っていた。
彼は、過ぎたことを何度も言い直さなかった。
レムナの命令書を見せると、部屋の空気が変わった。
彼は最後まで読み、机へ置いた。
「王都へ送った写しは、結界局に回った。だが、全部はまだ読まれてない」
「会える?」
「明日。セヴリナという人から、先に現物を見たいと返事があった」
リシェの肩が、少し緩んだ。
ガレスは彼女へ目を向けた。
「君の村を、俺は知らなかった」
リシェは、すぐには答えなかった。
「俺たちは、攻めてくる軍を止めようとしていた」
ガレスは続けた。
「それで守れた人もいた。だが、その向こうで何が動いていたかは、知らない」
彼女は小さく頷いた。
「私も、レムナを知りませんでした」
そこで会話が止まった。
どちらも、相手へすぐに理解を求めなかった。
僕はその間を、ありがたいと思った。
*
セヴリナは、結界局の奥の部屋にいた。
灰色の上着の袖を捲り、机に図面を広げている。
髪は短くまとめ、耳には飾りもなかった。
「アルドさん。リシェさん」
顔を上げて言う。
「最初に、私が何を見ればよいか教えてください」
挨拶のあと、すぐにそう尋ねられた。
リシェは、レムナの接続記録を置いた。
次に、ヘルゼから預かった図面を広げた。
セヴリナの指が止まる。
「彼女は、生きているんですね」
「施設に残って、記録を整理しています」
セヴリナは目を伏せ、また図へ戻った。
「会ったのは、ずいぶん前です」
懐かしむ時間は短かった。
彼女は焼けた部品を手に取り、断面を窓へ向ける。
「この接続で、一晩?」
「途中で一度止めています」
リシェが答えた。
「その記録は」
「ここです」
セヴリナは頁を辿った。
声に出さず、何かを計算している。
僕は椅子に座り、二人の手が同じ紙の上を動くのを見た。
ようやく、話が通じる人へ届いた気がした。
けれど、安心はまだ早かった。
「このまま町同士へ広げるのは、無理です」
セヴリナが言った。
リシェが顔を上げる。
「どこが、足りませんか」
彼女は図へ、いくつもの印をつけ始めた。
*
不足は、一つではなかった。
大きな量が流れるときの調整。
離れた場所から、遅れて返ってくる変化。
一つを止めたとき、隣へ寄る負担。
リシェは、答えられることと、答えられないことを分けて話した。
セヴリナも、分からない箇所には線を引いた。
その途中で、僕は持ってきた地図を出した。
「この場所を、調べてもらいたいんです」
エルナ。
ミルカ。
砦から写した集落の印。
セヴリナは、局の地図を棚から取り出した。
僕のものより新しい。
それでも、載っていない集落があった。
「ここには、人が?」
「います。少なくとも、僕たちが行った日に」
日付を指す。
彼女はそれを書き留めた。
リシェが、各地の嵐の記録を置いた。
「王都の外側へ流れている魔力について、知りたいです」
部屋が静かになった。
セヴリナは、しばらく紙を見ていた。
それから立ち上がり、戸口の職員へ何かを頼んだ。
「説明だけでは足りませんね」
彼女が言った。
「記録と設備を、両方見ましょう」
*
結界局の地下には、大きな調整室があった。
壁一面に、光る線が走っている。
人々が目盛りを読み、紙へ書き、交代の者へ伝えていた。
僕はその場所を、初めて見た。
王都の空が穏やかな理由を、考えたことはあった。
でも、それを保つ人たちを、見たことはなかった。
セヴリナは壁の線を示した。
「戻せる量を越えた魔力を、外へ流しています」
リシェが、地図の方を見る。
「どこへ」
「東と北東の、人口の少ない地域へ分散する設計です」
僕は、線の先を辿った。
僕たちが歩いてきた場所へ、向かっていた。
セヴリナは逃げずに続けた。
「元の設計では、人の住む場所を避けるとされています。ただ、当時から無人ではありませんでした」
「被害は」
僕が尋ねる。
「報告があります」
短い答えだった。
その方が、はっきりしていた。
職員が運んできた束に、古い報告書があった。
避難を勧めた記録。
補修材を出した記録。
返答を待ったままになっているものもあった。
リシェはその中の一枚を見つめた。
エルナの谷に近い地名だった。
「住んでいないと思ってた、では済まないですね」
彼女が言った。
セヴリナは頷いた。
「済みません」
誰が何を知り、どこで止まったのか。
調べなければならないと、彼女は言った。
今すぐ全員の責任を決めることはできない。
でも、なかったことにはできない。
*
僕たちは王都の運転記録と、辺境の観測値を並べた。
同じ日の、同じ時間帯。
都市側で大きく外へ流したあと、辺境側の負荷が増えている。
すべての嵐が、それだけで起きているわけではなかった。
大地そのものから噴き出す量も変わる。
風向きも、土地の状態も影響する。
それでも、無関係ではないと分かった。
「こちらが守られる分、向こうで増える」
僕が言うと、セヴリナは答えた。
「今の仕組みでは、そうなる場面があります」
リシェは、長く黙っていた。
僕は王都の通りを思い出した。
干された洗濯物。
笑っていた子ども。
静かな夜。
あれが偽物だったわけではない。
守られていた命は、本当にあった。
その外で、守られにくくなった暮らしもあった。
僕は両手を膝の上で握った。
どちらかの命を、説明の都合で小さくすることはできなかった。
*
調整室を出ると、午後の光が眩しかった。
リシェは階段の途中で立ち止まった。
壁に手をつき、少しだけ目を閉じる。
「大丈夫?」
僕が尋ねると、彼女は首を振った。
「今は、大丈夫じゃない」
僕は隣で待った。
彼女は深く息を吐き、顔を上げた。
「でも、見せてもらえてよかった」
セヴリナは少し離れたところに立っていた。
急かさずに待っている。
僕は彼女へ向き直った。
「変えられますか」
問いは短くなった。
セヴリナは、僕とリシェを順に見た。
「変える方法を調べる必要があります」
「今、外へ流すのを止めたら」
「この都市の中で溢れます」
空を見上げた。
雲がゆっくり動いていた。
守りたい人々が、その下にいる。
同じように、外にもいる。
僕は、持ってきた図面の箱を持ち直した。
「両方を守る方法を、ここで話したいです」
セヴリナは頷いた。
「そのための場を、用意します」
晴れた空は、答えではなかった。
これから変えなければならない仕組みが、そこにあった。




