第5話 消されていた八百枚
ベルト商会の応接室には、汚れた椅子が一脚もなかった。
リディアは膝の上へ鞄を置き、払込控えの写しを卓に並べた。院の椅子なら、足が一本だけ短いものには折った紙を挟む。ここではそんな心配をせずに済むのに、体の置き場所が落ち着かなかった。
「こちらの八百枚について、充当先を確認したいんです」
ベルトは写しの端をそろえた。
「ヴェラさんとは、長いお付き合いでした。別のお取引もありましたからね」
「それでは、別のお取引の契約番号を教えてください」
「すぐに分かるものばかりではありません」
「この控えには灯七とあります。院の担保物件番号です」
「便宜上の記載かもしれません。振り込んだ人がそう書いたからといって、当方の帳簿まで同じとは限りませんよ」
言葉は柔らかかった。リディアは反論の代わりに、持参した申請書を出した。取引ごとの受領と、その金を何へ充てたかを書面で示してほしいと記してある。
ベルトは目を通し、払込控えの原本を預かりたいと言った。
「原本は持ち帰ります。確認が必要なら、役所で双方立会いのもとでお見せします」
「私を信用していただけないようですね」
「この書類が、今の私の仕事の根拠なので」
声が震えなかったことに、自分で驚いた。父の店にいた頃は、商会の人に何か言われれば、父へ取り次いでいた。今日は、その先に立つ人がいない。
ベルトは申請書へ受領の日付を入れた。リディアはその写しも鞄へ戻した。
◯
取引組合では、半日待たされた。
書庫の担当者が別の場所へ行っているという。リディアは苛立ちながら椅子へ座りかけ、受付の紙へ自分が求める内容を詳しく書き足した。ただ入金があったかでは足りない。誰の口座から、誰へ、何の番号で送ったか。元金と利息の内訳を区別できるか。
待つ間、パン屋で買った小さな丸パンを食べた。袋を開くと焼いた麦の匂いがした。ルイーゼからもらったものではない。代金を払った袋を見て、あの人もこんなふうに毎日仕事を続けてきたのだと思った。
戻ってきた担当者は、証明書を確かめ、厚い取引簿を運んできた。
「振り込みの指定は、こちらですね。灯七の契約番号も付いています。元金二百、これは四回」
リディアは一行ずつ日付を指した。叔母の控えと一致した。
「受け取った側が、返済の内訳を出した記録もありますか」
「組合を通した分は残ります。受領が確定したところまでしか、証明は出せませんが」
別の紙に、ベルト商会が返した通知が綴られていた。四回の入金はいずれも、灯七の元金へ充当すると記されている。商会の署名と、印があった。
リディアは膝の上で、拳を握った。
叔母が払ったと主張する紙だけではなかった。受け取った商会も、当時は元金を受け取ったと認めていた。
利息の欄も確認した。期ごとに決められた金額が別払いされ、最終期の十枚を除いて受領済みになっている。少なくとも八百枚を、過去の利息だったと言い換える余地はなかった。
「認証した写しをお願いします。全部、契約番号が見える形で」
担当者はリディアが書き足した受付の紙を見た。
「最初に内訳まで聞いてくれて助かりました。入金の総額だけなら、一枚で済ませるところでしたから」
自分の質問で、出てくるものが変わる。リディアは書類ができるのを待ちながら、持ってきた帳面に請求額と返済額を書いた。
千二百十から八百を引くと、四百十。
まだ払えない。それでも、千二百十とは違った。
◯
翌日、商会から短い回答が届いた。古い帳簿を調べ、八百枚の返済が確認できたので請求を訂正する、とあった。なぜ最初に含めなかったかの説明はない。
マルタが椅子へ腰を下ろした。リディアは訂正書を読んでから、これだけで異議を取り下げてよいとは思わなかった。残る三百枚の木材が、まだ借りたことになっている。
叔母の束をもう一度調べると、回答を求めた照会状が出てきた。半年ほど前の日付で、咳がひどくなってからのものだとマルタが言った。
『指定資材の最終搬入先を確認したい』
相手は職人組合だった。欄外に、荷札の番号が小さく写されている。西三、二十六。返ってきた一度目の回答は、運送人の控えでは引渡済み、最終の保管場所は別途照会が必要という内容だった。
その先はなかった。
「叔母は、ここで調べるのをやめたんですね」
「歩くと息が切れるようになっていました。何か言っても、聞き流したこともあったと思います。私は薬を飲んでもらうことばかりで」
マルタは照会状に触れなかった。責められる前に弁解しているわけではなく、今になって分かる自分の知らなさを、確かめているようだった。
リディアは新しい紙を出した。叔母の文面をそのまま写す代わりに、荷札番号の受取場所を特定したい、と記した。明細にある品目と数量も添える。運送人がどこへ運んだかが分かれば、届いたことになっている理由を、もう一段先へたどれる。
エミールに相談すると、西側の倉庫には町有地に建つものがあると分かった。西三がその一つなら、貸し出した相手を記した台帳が役所に残る。
「返事はいつ来ますか」
「先方の照合次第です。債務の異議を先に提出しておけば、審査日まで追加資料を出せます。ただ、何かが見つかることを前提にしてはいけません」
リディアはうなずいた。四百十枚でも守る方法を考えながら、三百枚の根拠を調べる。願いだけで先の数字を小さくしない。
異議申立てに添える目録を書き、提出した資料の控えへ同じ番号を振った。父の印がある検収票も抜かなかった。
提出を終えると、いつもの代筆先から、締切を確かめる便りが届いていた。院のことへ時間を使えば、自分の仕事の時間は減る。リディアは、今夜全部片づければいいと思いかけ、まだ整理していない資料の束を見た。
叔母はこんなとき、どちらも自分で終わらせようとしたのだろうか。
リディアは依頼主へ、納品を二日延ばしてほしいと書いた。難しいなら一冊を別の書き手へ頼んでもらうこと、済んだ分だけ請求することも添えた。自分の収入を失うのは怖い。だが、相手が待てるかどうかも聞かず、守れない期限を約束する方が怖かった。
封をしてから、夕食前に手元へ残す仕事を二つに絞った。今夜は、提出した書類の目録を見直す。別の調査は明日に回す。机を離れるとき、少し後ろめたかった。それでも食堂へ行った。
夕食時、子どもたちには、請求の一部が間違っていて減ったことを話した。まだ家が守れると決まったわけではないことも伝えると、ノアは少し考えて尋ねた。
「じゃあ、今日は何か決めなくていい?」
「ええ。今日の話は、進んだことを知らせるため」
ノアはうなずき、冷めかけたスープに手を伸ばした。ピノが自分の豆を三つ数えたあと、その一つを兄の皿へ移そうとして、マルタに戻された。
笑い声の中で、リディアは空になった提出用封筒を折り畳んだ。八百枚が戻ってきたわけではない。それでも、正しく引かれた数字の分だけ、今夜は誰も荷物を詰めずに済んでいた。




