第6話 施しでは続かない
最初の試作パンは、底だけが黒くなった。
ルイーゼは焼き上がりをひっくり返し、爪で底をたたいた。乾いた音が台所に響く。院の調理職員が申し訳なさそうに火箸を置いたが、ルイーゼは首を振った。
「普段の鍋と同じ火なら、そりゃ焦げるよ。窯の癖を見ないで入れた私も悪い。もう一回、量を半分にしてみよう」
窓際で原価を書いていたリディアは、使った薪を数え直した。粉、酵母、薪、包み紙。どれも、寄付で済ませる前提にはできなかった。
東のパン屋には、朝食用の小さなパンを定期的に納める仕事があった。店の窯だけでは量を焼き切れない。院の台所を使い、院の成人職員が仕込みと焼成を担い、ルイーゼが品質の確認に来る。そういう契約を検討していた。
問題は、院の職員がすでに忙しいことだった。
「朝を早くすれば、どうにか」
職員の言葉を、リディアは途中で止めた。
「早くした分、休む時間も決めたいです。毎日寝る時間が減る計算なら、続きません」
マルタが、自分の担当表を出した。洗濯の受付を昼へ移し、製パンの日にはマルタが院の朝食を受け持つ。追加の作業分は賃金に載せる。売上からそれを引いたあと、院に何が残るかを計算し直した。
二度目の試作は焼けたが、今度は院の朝食が遅れた。売る分を先に包んだためだった。空腹のピノが台所の入り口に座り込み、職員が慌ててパンを一つ渡そうとした。
「それ、売る分ですよね。今日は私の試作の扱いにしてください」
ルイーゼは帳面へ一つ書き足した。食べた子に代金を負わせるのではなく、試すためにかかった費用として記す。リディアは、売る仕事を増やした結果、ここで食べる時間が追いやられていると気づいた。
翌日から、院の朝食を先に仕込み、そのあとに納品分を焼く順へ変えた。受取に来る荷車の時刻も、店主に相談して少し遅らせてもらった。紙では隣り合っていた二つの仕事が、同じ台所に置くとぶつかる。リディアは予定表の時刻を消し、実際に終わった時刻を書いた。
ルイーゼの指導にも代金をつけた。彼女が、恩返しだから最初の分はいいと言ったとき、リディアは少し迷った。
「一回目の試作を手伝ってもらったことには、甘えたいです。でも、毎週来てもらう分まで、それを当てにしたくありません」
「ヴェラさんにも、そう言えたらよかったな」
ルイーゼは、焦げたパンを細かく割った。食べられる部分を分けながら言う。
「あの人、無理をするときだけは他人も自分も同じに扱うから。私に厳しいのか、自分が休めないのか、分からなくなるんだよ」
マルタが小さく息をついた。その言葉は、台所にいる大人三人の誰にとっても、よその話ではなかった。
◯
午後は役所から、養育助成の担当者が来た。
院には以前から申請資格があった。しかし叔母は、審査で子どもの事情を詳しく求められることを嫌がり、途中でやめていた。マルタは、かつて寄付者に子どもを並ばせた件が、叔母を神経質にしたのかもしれないと話した。
「必要なのは、人数、年齢、養育と就学の状況です。全ての来歴を、公開する書類へ書く必要はありません」
担当者は、提出先と公開の範囲を分けて説明した。ノアが廊下で耳を澄ませていたので、リディアは彼も呼び、自分の情報がどこへ渡るか質問できるようにした。
「名前は、町じゅうに出る?」
「出ません。私たちが確認する名簿と、外へ公表する運営報告は別です」
ノアは担当者の持つ二種類の紙を見比べた。リディアが同じことを説明するより、納得できた様子だった。
審査では、寝室の人数、避難のための出口、厨房の使い方、職員の休み、学校へ通っている記録を確認するという。月の助成は、十二人なら銀貨二十四枚。認定されてからの支給で、今日その金を受け取れるわけではなかった。
「階段の手すりの留め具を、一か所直してください。あと、洗濯の仕事と食事の準備は、道具を分けて置くように」
担当者の指摘を、マルタが書き取った。リディアは、その紙を月次収支の横に置いた。助成は都合よく現れた贈り物ではない。受け取るために、院が続けなければならないことがある。
夕方、ノアが木槌を持ってきた。
「手すり、僕が直す」
「明日、大工さんに頼んだわ。緩んでいるところを調べてもらうから」
「でも、僕もできるよ」
リディアは一度、道具を受け取りかけてやめた。何もするなと言われたいのではないのだろう。自分の住む家に手を出すことまで、取り上げる必要はない。
「大工さんが来たとき、一緒に見ていいか聞いてみましょう。どう直すのか、知りたい?」
ノアはうなずいた。それから、木槌を机へ置いた。
「パンを運ぶのも、毎日じゃなければやりたい。朝、学校に間に合わなくなるのは嫌だ」
「運ぶ仕事は、大人と契約する。あなたが休むと回らなくなる形にはしないわ。休みの日に見に行きたいなら、別に相談しましょう」
ノアは少し不満そうだったが、今度は袋に荷物を詰めには行かなかった。
◯
四日かけた試作と見積もりのあと、リディアは卓に三つの数字を書いた。
今ある収入は五十六枚。製パンの仕事からは、材料や追加の賃金を払ったあとに二十八枚が残る見込みだった。養育助成の二十四枚を合わせれば、百八枚になる。毎月の支出九十六枚を払っても、十二枚を残せる。
「全部、予定です。契約に署名してもらうことと、助成の認定が先です」
自分へ念を押すように、リディアは二つの数字を丸で囲んだ。
マルタは、収支より担当表の方を長く見ていた。
「私が全部抱えたままでは、ヴェラさんがいなくなったときと同じになりますね」
「私も、会計だけでも一人で分かっていればいいと思っていました。これからは毎月、一緒に見てもらいたいです」
「ええ。数字の読み方を、教えてください」
リディアはうなずき、欄の見出しから説明した。マルタが質問するたび、当たり前だと思っていた書き方を直した。自分だけが読める帳簿を残すなら、叔母の箱を増やすだけかもしれなかった。
バザーの案内もできあがった。現在争っている借金の支払いと、運転資金を確保するための催しと明記した。月々の運営は別の収入で賄う計画を載せ、子どもの来歴は一行も使わなかった。
サラが案内をのぞき込んだ。
「あたしたちの絵は、貼ってもいい?」
「描いた人がよければ。名前はどうしたい?」
「絵には名前を書きたい。自分で描いたって分かるから」
リディアは余白を一つ空けた。名前を伏せることも、出すことも、まず持ち主に尋ねる。その小さな手順は、書類を作るより簡単で、油断するとすぐ抜け落ちた。
夜、役所から封書が届いた。
照会した西三の倉庫は、ベルト商会が借りていた。問題の木材が運ばれた日にも、借主は変わっていなかったという。
同じ日に届いた父の返事には、『一度だけなら話す』とあった。
リディアは二通を並べ、父と会う日を暦に記した。製パンの担当表も、脇へ片づけずに残しておいた。どんな話を聞くことになっても、翌朝のパンを焼く人は必要だった。




