一晩だけの橋
橋は、すぐには落ちなかった。
上流から流れてきた木が、支えの一本へ引っかかった。
水がそこへ集まり、暗い塊になって押している。
ダインが灯りを高く掲げた。
僕は岸から橋を見る。
「渡れる?」
尋ねると、彼は首を振った。
「人を乗せるな。今は持ってても、戻るときにあるとは限らん」
町の南側には別の避難場所がある。
こちらへ来られなくなった人は、そちらへ向かうよう、渡る前に決めていた。
僕は町側の見張りへ、灯りを振った。
決めておいた回数。
返事の灯りが揺れる。
向こうも分かった。
そのとき、避難所の入口が一度、暗くなった。
リシェが走ってきた。
「結界の蓄えが足りない」
雨が、彼女の外套から滴っていた。
「漏れは止めたんじゃ」
「止めた。でも、減ってた分は戻ってない。外の負荷が、予想より上がってる」
倉庫の中から、子どもの声が聞こえる。
窓の隙間を塞ぐ人の影が動いていた。
リシェは町の向こうの灯りを見た。
「南側の設備には、まだ余力がある。連絡管を使いたい」
ダインが彼女を見る。
「途中が焼けると言った」
「上限を決めます。焼ける前に止めるために、両側で見ます」
彼は僕へ顔を向けた。
「その剣は?」
僕は鞘を押さえた。
町の結界は、魔王の魔力に合わせて作られたものではない。
「そのままでは、使えません」
リシェが答えた。
「形が違う。ここで合わせるには、部品も時間も足りない」
剣を持っていても、今すぐ何かを足せるわけではなかった。
ダインは、閉じた弁を見た。
その脇に、昼間用意した逃がしの石がある。
「少しだけだ」
彼が言った。
「町側まで落とすな」
*
町との連絡は、灯りを使った。
距離は遠くない。
でも川が間にあるので、声は届かなかった。
昼のうちに決めていた合図を、何度も確認した。
送る。止める。異常。
分からなければ止める。
向こう岸には、設備係の女性がいた。
こちらでリシェが数字を読み、僕が合図を出す。
ダインは途中の細い接続部を見張った。
古い管は橋の下ではなく、川底の石組みを通っていた。
人が渡る道とは別だった。
まだ無事なその一本が、今は頼りだった。
僕は灯りを上げた。
向こうから、返事がある。
リシェが弁へ手を置く。
「開ける」
ほんの少しだった。
目盛りは、すぐには動かない。
ミルカの温室を思い出した。
遅れて来る。
動かないからといって、開けすぎない。
僕たちは待った。
倉庫の屋根を雨が叩いている。
その音が大きすぎて、時間が伸びたように感じた。
やがて、測定棒の欠片が光った。
「来た」
リシェが言った。
入口の結界が、少し明るくなる。
壁際の低い唸りが、途切れず続くようになった。
僕は安堵しかけた。
リシェは目盛りを見続けていた。
「まだ、増やさない」
*
しばらくは、うまくいった。
町側の残量が急に落ちることもなく、避難所の結界は保たれた。
倉庫の中では濡れた服を替え、毛布を回している。
僕は灯りの見える場所から動かなかった。
腕が疲れてきたので、柱に肘を預ける。
この夜、剣を抜く仕事はなかった。
だからといって、役目が軽いわけではない。
見間違えれば、向こうは開けてはいけない弁を開ける。
遅れれば、止める合図が届かない。
僕は何度も、灯りの数を確かめた。
ダインが接続部に手をかざした。
直接触れず、熱を見ている。
「温まってきた」
リシェが数字を書く。
「増え方は?」
「速くはない。だが、上がってる」
彼女が少しだけ弁を戻した。
結界の光も、わずかに弱まる。
外へ押し返す力を減らせば、内側が危険になる。
多く通せば、管が傷む。
どちらかを最大にすれば済む話ではなかった。
「これで、持つ?」
僕が尋ねると、リシェは答えた。
「見続ける」
それ以上の約束はしなかった。
*
夜半、川の橋が落ちた。
大きな音がした。
僕は反射的にそちらを見た。
暗闇の中で、吊っていた灯りが傾いた。
それから、水の音へ消えた。
息を呑んだ。
ダインが僕の肩を掴む。
「そっちじゃない。合図を見ろ」
僕は向こう岸へ顔を戻した。
町側から異常の合図が出ていた。
「止めて!」
リシェが弁を閉じる。
光が細くなり、消えた。
向こうも閉じた。
返事が来るまで、僕は灯りを下ろさなかった。
川底の管が傷んだのかと思った。
けれど、違った。
町側では、別の区画の結界が弱まり、そちらへ急に負荷が寄ったのだという。
合図のあと、声を通すために岸へ寄った人が、雨の弱まった瞬間に叫んで教えてくれた。
リシェは目を閉じ、すぐに開いた。
「町側が戻るまで、待つ」
「こっちの残りは」
僕が尋ねる。
「短い。でも、ここで奪ったら、向こうも危なくなる」
倉庫の中で、誰かが扉を叩いた。
結界が弱くなり、冷たい空気が入り始めていた。
僕は中へ声をかけた。
「窓から離れて。中央へ集まってください」
怖いからといって、大丈夫とは言わなかった。
今してほしいことだけを伝えた。
リシェは逃がしの石を外し、蓄えの残る小さな予備石へつなぎ替えた。
倉庫の入口だけ、薄い光が戻る。
時間を稼ぐための量だった。
僕は向こう岸を見た。
灯りは、まだ動かなかった。
*
再開の合図が来たのは、予備石の光が半分ほどになったころだった。
今度は、前より少ない量にした。
雨の向こうで町側の見張りが頷いたのか、灯りがわずかに下がる。
再び、細い力が届く。
倉庫の中から安堵の声がした。
僕は声を出せなかった。
ダインが接続部を見ていた。
顔が険しい。
「ここまでだ」
彼が言った。
「これ以上、長くは通せん」
細い管の継ぎ目に、赤い点が見えた。
濡れた石の上で、その部分だけが乾いている。
「あと、どれくらい」
リシェが尋ねる。
「分からん。だから、終わる準備をしろ」
彼は工具箱を開いた。
昼間、用意していた切り離しの刃を取り出す。
僕は立ち位置を変えた。
異常の合図を、すぐに送れるように。
リシェは外の観測値を見た。
「負荷が、下がり始めてる」
空はまだ暗かった。
でも、風の音が少し変わっていた。
今すぐ切れば、倉庫の薄い予備だけでしのぐことになる。
長く待てば、壊れたところから町側へ影響が出るかもしれない。
リシェは、接続部と目盛りを交互に見た。
何度も。
ダインが声を上げた。
「もう切る!」
「はい」
彼女が答えた。
迷いは見えた。でも、止めなかった。
僕が合図を送る。
リシェが弁を閉じる。
ダインが切り離しの部品を落とした。
白い火花が散った。
接続部の一部が焼け、地面に小さな煙が上がる。
僕は外套で顔を覆った。
倉庫の光が弱まった。
向こう岸の灯りは、消えなかった。
*
最後の一刻は、長かった。
町からの供給は止めた。
残った予備石で入口を守り、窓の隙間をさらに塞いだ。
人々は中央へ寄り、毛布を重ねた。
寒さに泣く子がいた。
誰かが、小さな声で歌った。
僕は戸の前に座った。
隙間から入る風を、身体と板で遮る。
リシェは少し離れた場所で、目盛りを見ていた。
ダインは焼けた接続部を桶へ入れた。
何度も、朝の光が来た気がした。
そのたびに、まだ暗いと分かった。
やがて、本当に空が白くなった。
リシェが外の測定棒を見た。
肩から、力が抜ける。
「下がった」
彼女はもう一度測った。
それから、倉庫の中へ顔を向けた。
「風が弱くなっています。まだ、外へは出ないで」
言葉を聞いて、人々の背中が少しずつ緩んだ。
僕は板から手を離した。
掌に、木の棘が刺さっていた。
*
朝、全員の無事を確かめた。
町側にも大きな人的被害はなかった。
橋が落ちたので、行き来は遠回りになったが、川が落ち着けば浅い場所を使えるという。
リシェは焼けた部品を見つめていた。
「つなげた」
僕が言った。
「一晩だけ」
彼女はそう答えた。
喜んでよいのか、失敗と呼ぶべきなのか、決められないようだった。
ダインが隣へ座った。
「一晩、必要だった」
彼が言った。
「それは、足りた」
リシェが顔を上げる。
「だが、同じことを毎日やるな。今夜もう一度と言われても、これは使えん」
焼けた部品を指さす。
彼女は頷いた。
「記録します。何が通って、どこが熱くなったか。途中で止めたことも」
「成功したところだけ書くなよ」
「書きません」
ダインは立ち上がった。
リシェの謝罪の紙には、まだ何も答えていなかった。
それでも昨夜、二人は何度も同じ目盛りを見た。
同じ合図で、同じ弁を閉じた。
僕はそのことを、忘れたくなかった。
*
片づけの途中、ダインが古い金具を持ってきた。
今使ったものより、ずっと複雑だった。
中心に小さな歯車があり、両側の圧力で動くように見える。
「こんな調整器の図を、前に見たことがある」
彼は言った。
「軍の倉庫から回収した荷の中に、部品だけ入ってた」
リシェが受け取る。
「どこで作ったものですか」
「北東の研究施設。まだ戦争が激しくなる前、そっちから材料の注文が来てた」
彼は荷札の写しを見せた。
砦で写した図の端にも、同じ施設名があった。
軍用の中継路とは別に、細い線でつながっている場所。
「今も残ってるかは知らん」
ダインが言った。
「だが、何度も管を焼くよりは、調べた方がいい」
リシェは金具を両手で持った。
僕たちは、昨夜、一本の橋を失った。
もう一本の、目に見えない橋も、夜明け前に切れた。
それでも、向こうからこちらへ、確かに力は届いた。
彼女は焼けた部品と、古い調整器を並べて包んだ。
次に何を確かめるべきか、今度は少しだけ分かっていた。




