第2話 十二人分の食卓
翌朝、リディアは豆の匂いで目を覚ました。
借りた部屋の窓は庭に面していた。昨夜遅くまで見ていた帳面を閉じると、食堂から椅子を引く音が聞こえてきた。何脚もまとめて動かしているのかと思ったが、階段を下りてみると、子どもたちが自分の場所を作っているのだった。
「ここはピノ。そっちだと、窓が遠いから」
赤毛の女の子が、青い布を貼った小さな板を並べていた。マルタがサラだと紹介すると、女の子は挨拶をして、すぐに板の位置を直した。
年上の少年は、水差しを卓に置いてからリディアに椅子を譲った。
「僕は台所でいいです」
「ノア。お客さまの分は、もう一つ椅子を出せばいいでしょう」
マルタに言われ、少年は廊下から丸椅子を運んできた。十三歳だという。働き手に数えるには細い腕だったが、動くたびに次の仕事を探している。
朝食は煮豆とパンだった。豆を口に入れたリディアは、思わず匙を止めた。焦げてはいない。だが、豆の皮にわずかな苦みがある。
「苦いでしょう」
マルタが苦笑した。
「ヴェラさんのやり方で煮ると、こうなるんです。火を落とすのが遅くて。子どもたちは前から、もう少し薄くしてって」
「言っても聞かなかったんですか」
「聞いてはいました。次も同じになりましたけど」
サラが肩をすくめ、ノアが少し笑った。叔母にも料理を失敗する朝があったということが、リディアには意外だった。
自分の知る叔母は、いつでも間違いを指摘する側だった。十二歳の冬、小遣いを使い果たして楽譜を買えなかったときも、『欲しいものの勘定くらい、自分でなさい』と言った。母を亡くしたばかりのリディアが、なぜピアノにしがみついているかを尋ねることはなかった。
あの冷たい声と、薄い豆の汁を味見する姿を、うまく同じ人にできなかった。
◯
午前の授業で子どもが出払うと、リディアは食堂に領収書を広げた。
食費が月に銀貨四十八枚。成人職員二人の人件費が三十枚。燃料十二枚、修繕の積立六枚。合計九十六枚だった。マルタのほかに、調理と洗濯を担う職員が一人いる。洗濯の仕事は外から請け負い、材料や余分な燃料を引いたあと、月に二十四枚が院の収入になっていた。
「寄付は、毎月同じ方から?」
「はい。金額は三十二枚で、ここ一年は変わっていません」
合わせて五十六枚。支出との差は四十枚ある。
叔母は、足りない四十枚を毎月送っていた。それは借用書の返済とは別の支出だった。相続する家に金が残っていない理由が、少しずつ帳面に現れた。
院の金庫には、今月の運営に使う分がまだあった。叔母が最後に渡した四十枚と今月の収入から、何日に何を払うか、マルタが封筒を分けていた。使い道の決まったその金を、建物の返済に回すことはできない。リディアは院の運営金と、叔母個人の遺産の欄を分けた。
「パンを小さくするとか、まずそういう話になると思っていました」
マルタが食費の欄を見た。
「小さくすれば、数字は減りますね。でも、育つ子が食べる量まで帳面に合わせたら、別のところに無理が出ると思います」
リディアは、食費の内訳に卵と豆と麦を書き出した。節約できるものを探すにも、何を守るために払っているかを知る必要があった。合計だけを眺めていても、それは見えてこなかった。
「人件費を減らすのは、無理ですね」
「今でも、私たちが病気になったら困ります」
「食費も。十二人分ですから……」
言いかけて、リディアは計算を止めた。人数の欄に置いた指が動かなかった。別の院に何人か引き取ってもらえば、という考えが浮かんでいた。
悪い案とは限らない。安全な受入先があるなら、ここへ残ることだけが正解ではないだろう。それでも、まだ子どもたちの名前さえ半分も覚えていない自分が、真っ先に人数を減らそうとしていることが嫌だった。
「ほかの院の空き状況は、一応確認しましょう。ただ、移る話は、子どもたちにも事情を説明してからにしたいです」
マルタはうなずいた。何も考えなくていい、と慰めてはくれなかった。
午後、リディアが余白に収支を書き直していると、ノアが戻ってきた。手には、古い布の袋を持っていた。
「僕、出られます」
袋の口から、折り畳んだシャツが見えた。
「どうして、そんな話に」
「北の工房が、住み込みを探してます。僕が出たら、その分、食べるものが減るでしょう」
リディアは帳面の人数欄を手で隠した。ノアの視線がそこへ落ち、その動きの意味を知ったように戻ってきた。
聞かれていたのかもしれない。それとも、この少年は大人が言い出す前から考えていたのかもしれない。
「その工房で何をするの?」
「知らないけど。荷物とか」
「学校は」
「夜に、誰かに教われば」
言うたびに声が小さくなった。働きたいという話ではなかった。ここからいなくなれば役に立つと、そう考えたのだ。
リディアは隣の椅子を引いた。立ったまま諭す言葉を探すより、座ってほしかった。
「さっき、私も人数を減らすことを考えたの。あなたたちに何も聞かずに」
ノアは袋を握り直した。
「ごめんなさい。別の家へ移る必要があるかどうかも、まだ調べているところ。でも、食費を減らすために、あなたが学校をやめて出ていくことは求めません」
「絶対ここにいられる?」
即座にうなずきたい気持ちを、リディアはこらえた。約束したあとで守れなければ、今度は何を信じてもらえばいいのだろう。
「絶対とは、まだ言えない。でも、どうなるのかを隠したまま、勝手に送り出すことはしない。困っていることも、決まったことも、分かるように話す」
ノアは返事をせず、袋を椅子の下へ置いた。それだけでも、今はよかった。
廊下からサラが入ってきた。話を聞いていたらしく、両手で青い席札を持っている。
「これも、持ってっていい?」
「もちろん。でも、まだ引っ越しが決まったわけじゃないわ」
「なくなるの、椅子だけじゃないから」
サラはノアの隣に札を置いた。表には不揃いな字で名前が書かれ、裏には小さな窓の絵があった。
リディアは今朝、サラが席を直していた理由をようやく理解した。窓の光が当たる場所。水差しを回す順番。年下の子の皿に手を伸ばせる距離。移されるのは十二人という数字ではなく、そうしたものを持つ一人ずつだった。
「夕ご飯まで、ここに置いておいて」
札を返すと、サラは少し迷ってから、リディアの前にも白い板を置いた。
「字は、自分で書いて。あたし、その名前、まだ書けない」
◯
夕方、リディアは二冊目の帳面を開いた。
一冊には、建物の借金を記す。もう一冊には、来月からの暮らしを記す。仮に千二百十枚が消えても、月の不足四十枚が消えるわけではない。それを混ぜてしまえば、また誰か一人に穴を埋めてもらうことになる。
マルタが叔母の部屋から小箱を運んできた。古い契約書や入金控えが、年ごとの紐で束ねられている。
「一緒に、見ていただけますか。分からないことが多いと思いますが」
リディアは自分の席札を卓の中央から端へ寄せ、書類を置く場所を作った。
「私も全部は分かりません。だから、分からないものを先に分けましょう」
台所から、今日の豆は塩が薄すぎると職員が嘆く声がした。ピノが、それなら明日の分と半分にすればいいと言っている。
リディアは笑いかけて、箱の一番上の紐をほどいた。




