#9
建物の屋上に出ても、風の出迎えはない。室内と変わらぬ空気が、白い粒子と共に漂っていた。しかし、変化しているものもあった。
「こいつは……」
地面に幾本も伸びた血痕に、アイヴィは思わず顔を顰めた。
「ここで戦った後、教会に連れて行かれたようですねぇ」
白んだ世界の先には、立派な教会が佇んでいた。聖都の大教会ほど規模も装飾もないが、清廉な趣は人々にとって身近な拠り所となっていたことだろう。
オルファたちは血の筋を追うように、教会へと向かう。
正面の礼拝場に繋がる建物の上部には、街全体に響き渡るであろう鐘が吊るされており、両脇には尖塔が建てられ、いくつもの飛梁が伸びていた。
扉と窓は全て閉められていたが、礼拝場の方から、何かを打ち付ける音が響いている。鍛冶や大工作業で鳴るような小気味良いものではなく、重量物が落ちた時のような、不安を煽る音だった。
「本当に、ろくな事になってなさそうだな」
「意外と何事もなく、お祈りだけして帰れたらよかったんですけどねぇ」
優れた聴力を持つ二人は、打ち付けた後にすり潰す音が続いていることに気づき、辟易とした。尤も、オルファにそれが聞こえたとしても、歩みを躊躇うことはない。
血の筋の集束点。教会の正面には両開きの木扉。
扉の上には教会の象徴たる聖印が描かれていた形跡はあるが、激しい劣化で形を読み取ることはできない。
だから、という訳ではないが、オルファは躊躇なく木扉を蹴破った。不信心極まりない行いだったが、礼拝場から溢れ出た腐臭が罪を上書きした。
高い天井。左右に並ぶ色硝子。長椅子が幾列も祭壇へ向かって整然と並ぶ。
そこまでは、普通の教会と変わらなかった。
違いがあるとすれば、長椅子に座り、祈ったまま動かなくなっている人影がいくつもあることだった。
磨かれた鉄鎧は傷つき、汚れ、今も武器に貫かれていた。
胸に、腹に、剣や槍が突き刺さり、身体を椅子に縫い止められている。
そして、全員、頭部を失っていた。
冒涜的光景。
アイヴィの喉が小さく鳴り、トゥルは広い袖口で鼻と口を覆う。オルファは黙って目の前に広がる惨状と、その先を観察していた。
礼拝場の最奥には一体の女神像が立っていた。
片手に開かれた本を持ち、静かに下界を見下ろしている。その柔らかな面差しは、人を安心させる穏やかさを湛えていた。
オルファは、どこかで見覚えがある気がしたが、それがどこなのかは思い出せなかった。それよりも注目すべきことがあった。
祭壇には銀の双弧花章があしらわれた外套が、大槍によって縫い付けられていた。その前で一人、膝を着き、輝く銀の鎧を血の色に染め、拳よりも二回りほど大きい岩を振り上げては叩き付けている者がいた。
血は既に乾いており、飛び散った脳漿があちこちにへばり付いている。振り下ろされた岩は、積み重なった毛髪を叩き、擦り、幾本かの毛髪が落ち、幾本かの毛髪が新たに付着した。
砕くものはもう残っていないにも関わらず、その者は機械的に同じ動作を続けていた。
まともでないことは一目瞭然だった。
オルファが礼拝場の床を一歩、踏みしめる。すると、祭壇前の人物は振り上げた岩を静かに下ろし、立ち上がった。
祭壇に突き立てた大槍を──否、その先の女神像を仰ぎ見ると、振り向き様に腰の直剣を抜き放った。
逆立てた金髪は光源の影響で白んで見え、瞳は虚ろな白色となっているが、その風貌に見覚えはあった。
祈誓騎士シダルタの虚人化。
三人が彼の名と共に最悪の状況を脳裏に浮かべた瞬間、床石の砕ける音と共にシダルタは突進した。
オルファも同時に床石を蹴ったが、一歩進んだ所で直剣が振り下ろされた。
業断ちを構え、受けると、地下空間中に響き渡るほどの剣戟音が鳴った。
重くはない。が、弾き返す間もなく次の一撃が横から迫っていた。
業断ちを振り抜き、直剣を弾く。その筈だったが、次の瞬間には直剣が突き下ろされていた。
オルファは片手を振り上げ、手甲で直剣の腹を叩いて軌道を逸らす。そのまま体重を移動し、業断ちを振り下ろした。剣身の軌道にシダルタは捉えていた。けれど、業断ちはシダルタの体に沿うようにして流されてしまう。力を加えられた手応えはない。
何故か。
考える暇はない。
切っ先が喉元を狙っていた。
「──っ!」
身を、首を捩り、体内の空気が絞り出される。直剣の切っ先が、刃が、鉄兜を擦り、通り過ぎて行く。
首の直ぐ横で剣身が光る。
首を狙って振られことは明白だ。もし、鉄兜で刃を防げたとしても、首へ強い衝撃は逃れられない。
オルファは刺し違える覚悟で業断ちを突き出した。
しかし、直剣は振り下ろされず、業断ちは空を突いた。
代わりに響く金属音。
「ぐっ……なんて速さだ!」
シダルタは横合いから迫っていたアイヴィの気配に気づき、突き出された短剣を弾き落としていた。
アイヴィが次の攻撃に備えるより早く、直剣が振り上げられる。なめし革と樹脂の鎧を容易く斬り裂き、遅れて鮮血が散った。
「アイヴィ!」
トゥルの悲鳴にも似た叫び。だが、当の本人は寸での所で飛退いて致命傷を避けており、次の攻撃への備えは──獣の爪は既に左の掌に握られていた。
シダルタが跳びかかる。
意識を完全に落とし込む時間は無いが、一部だけ、一瞬だけ力を借りるだけなら、一拍あれば十分だった。
脳裏に呼び起こすは森の友。
手足を伸ばすだけで低木を薙ぎ倒し、伸びた爪は歩くだけで地面を掘り起こす。
獣化の巫術。
アイヴィが左腕を振るうと、腕は何倍にも膨れ上がり、黒毛を纏った大熊の手に変化した。
大熊の手は直剣ごとシダルタの体を捉える。
吹き飛ばされたシダルタは長椅子を破壊してなお勢いが止まらず、壁に激しく叩き付けられた。
「行け!」
アイヴィは血が滴り落ちる左腕を抑えながら叫んだ。その声をオルファは背中に受け、業断ちを振り上げる。
しかし、振り下ろされた業断ちは、跳びかかるようにして突き出された直剣に弾かれてしまう。
直前に壁にひびを作るほどの衝撃を受けていながら、速度も技量も衰えは見せない。
一撃。
二撃。
三撃。
斬り結んだところで遅れが出る。
狙いは素直で、弾けはする。だが、少しずつ次が追い付かなくなっていく。
心臓を狙った鋭い突き。オルファは避けない。
シダルタは突きの構えで静止した。
オルファの背から刃は出ず、血も落ちていない。
直剣の切っ先は鎧の目の前で止まり、その腹はオルファの左手によって掴まれていた。
業断ちが振り上げた瞬間、左手に伝わっていた力が抜けたことでつんのめる。
振りが甘くなった業断ちの一撃を抜け、シダルタは拳を見舞うと、続く回し蹴りでオルファを吹き飛ばした。
短い呻き声を上げ、長椅子を破砕して倒れ込む。
宙を舞った直剣をシダルタが跳んで掴むと、そのままオルファ目掛けて振り下ろす。
二人の間に、黒羽の風切羽が舞った。
「解・招禍!」
黒羽の風切羽がシダルタの鎧を撫でる。
違和感は両手に現れた。
小刻みな震え。しかし、シダルタは意に介せず、オルファに攻撃を叩き込み──
──剣身が外れた。
激しい剣戟で留め具が外れたのか。否、それこそがトゥルの招いた禍であった。
武器を失い、動きを止めたシダルタの体を蹴り飛ばし、オルファは立ち上がる。そのまま業断ちを振り被るが、剣身は虚空を断った。
シダルタはトゥルに向かって駆け出しており、途中で死体に突き刺さっていた曲剣を抜いた。
「仕方ありませんねぇ」
これまでの戦いを見て、シダルタの連撃を躱し切ることは不可能だと察すると、床に確と足を着け、外套に隠れた腰から小太刀を抜き放った。
逆手に握られた小太刀は、速度を増した剣筋を尽く逸らしていく。
横薙ぎ。
弾く。
袈裟。
逸らす。
逆袈裟。
逸らす。
斬り上げ。
逸らす。
お互い無駄のない、最小限の動作での攻防。押しも押されもせぬ剣戟。その中で、トゥルは僅かな隙を縫うようにアイヴィを流し見た。
アイヴィの手には既に蔓から放射状に無数に広がる細い根が握られていた。
瞼を閉じ、意識を戦場から触媒に移す。
己は蔓。
細い根を地中全体に巡らせる。
深く潜らせるわけではなく、地表付近に広く、広く。
どこまでも伸びていけ。
開眼。
一際強い鉄を打つ音と共に、トゥルはシダルタから距離を取った。だが、撤退を許す筈がない。跳びかかるため、瞬時に足裏へ力を込めた。その時、地面を張って出現した根が、シダルタの足に絡み付き、脛、膝へと伸びて行った。
蔓は曲剣で容易く切断され、足を振り上げれば蹴散らされる。
足止めとしては二手にも満たない、僅かな時間。
十分すぎた。
オルファは石床を強く蹴り、最速、最短、最大の一撃を放った。
回避はできず、差し込まれた曲剣ごと、胴を振り抜く。
血濡れた銀の鎧がひび割れ、折れた曲剣と破片を散らし、シダルタの体は祭壇まで吹き飛ばされた。
轟音を立てて石の祭壇が粉砕し、突き刺さっていた大槍と外套が宙に舞った。
瓦礫と共に横たわるシダルタの傍らに大槍が落ち、外套が静かに彼の身を覆う。
引き裂かれた銀の双弧花章の先で、女神の微笑みが彼を見下ろしていた。
「はぁっ……」
オルファが大きく息を吐き、肩を上下させたのを見て、アイヴィが駆け寄る。
「おい、近くに寄れ」
トゥルを呼びながら、アイヴィは淡い紅色の小花がいくつも重なった触媒を手に取る。
瞼を閉じ、意識を触媒に移す。
野原を撫でる風に揺れる、鋸歯の葉。
薄い紅色の小花が幾重にも寄り添い合っている。
青く澄んだ香りに微かな甘さを混ぜ、
風に乗ってどこまでも、どこまでも、飛んで行け。
開眼。
三人を包み込みように、微かな甘さを含んだ、青く澄んだ香りが舞った。
即座に体力が回復するわけでも、たちどころに活力が湧き上がるわけでもない。
自己治癒能力を高め、小さな傷を塞ぎ、野原の香りで気分が晴れる。
触媒に使用し枯れ落ちた花を、アイヴィは雑嚢に仕舞った。
「ン~……久しぶりの外の空気!」
小太刀を鞘に戻し、思い切り体を伸ばすトゥル。
「お二人は怪我、大丈夫ですか?」
「ボクは……まぁ、血は止まっている」
左腕にはシューガに使ったものと同じ軟膏が塗られていた。
「……まだだ」
それはトゥルへの返答ではない。
オルファの視線はじっと、祭壇があった場所に向けられていた。
シダルタの指が小さく動く。
反射的にオルファは走り出し、業断ちを振り上げる。次の一撃で確実に業を断つために、握る手に力を籠める。
倒れたままのシダルタの手が、大槍に届き、確かめるように柄を撫でた後、強く握りしめた。
瞬間──
「なんです!?」
「光が……?」
──周囲を漂い、照らしていた白い粒子がシダルタに吸い込まれていく。
何が起きようと、オルファのやることは変わらない。
明るさを失いかける直前、業断ちを振り下ろす。
手応えはない。直前の視覚情報を思い出す限り、避けられたとは思えない。シダルタは横たわったまま、集束した光を抱いていた。立ち上がることも、大槍で防ぐこともしなかった。
断つべき業を見失い、そして世界は、暗黒に塗り潰された。




