最後に剣へ託したもの
ヘルゼが見せてくれたのは、遺言ではなかった。
表紙の端が破れた、薄い点検帳だった。
城の設備から戻ってきた記録だという。
「戦いの前に、外へ運んでいた分」
彼女は言った。
「城に残っていたものは、今どうなっているか分からない」
僕は椅子へ座った。
リシェが隣で、昨日の図面を広げた。
頁には、城の地下設備の状態が書かれていた。
補充先の数。
取り込んだ量。
身体へ戻ってしまう負荷。
最後のいくつかの欄では、数字の横に、同じ注意書きがあった。
停止時の退避先がない。
僕は、その言葉を指した。
「退避先って?」
「取り込んでいる魔力を、別の容器へ逃がす場所」
ヘルゼが答えた。
「身体が動かなくなれば、整えていた力は散る。暴れて設備を傷める分もある。だから、残せるなら残したかった」
「何に?」
彼女は点検帳をめくった。
試した容器の一覧があった。
いずれも容量が足りないか、移す途中で壊れていた。
「城に、間に合うものはなかった」
ヘルゼが言った。
「ただ、魔力を吸い、封じられる武器があることは、彼も知っていた」
僕は、横へ置いた聖剣を見た。
ヘルゼが外側に添えた薄い補強材が、刃の根元を支えている。
力は戻っていない。
柄の光は、昨日と同じだった。
*
「最後のとき、何を見たか、もう一度教えて」
ヘルゼに言われ、僕は目を閉じた。
魔王は、僕と戦っていた。
黒い槍が飛び、ガレスの盾へ当たった。
その威力は、僕たちを殺せるものだった。
それは、変わらない。
僕は踏み込み、剣を届かせた。
魔王の身体が、少し沈んだ。
それから、刃を掴んだ。
「刃を抜かせないためだと思った」
僕は言った。
「最後に、僕も巻き込むつもりだと」
ヘルゼは、黙って聞いた。
「手を離さなかった。剣に亀裂が入って、それでも。柄が熱くなった」
「力は、どちらへ流れたか分かる?」
僕は記憶を辿った。
戦いの最中、剣は何度も魔力を吸っていた。
いつもの吸収は、僕が引き込む感覚がある。
最後は、違った。
「押し込まれた」
言ってから、自分でも確かめ直した。
「引いたというより、向こうから、来た」
リシェが僕を見る。
ヘルゼは、刃の亀裂へ目を向けた。
「その傷み方とも、合う」
「魔王が、残そうとしたんですか」
彼女は、すぐに頷かなかった。
「その可能性が高いと思う。あなたの記憶と、この準備を合わせればね」
「でも、確かではない」
「本人には聞けない」
静かな答えだった。
僕は、聞こえなかった言葉を思い出そうとした。
何かを言われた気がする。
口が動いた。息が漏れた。
そこへ、都合のいい言葉を当てはめることはできなかった。
僕は目を開けた。
「僕を選んだわけじゃ、ないんですね」
ヘルゼは聖剣を見た。
「その場で、使える容器だったのでしょう。あなたを信じていたかは、私には分からない」
肩から何かが落ちるような気がした。
新しい使命を、死んだ相手から与えられたのではない。
少なくとも、そう決めつけずに済んだ。
*
リシェは、点検帳の最後の頁を見ていた。
「これが、あの人の全部の力なんですか」
聖剣を指さす。
ヘルゼは首を振った。
「一部です。封じ込められた分だけ」
「生きていたときは、もっと」
「大地から取り込み、整え、配っていた。剣には、その働きはない。入れ物に残った力を使っているだけ」
僕はエルナで使った量を思い出した。
ミルカで失った分も。
補充する本人がいない。
無限に湧いてくる力ではない。
「使い切ったら、本当に終わりなんだね」
僕が言うと、リシェは頷いた。
その顔に、前ほど怯えは見えなかった。
悲しみはある。
でも、何かが戻ってくるのを待つ表情ではなかった。
「だから、別の動かし方が要る」
彼女は昨日の設計図を引き寄せた。
魔王の名を書いた大きな丸。
そこへ集まる、いくつもの線。
その隣には、まだ完成していない分散した図がある。
「これを、あの人の代わりに誰か一人へ集めたら、同じになる」
彼女が言った。
ヘルゼは何も言わず、頷いた。
僕は自分の剣を見た。
これを持って全部の村を回ればいいと、どこかで考えていた。
減る速さより先に回れば、間に合うのではないか、と。
その考え方も、同じ形をしていた。
*
昼、施設の外で食事をした。
若い職員が鍋を運び、僕が椀を並べた。
リシェはヘルゼの椅子を、風の当たらない場所へ移した。
研究施設の畑には、ほとんど何も残っていなかった。
それでも、端に小さな葉が生えている。
職員は、去年落ちた種から出たのだと言った。
僕は、エルナで踏んでしまった芽を思い出した。
「戻ったら、見てみたい」
そう言うと、リシェが顔を上げた。
「何を?」
「最初に踏んだ花。まだ、生きてるかな」
彼女は少し考えた。
「イネスが、たぶん水をやってる。移動するとき、鉢に移したかもしれない」
「そんなことまで頼んだの?」
「頼んではないけど。あの人、見つけたらやるから」
言い終えて、彼女が少し笑った。
離れていても、任せられる人がいる。
そのことを思い出した笑いだった。
ヘルゼが、空の椀を置いた。
「王都へ行くなら、私の名を書いてもいい」
僕たちは顔を上げた。
「以前、交渉の席にいた者なら、覚えているでしょう。好かれてはいないかもしれないが」
彼女は、僕に宛名を書いた紙を渡した。
王国の結界局。
その下に、部署と、技術者の名があった。
セヴリナ。
「当時は補佐だった。今もいるなら、数字を読める人です」
僕は紙を丁寧に折った。
*
午後、持ち出す資料を選んだ。
設計図だけでは足りなかった。
どの材料を使ったか。
どこで止まり、どれくらい熱くなったか。
何を試して、失敗したか。
リシェは、成功した試験の束より、失敗の記録を先に箱へ入れた。
ヘルゼがそれを見ていた。
「重くなるよ」
「同じところで、もう一度焼きたくないので」
彼女は箱を持ち上げてみた。
すぐに僕へ半分を渡す。
僕は受け取った。
持てる量を分ける。
そんな小さなことが、少しずつ自然になっていた。
聖剣の点検帳も写した。
ただし、最後の行に、僕の言葉で書き添えた。
残そうとした可能性がある。意図は断定できない。
ヘルゼに見せると、彼女は頷いた。
「それでいい」
リシェも読んだ。
しばらくして、自分の名前を隣へ書いた。
「私も、それを持っていく」
僕は紙を箱へ収めた。
*
出発前、ヘルゼが僕を呼び止めた。
「剣に残った力を、どう使うかは、あなたたちが決めることです」
僕は柄を押さえた。
「ヴァルゼンが望んだかもしれないことに、全部従う必要はない」
リシェが、隣で顔を上げる。
「私たちが失敗した図面にも、そのまま従わなくていい。変えるために、持っていってほしい」
僕は頷いた。
誰かの願いを引き継ぐ。
その言葉を、簡単なことだと思っていた。
守りたいものを受け取り、したことをすべて正しいとは言わず、間違ったところは変える。
たぶん、その方が難しい。
リシェが金属環を、鞄の外へ結び直した。
隠していた印だった。
「これをつけたまま、レムナの記録も持っていく」
彼女が小さく言った。
僕は剣帯を締め直した。
勇者の印も、魔王の印も、そこにあった。
どちらかを消してからでなければ歩けない、ということではない。
*
王都へ向かう道は、途中から広くなった。
石が敷かれ、道標が立っている。
荷車の轍も深く、行き交う人が多かった。
僕たちは途中の宿場から、ガレスへ知らせを送った。
王都へ向かうこと。
結界局のセヴリナという人に会いたいこと。
証言と記録を持っていること。
使いに渡すとき、僕は一文を付け足した。
まだ、分からないことが多い。
書き終えて、少し笑った。
以前なら、頼りなく見える気がして消していただろう。
宿場の先で、雨が降り始めた。
辺境の嵐とは違う、普通の雨だった。
人々は慣れた様子で布をかぶり、店の軒先へ入る。
リシェは道端で、雨を掌へ受けた。
「何してるの」
僕が尋ねると、彼女は答えた。
「冷たいだけだと思って」
その手を見て、僕は何も言えなくなった。
王都は、もう遠くなかった。
彼女が知っている空と、僕が知っている空が、同じものではなかった理由を、これから確かめに行く。




