第1話 悪女の遺産
悪女の叔母が遺した借用書には、リディアの一年分の稼ぎを越える数字が書かれていた。
「銀貨、千二百枚」
「満期に支払う利息が十枚です。ですから、現時点の請求は千二百十枚ですね」
役所の記録係は、気の毒そうな顔をする前に数字を訂正した。リディアはその順序に少しだけ救われた。哀れまれると、もう払う義務が決まっているような気がする。
借用書の上には、叔母の名が細い字で記されていた。ヴェラ・フェルン。最後に会ったのは二年前、父の店の前だった。叔母は白い手袋を外し、何かを言いかけた。リディアは話を聞かなかった。
「私、借りていません」
「承知しています。あなたを相続人に指定した遺言と、建物に抵当があるため、お呼びしました。今日ここで、あなた個人の借金になるわけではありません」
記録係はエミールと名乗り、別の用紙を出した。机の角には使い込まれた吸い取り紙が置かれ、その一隅だけ新しかった。
遺産を受け取らず手続きから離れることもできる。財産目録を届け、遺産にあるものの範囲で債務を清算する方法もある。その場合でも、担保になった建物を残せるかどうかは別の問題だった。
「建物とは」
「北通りの、灯の家です」
名前には聞き覚えがなかった。リディアが首をかしげると、エミールは声を少し落とした。
「十二人の子どもが暮らす孤児院です」
叔母と孤児院。二つの言葉が、うまく結びつかなかった。
父によれば、叔母は人の弱みに値段をつける女だった。金を貸し、払えない相手の道具を取り上げ、とうとう実の兄まで役所へ訴えた。おかげで父の店は潰れ、リディアは今、商人たちの帳簿を一冊ずつ代筆して暮らしている。
「取り立てた家を、そのまま貸していたんでしょうか」
「私は記録で確認できることしか申し上げられません。所有者は、亡くなったヴェラさんです」
エミールは否定も同意もしなかった。リディアは借用書に目を戻し、左端の小さな穴を見つけた。二つ並んだ穴の周囲に、切れた糸が残っている。
「何か、外れています?」
「契約の一式は保管庫にもあります。これは商会から提出された請求用の写しです。内容を確かめるなら、綴られていた書類も取り寄せましょう」
借用書を見れば全部分かると思っていた。だが、机に載っている紙にさえ続きがあるらしい。
リディアはすぐに署名せず、先に建物を見たいと答えた。
◯
北通りの突き当たりにある家は、窓の数に比べて玄関が小さかった。門の片側だけ新しい板で補修され、庭には洗濯物が三本の綱にかかっていた。白いシャツの間を、膝に継ぎのある茶色いズボンが風に押されている。
呼び鈴を引く前に、玄関が開いた。
「リディアさんですね。マルタと申します。来てくださって、ありがとうございます」
院長の手には小麦粉がついていた。五十代ほどの女性で、髪をきちんとまとめているが、襟元の留め具が一つ違っていた。朝から何度も呼ばれた人の身なりに見えた。
廊下の奥で、皿が触れ合う音がした。こちらをのぞいた小さな男の子が、リディアの手荷物を見て引っ込む。
「叔母は、ここに住んでいたんですか」
「最後の半年は二階に。それまでは通っていました」
「半年も」
病気だったという知らせは受けていた。しかし父は、会いに行く必要はないと言った。叔母が亡くなったと知ったときも、リディアは次の帳簿の締切を気にしていた。
応接間は食堂と兼用だった。長い卓の椅子は形も高さも違う。壁に貼られた紙には、誰かが練習したらしい文字と、逆向きの数字があった。
リディアは卓の端に借用書を置いた。
「どこまで、ご存じですか」
「建物の借り入れがあることは。額は、詳しくは」
千二百十枚という数字を聞くと、マルタは椅子の背に手を置いた。腰を下ろしはしなかった。
「……そうですか」
「聞いていなかったんですか。これだけの借金をしていたのに」
「ヴェラさんは、私には暮らしの方を頼むとおっしゃっていました。私は、それでいいと思ってしまったんです」
言い訳に聞こえそうな言葉を、マルタは自分の落ち度として口にした。リディアは続けようとした非難を飲み込んだ。廊下では、先ほどの男の子が年上の子に靴下を直してもらっていた。
そこへ、門の音が重なった。
やってきた男は、黒い外套の肩に雨粒を載せていた。名乗られる前に、鞄の留め金に刻まれたベルト商会の印が見えた。
「相続人の方ですか。オットー・ベルトです。ご愁傷さまでした」
整った挨拶のあと、彼は卓に薄い封筒を置いた。
「満期は霜月一日。今日から三十日です。お支払いにならなければ、抵当の実行を申し立てます。念のため、建物を買い取りたいというお話も用意しています」
「ここにいる子どもは」
「引受先を探すのは院長のお仕事でしょう。私は契約に従うだけです」
買い取りの紙には、建物の値段と債務の相殺が記されていた。残る金はほとんどない。その下に、院の明け渡し時期を書く空欄があった。
リディアには払える金がない。それなのに、空欄へ数字を書くだけで、洗濯物も椅子も行き先を失うことが分かった。
「今日は署名しません」
「もちろん、よくお考えください。ただ、期限は変わりませんので」
ベルトは返事を急かさずに帰った。その落ち着きが、かえって残った。
封筒を片づけようとしたとき、卓の下で何かが動いた。小さな男の子が、豆を一粒拾っていた。
「ピノ。お客さまのお話のときは、向こうで待っていましょうね」
マルタに呼ばれた子は、握った豆を見せた。
「これ、まだ食べてないやつ」
拾ったものをどうするべきか、許しを待っているらしかった。マルタは捨てるように言い、代わりの一粒を台所へ取りに行った。リディアは借用書を、子どもの手の届かない鞄の中へしまった。
叔母は何を考えていたのだろう。
家を遺すつもりなら、借金のことも片づけておけばよかった。助けてほしいのなら、生きている間にそう言えばよかった。死んでから呼びつけるなんて、最後まで勝手な人だ。
怒りは消えなかった。それでも、すぐに帰るための言葉が見つからなかった。
「帳簿を見せてもらえますか。支出と、叔母のお金に関するものを全部」
マルタは顔を上げた。
「引き受けてくださるんですか」
「まだ決められません。私の持っているお金まで、何も分からず渡すことはできませんから」
そう断ってから、リディアは鞄を椅子の横へ置いた。
「ただ、三十日あるなら、何を遺されたのかは調べます」
夕方、役所へ戻って財産目録による清算の申請をした。自分の財産と遺産を混ぜないこと、期限までに正当な債務を確かめることを、エミールと一つずつ確認した。
エミールは、目録へ書くものを一つずつ挙げた。建物、残っている金、返すべきもの。名前も知らない品を、価値がないと決めつけて捨てないようにと念を押した。
「逆に、子どもたちの持ち物まで、叔母の遺産に数えなくていいんですね」
「所有者を確かめて分けてください。建物の中にあるからといって、全てが亡くなった方のものではありません」
リディアは目録の横に、確認する相手の欄を作った。帳簿の数字を移すだけなら得意だった。だが、この仕事では、誰に尋ねるべきかから考えなければならない。
帰りに買ったのは、帰路の切符ではなく、安い帳面と黒いインクだった。
院の玄関を開けると、ピノが、さっきの豆とは違う丸い石を持っていた。今度は食べない石だと説明され、リディアはそうねと答えた。大事なものを入れる箱だという小箱へ、それがしまわれるのを見届けた。




