#10
穏やかな陽光が満ちた日だった。
埃一つ舞わない、主の潔浄を具現化したような部屋。石床には光沢のある黄色の絨毯が長く引かれ、最奥には天蓋が引かれていた。
天蓋の奥には椅子に座った人影。幕を挟んで一人の老いた修道女が立っており、跪いている騎士を見下ろしていた。
「祈誓騎士シダルタ」
澄み切った、微かな揺らぎもない声が天蓋の奥から届く。
「ただ善良でありなさい。それが万事の為となります」
言葉はシダルタの体を、心を包み込んだ。それは、赤子の頃、母親の腕に抱かれた時の安心感と良く似ていた。記憶は無いが、確かにそう感じた。
§
暗黒に塗り潰された世界で、集束した白い粒子が音も無く膨れ上がり、大きく弾け、奔流となって世界を満たし始めた。
誰も彼も目を開けてはいられず、瞼をきつく閉じ、両腕で覆う。
「何だ、これは!?」
アイヴィの声は震えていた。理屈が追いつかない。目の前で起きている現象を、自身の知識のどこへ当て嵌めても答えが見つからない。
「知りませんよ!」
トゥルは薄目を開けようとして、直ぐにきつく閉じ直した。少しでも白い光を直視すれば、視覚が奪われると本能的に悟ったからだ。
オルファとて例外ではなく、業断ちを落とさぬよう両手を交差させ、白い光の奔流を耐えている。
§
開いた本を手にした女神像の前で、黒い外套に身を包んだ者たちが祈りを捧げていた。
「コトバ読みの巫女に祝福を!」
「世界に真実を!」
「古き闇の復活を!」
普段のシダルタならば世迷言と切り捨てていただろうが、地下書庫で見た書物の内容が判断を鈍らせていた。
仲間の教会騎士が抜剣するのを静止し、邪教者たちへ歩み寄る。
「ただ善良でありなさい」かつて与えられた警句が脳で、心で木霊する。
祭壇の前まで来ると、シダルタは女神像の顔を詳細に見て取れた。
片手に開かれた本を持ち、静かに下界を見下ろしている。その柔らかな面差しは、人を安心させる穏やかさを湛えていた。
これほど慈しみを持ち、愛情深い存在が、ひた隠しにされて良いのか。共に歩いた者を奪われ、世界の為の贄にされる。
そのような世界の為に祈りを捧げ続けたわけでは、祈誓騎士となったわけでは、善良であったわけでは、断じてない。
シダルタの瞳が虚ろに染まる。
§
白い光の奔流が治まると、シダルタの身体が、ゆっくりと立ち上がった。
骨が軋み、肉と共に膨張し、銀の鎧との境界を溶かす。
胸甲は肋骨のように脈打ち、肩当は肩そのものとなり、手甲は腕へ食い込んで一体化した。
筋骨だけが膨らんでいるのではない。存在そのものが、一回り、二回りと大きくなっていく。
やがて、元の倍近い巨躯となると、静かに首を持ち上げ、感情の無い虚ろな目でオルファ達を睥睨していた。
だが、変化はそこで終わりではなかった。
背後に幾筋もの光が集い始める。
一つ。
また一つ。
幾重もの光が重なると、やがて円環が完成する。
光輪の中央には小さな点が、まるで瞳のように浮かんでいた。
明悟者シダルタの誕生。
オルファ達が目を開けると、そこは漂白された世界だった。
教会の天井も、窓も、女神像も、頭の無い死体も存在しない世界。
「フ……フフ……。随分な冒険ですこと」
「笑えてないぞ」
二人の頬を汗が伝い落ちる。足は無意識の内に、半歩後ろに下がった。
どうにか平静を保とうと息を吸うが、胸は一向に満たされない。
未知の空間と敵と対峙しても変わらず動くものがあった。
黒革の鎧を纏い、無骨な鉄兜を被り、灰色の大剣を揺らす。
走るオルファの足元に、大槍が突き刺さった。
突然の事に鉄兜の奥で目を見開き、体勢を崩して前転する。
回る世界で状況を確認する。
動いたのは大槍だけではない。シダルタが確かに突き刺していた。
目で追える速度を越えている。
オルファは前転の勢いを利用して立ち上がり、業断ちを横に振るった。
衝突音。
既にシダルタは眼前に迫っていた。大槍を弾けたのは偶然だ。
続く連撃。一本の槍とは思えぬ連撃が閃く。
業断ちを縦に構え、致命傷を避けるだけで限界だった。
竜鱗ごと黒革の鎧が削ぎ落され、露出した肌は赤く染まる。
「チッ……」
アイヴィは触媒を入れた雑嚢に手を突っ込み、しかし自身の精神の消耗具合から迷いが生じていた。
使える巫術はあと一回。鉄刀木の枝を伸ばせばシダルタの注意を引くことはできるが、その後は打つ手が無くなる。注意を引いた隙に倒せるか──否だ。
かと言って、このままではオルファが死ぬ。
「おい!」
隣人に何か手はないかと聞こうと視線を移すと、存在が薄くなった姿を見て驚愕した。
「おい! トゥル!」
「……え、あれ。あたくし」
意識を失っていたトゥルは、アイヴィの姿を見て同様に驚愕した。
「アイヴィ、なんか薄くなってますよ!?」
言い終えるころにはアイヴィの姿は元に戻っていた。
「おかしなことが起こり過ぎだ!」
「オルファは!?」
「危険だ。何か手は無いか!? ボクがやってもいいが、その後が無い」
トゥルが黒羽の外套の内側を探った時だった。
「駆けろ、始まりの輝き──」
淀みない詠唱が戦場に届いた。
「魔力の流星!」
アイヴィとトゥルが振り返ると同時、二人の頭上を一筋の流星が煌めいた。
流星は穂先の豪雨を振らせていたシダルタの背後から迫り、光輪を激しく揺らした。
連撃が止む。その隙を業断ちが狙う。
空振りの虚しい音だけが残る。
鉄兜を振り、シダルタの姿を追う。
「シューガ!」
アイヴィの叫びを追う。シダルタは、遥か後方にいた筈のシューガの眼前まで迫っていた。
飛び出したのはオルファだけでなく、トゥルもだった。
右手に逆手で握った小太刀。左手には、血の手形が付いた札。
手はある。しかし、間に合わない。
トゥルが下唇を噛み、疾駆する。
どうか耐えて。と願いながら。
シダルタの突き出した大槍はシューガの胴を貫くかと思われたが、槍杖を絡ませるように突き出すと、勢いを後方に逃がした。
通り過ぎた穂先が次の瞬間に眼前に迫っていたとしても、シューガは冷静に槍杖を振り上げ、追い払う。
さらに一撃、二撃、三撃・・・・・・突き出された穂先の尽くをずらす。
埒が明かないと判断したシダルタは巨躯を跳び上がらせ、大槍を下に突き出して降下する。
「むっ!」
技術で掃えぬ質量の暴力。シューガは回避するしかなかった。
横っ飛びで穂先を避けるが、着地した時には既に石突による一撃が放たれていた。
「以怨報怨・解!」
小太刀で札を突き破り、血の手形が刀身に吸い込まれる。
札を破り捨て、石突の一撃を小太刀で受ける。
「くぅっ!」
右腕に走った鈍い衝撃に苦悶の表情を浮かべる。しかし、その衝撃はトゥルのものだけではなかった。
シダルタの右腕が浮き上がる。
まともな相手ならば驚愕の表情を浮かべていただろうが、生憎と相手は感情を持たぬ虚人であった。
しかし、初めて大きな隙を晒したのは事実。
トゥルは舞うような足取りでシダルタに肉薄すると、脇腹を斬りつけ背後に抜けた。
血は流れず、傷口はすぐに再生を始める。
だが、それは初めから知っていたこと。狙いは注意を引き、背中を向けさせることであった。
誰に。
決まっている。
恰好の機会だというのに気合の咆哮も、奮起の雄叫びも上げず、淡々と踏み込み灰色の大剣を振り上げる。
業断ちは光輪ごとシダルタの業を断つ──
──ことはなかった。
剣身は確かに光輪を捉えた。いや、防がれたと表現するのが正しい。
力押しを試みるオルファが光輪の瞳に映る。
鮮血が飛んだ。
近くで見ていたシューガも、遠巻きに見ていたアイヴィも、何が起きたかまるで理解できなかった。
唯一判明していることは、背後を向いたままのシダルタの手から離れた大槍が、オルファの胸を貫いていたことだった。
叫び声も、呻き声も上げることなく、オルファは地に倒れ伏した。
「オルファ!」
アイヴィが一も二もなく駆け出す。
「まずい。これは……!」
シューガは込み上げた絶望を口にしかけたのを、飲み込んで抑える。
トゥルだけがシダルタの体に遮られ、状況を把握しきれないでいたが、意識をすぐ眼前に戻す。
繰り出される拳の連打。小太刀で弾くこともできず、力に押し切られ、胴に重い一撃をくらう。
「うぅ……げほっ!」
胃液を吐き出したところに追撃の殴打。首の骨が軋み、飛び掛けた意識の中、身体を掴まれた。
為す術もないトゥルを助けようとシューガが槍杖を突き立てるが、光輪から放たれた白い衝撃波によって遥か彼方まで吹き飛ばされる。
シダルタは振り返り、オルファに駆け寄ったアイヴィに狙いをつけると、トゥルを砲弾のように投げ飛ばした。
トゥルの体に打たれたアイヴィは枯れ葉のように吹き飛び、頭を割り、二人重なって倒れた。
白い空間から動く者が消えると、シダルタはオルファの体から大槍を引き抜いた。




