第4話 買われた子どもたち
パン屋の裏口は、表の店より二刻早く開いた。
リディアが訪ねると、ルイーゼは粉だらけの腕で扉を押さえた。髪を布で包み、片方の袖を肘までまくっている。
「話なら、生地を休ませてる間に。長い?」
「この書類についてです」
リディアは、古い借用書の写しを見せた。ルイーゼの視線が名前の上で止まった。彼女は扉を少しだけ閉め、通路に置いてある木箱を指した。
「そこへ座って。お茶は出せないけど」
リディアは腰を下ろした。暖かい空気と一緒に、窯の薪がはぜる音が届いた。
「叔母が、あなたの借金を買い取ったんですか」
「そう。十三年前、家が洪水で流れたあと、親方が衣食と道具代を立て替えてくれた。働いて返す約束だったんだけど、利息がつくから減らなくて。辞めたいと言っても、返してから出ていけって」
ルイーゼは借用書の隅を指した。
「この金額をヴェラさんが払って、相手を自分に替えたの。それで、私が出ていけるようにした」
「買って、放棄した……」
「証拠が要るなら、組合に当時の控えがあるよ。私たちも一枚ずつ持たされた。もう親方へ払わなくていいから、なくすなって」
リディアが知る噂では、叔母は子どもの借金にまで手を出す女だった。手を出したのは確かだった。ただ、何のためにそうしたかが抜け落ちていた。
「では、ずっと感謝して」
「してるよ。でも、あの人と一緒に働くのは御免だった」
ルイーゼの返事は早かった。
「一度寝坊したら、信用を一枚失ったと思いなさいって言われた。弟が熱を出して、夜中まで起きてたんだけどね。理由を聞くより先に、そう言う人だった」
リディアは、紙から手を離した。
叔母を誤解していたという発見が、つい今しがたまで胸を熱くしていた。その勢いで、目の前の人にも同じ気持ちになることを求めかけた。
「私、助けられたなら嫌な思いも消えるはずだって、言いそうになりました」
「消えるなら楽なんだけどね」
ルイーゼは笑い、窯をのぞいた。会話を続けたまま、二本のパンの位置を入れ替える。仕事の流れは、過去の話のために止まらなかった。
「あなた、姪御さん?」
「はい」
「そうか。目元が似てる。でも、今の話を嫌な顔で聞いて終わらなかったのは、違うところかもね」
ほめられたのか分からず、リディアは曖昧に頭を下げた。
帰り際、ルイーゼは表の店の値札を直した。焼けたばかりのパンは、夕方の売れ残りとは違う値段で並んでいた。
そこへ、荷物を背負った年配の男が来た。リディアがヴェラの姪だと知ると、代金を置く手を止めた。
「あの人は、うちの織機を持っていったよ。待ってくれと頼んだんだがな」
ルイーゼが口を開きかけたが、男は責めるでもなく続けた。返せなかった借金の担保で、契約どおりではあった。工房を畳んだあと、今は別の家の織機を借りて働いているという。
「子どもを助けてたと聞いても、そうかいとしか言えん。うちにも、もう少し時間があればと思うから」
リディアは、叔母も院の金が足りなかったのかもしれない、と言いかけた。だが、その事情は目の前の男が織機を失った日に届いていない。今になって自分が説明すれば、何が返せるのだろう。
「教えてくださって、ありがとうございます」
それ以上は言えなかった。男はパンを鞄に入れ、会釈をして出ていった。
ルイーゼは戸口を見送り、値札の位置を直した。
「あの人の話も、嘘じゃないよ」
「はい」
リディアは、叔母の善行を知った勢いだけで、他人の記憶へ答えをつけずに済んだことに、少し遅れて息をついた。
「院には、いつも分けてくださっているそうですね」
「持って帰れる余りがある日だけ。店の品を、勝手にただにはできないから」
そう言われ、リディアは礼を述べたあと、値札をもう一度見た。
「この辺りに、朝食用のパンを卸す仕事はありますか。院の台所を使って、大人が働けるものを考えていて」
ルイーゼは、そこで初めて手を止めた。
「余りをもらう話じゃなく?」
「はい。材料も、働く人への支払いも計算したうえで」
「だったら、店主に聞いてみる。うちは窯が足りなくて、宿からの注文を一つ断ったところなの」
◯
父の住まいへ送った手紙は、開封されて戻ってきた。
封筒の裏に短く、『あの女の後始末には関わるな』とあった。検収票のことには触れていなかった。
リディアはその紙を机へ置き、何度も向きを変えた。父に直接会いに行けば、まだ笑って話せるだろうか。店の戸締まりを手伝い、売れ残った菓子を二人で分けた夜を思い出すと、検収票の朱印が急に遠く感じられた。
だが、遠く感じることと、紙から消えることは違った。
会いたい、という短い返事を書いた。今度は叔母への評価を書かず、何日の荷物を誰が受け取ったか知りたい、とだけ記した。
食堂では、寄付を集めるための案をマルタと話し合った。建物の危機を知らせ、近所の人に来てもらう。物品と食べ物を売る催しなら、一度に大きな寄付を頼むより参加しやすいかもしれない。
「院の暮らしを紹介する文章も、あるとよさそうですね」
リディアが紙に見出しを書くと、脇で裁縫をしていたノアが顔を上げた。
「僕たち、並ぶんですか」
「何に?」
「お客さんの前。かわいそうな子を助けてくださいって」
マルタの針が止まった。
以前、叔母は寄付者へ院を紹介するため、子どもたちを食堂に並ばせたという。何を答えるかも、どこまで話したいかも聞かず、生い立ちを説明してしまった。叔母の意図は分かっていた。それでも、夕食のあと泣いた子がいた。
「その次からは、見学も先に私と相談することになりました。ヴェラさんも、名前を出す書類を分けるようになって」
マルタは丁寧に話したが、出来事を小さくしようとはしなかった。
リディアは、書きかけの見出しを裏返した。『この子たちのために』という言葉は簡単に書ける。そのあとで、この子たちが何を嫌がるかを尋ねるつもりがあっただろうか。
「並ばなくていい。誰がここへ来た理由も、本人が話したくないことは書かないわ」
「何も言わなかったら、買ってくれないんじゃ」
「何を売るかと、お金を何に使うかは説明する。それで、足りるように考えるのは私たちの仕事」
ノアは裁縫へ視線を戻した。けれど、しばらくしてから尋ねた。
「だったら、僕は席の案内をしてもいい? ずっと立たなくていいなら」
「したくなったら、マルタさんと相談して。途中でやめてもいいことにしましょう」
書き直した紙には、建物の修繕と運営の数字を載せる欄を作った。子どもの悲しい話のための欄は作らなかった。
夜、リディアはルイーゼの書類を戻しながら、叔母の文字を見つめた。請求を放棄、という一行は、確かに誰かを自由にした。信用を失った、という一言も、同じ口から出ていた。
悪女ではなかった、と言い切れば済むはずだったのに、知るほどに言葉が足りなくなる。
机の灯を近づけると、古い紙の上に自分の影が落ちた。リディアは借用書を影の外へ動かし、翌日、商会へ持っていく控えをそろえた。




