魔王が諦めた設計図
レムナを出る前、ダインは荷車を貸してくれた。
人を乗せるには小さすぎる、二輪の手押し車だった。
部品と食料を積むには、十分だった。
「研究所までなら、途中に道がある。帰りに使う者がいりゃ、そいつへ渡せ」
「返しに来ます」
僕が言うと、彼は首を振った。
「それを理由に、道を選ぶな」
リシェが工具箱を積んだ。
焼けた接続部も、荷の中へ入れた。
ダインは彼女を見た。
「次に試すときは、昨日の上限を忘れるな」
「はい」
「もっと細いところが、途中にあるかもしれん」
「先に、確かめます」
二人はそこで言葉を切った。
謝罪の返事も、和解の握手もなかった。
ダインは町へ戻り、僕たちは北東へ向かった。
それでも、荷車の持ち手には新しい布が巻かれていた。
掌が擦れないように、柔らかく重ねてあった。
*
研究施設は、三日目の午後に見つかった。
低い丘に、石造りの棟が三つ並んでいた。
ひとつは屋根が落ち、ひとつは窓が板で塞がれている。
残るひとつから、煙が上がっていた。
入口へ近づくと、足元で細い音がした。
「そこから動かないで」
窓の内側に、人影があった。
僕は荷車を止めた。
リシェが名乗り、目的を伝える。
しばらくして、戸が開いた。
年配の女性が立っていた。
細い角が髪の間から二本、後ろへ伸びている。
片方の手には杖を、もう片方には分厚い手袋をしていた。
「何を持ってきたの」
リシェが包みを開く。
古い調整器と、焼けた接続部。
女性は後者を見て、眉を上げた。
「ずいぶん、無理をしたね」
リシェが息を吸う。
「はい。何が足りなかったか、知りたくて」
女性は焼けた断面を確かめた。
それから、僕の腰へ目を向ける。
「聖剣まであるのか」
逃げるように手を離すことはしなかった。
僕は柄に触れず、名を告げた。
彼女はしばらく僕を見た。
「入って。話は、物を置いてから」
*
女性はヘルゼと名乗った。
ここで、結界の設計と試験を担当していたという。
研究員は散り散りになり、今は彼女と、世話をする若い職員が残っている。
「記録を運び出したら、私たちも出る」
彼女は言った。
「全部は持てない。どれを残すか、それを決める方が時間がかかる」
机の上には、紙の束が積んであった。
部品を包む箱より、書類の箱の方が多かった。
リシェがレムナのことを説明した。
使用した時間。
目盛りの動き。
町側の負荷が変わったときに、一度止めたこと。
ヘルゼは途中で何度も質問した。
「熱くなったのは、ここだけ?」
「こちらの接続部では。向こう側は、記録を頼みました」
「数字の間隔は」
「最初は短く。そのあと、同じ幅で」
「途中で、紙を見なかった時間は?」
「ありました。橋が落ちたときです」
僕はリシェを見た。
彼女は失敗を隠さなかった。
ヘルゼは頷き、焼けた部品を机へ置いた。
「つなぐだけなら、できる。問題は、相手が変わったときに、こちらをどう変えるかだ」
彼女が立ち上がり、棚から大きな図面を引き出した。
紙を広げる。
いくつもの丸が、線でつながっていた。
町の名前。
村の名前。
中継所の印。
僕たちが歩いてきた場所が、いくつもあった。
*
「これを、造ろうとしてたんですか」
リシェの声が、少し上ずった。
ヘルゼは図の端を押さえた。
「途中までは、造った」
指を動かす。
「ここから、ここ。小さい範囲で、実際につないだ。違う型の蓄魔石を使う設備も、間に調整器を置けば動かせた」
僕は、ミルカの温室を思い出した。
「町全体でも?」
「同じようにはいかない。通る量が増えれば、熱も増える。土地ごとに、余った魔力を戻せる量も違う」
ヘルゼが別の図を重ねた。
線の太さが、場所によって違っている。
「結界は、外へ壁を立てるだけじゃない。大地から出て、偏って溜まった魔力を、少しずつ戻している。その仕事にも、動力が要る」
「なら、全部に同じ量を送れば」
僕が言いかけると、彼女は首を振った。
「同じ桶でも、底の穴の大きさが違う。速く戻せる土地と、戻せない土地がある」
彼女は図の一点を示した。
「戻せないところへ押しつければ、溢れる」
リシェの顔が変わった。
「レムナで、町側の負荷が増えたとき」
「そう。向こうにも余裕がなくなった。あなたたちが切らなければ、両方とも傷んだかもしれない」
僕は、灯りを見失いかけた瞬間を思い出した。
橋が落ちる音に、気を取られた。
図面の上では、一本の線だった。
その線のこちら側で、子どもが毛布にくるまっていた。
*
「どうして、完成しなかったんですか」
リシェが尋ねた。
ヘルゼは、図を畳まなかった。
長い間、指を紙に置いていた。
「王国の設備が必要だった」
やがて答えた。
「大きな流れを調整する仕組みは、向こうの方が進んでいた。こちらには、広い辺境で使う小さい設備の記録があった」
「合わせれば」
「そう考えて、交渉した」
彼女は棚から薄い冊子を取った。
会合の日付と、要求した資料の一覧がある。
王国側は、都市の結界を止めずに改修できる証明を求めた。
魔王側は、辺境の設備を調べる人員に制限をつけた。
共有する情報が足りず、試験の条件が揃わない。
その間にも、辺境から被害の報告が届く。
「向こうは、都市へ危険が戻るのを恐れた。こちらは、設備の場所を渡せば攻撃されると恐れた」
ヘルゼは、冊子を置いた。
「私も、全部見せることに反対した」
僕は彼女を見た。
「戦う前から、敵に弱いところを教えるのか、とね」
声は平らだった。
懺悔のために話しているようには見えなかった。
「正しい用心だと思った。でも、それで作れなかった」
リシェが図面へ目を戻す。
「ヴァルゼンは、どうしたんですか」
「自分で支えると言った」
ヘルゼは別の頁を開いた。
そこでは、線がすべて一つの大きな丸へ集まっていた。
僕はその形を見て、息を止めた。
魔王の足元。
決戦のとき、床を走っていた光の溝。
似ていた。
「彼には、大きな量を取り込み、整える力があった」
ヘルゼが言った。
「でも、身体が持つからといって、何年も続けてよい仕組みではなかった」
「止めなかったんですか」
リシェが尋ねた。
「別の方法を完成させられなかった」
それが答えだった。
*
図面の後ろに、戦争が始まってからの記録があった。
都市の設備を制圧すれば、交渉の条件を変えられる。
辺境への流れを、強制的に抑えられる。
会議の記録には、そういう言葉が並んでいた。
リシェは、レムナの命令書の写しを出した。
ヘルゼが読む。
読み終えると、椅子の背へ身体を預けた。
「この報告を見たとき、私は研究へ戻った」
彼女が言った。
「せめて設備を完成させれば、次の攻撃を止められると思った」
「止まらなかった」
僕が言うと、彼女は頷いた。
「止まらなかった」
リシェが紙を握った。
ヘルゼは、その手を見た。
「彼が守った人がいる。それは、本当だ」
言葉を切る。
「だからといって、彼の選んだ攻撃を、別の誰かのせいにはできない」
僕は何も言わなかった。
その言葉は、僕自身にも向いている気がした。
僕が救った人がいる。
僕が知らずに変えてしまった暮らしもある。
どちらかを言えば、もう片方を見なくてよくなるわけではない。
*
午後、ヘルゼに聖剣を見てもらった。
彼女は刃の亀裂を調べ、柄の結晶へ測定棒を近づけた。
リシェが今までの記録を並べる。
「吸収側が壊れてるね」
「直せますか」
僕が尋ねた。
「直すなら、いったん中を空にして、封印の枠を開ける必要がある」
彼女は刃の根元を示した。
「力を残したまま触れば、ここから漏れる。別の容器へ全部移すのも、今ある設備では無理だ」
僕は柄の光を見た。
まだ、三分の二ほどある。
「空にしたら、今の魔力は」
「戻らない」
リシェが、静かに僕を見る。
修理できるかもしれない。
そのために、今救えるかもしれない人の分を捨てる。
すぐに決められることではなかった。
でも、ここで全部放出する理由は見つからなかった。
「今は、このままで持ちます」
僕は答えた。
ヘルゼが頷く。
「刃の外側を支えることはできる。力を増やす修理ではないが、傷が広がるのを遅らせる補強なら」
「お願いします」
剣を預けると、腰が軽くなった。
僕はその軽さを、しばらく確かめていた。
*
夕方、リシェは図面を写していた。
ヘルゼが横で、実際に動いた部分と、紙の上だけの部分を分けている。
未確認の箇所には、大きく印をつけた。
「全部、できたことにはしないで」
彼女が言う。
「私たちが、そう見せかけそうになったところだから」
リシェは頷いた。
僕は外へ出て、王都へ送る報告を書いた。
必要なのは、魔王が善人だったという証明ではない。
つなげる技術があったこと。
失敗した理由があること。
王国の設備と記録がなければ、先へ進めないこと。
書き終えるころ、ヘルゼが戸口へ来た。
「明日、城から戻された記録も見せよう」
彼女が言った。
「あなたの剣に残っている力について、確かめたいことがある」
僕は顔を上げた。
魔王が刃を掴んだ手。
聞き取れなかった声。
忘れたつもりのない記憶が、まだ何かを残していた。




