#11
暗い。
明るい。
暗い。
明るい。
……どちらでもいい。
何も映らぬ世界に意識が溶けて行く。
止まった意識の中、微かな香りが漂った。
香りの正体は無意識に理解できていた。
紙と墨液。
好き嫌いを考えたことはないが、懐かしく思う。
霞み、狭まる視界に映り込んで来るものがあった。
机に向かう少年と、それを見守る姉の姿。
時に叱り、時に褒め、ただ平穏な時間が流れていた。
……俺には関係のないことだ。
思考が伝わったのか、霞の向こうから姉がこちらを覗き込む。
困っているような、怒っているような表情で何かを言っている。
しかし、聞こえない。読み取れない。
視界は完全に閉ざされた。
暗闇。
何も見えない世界。
誰かが手を伸ばしていた。
泣きじゃくりながら、誰かに連れて行かれる。
誰かが手を伸ばしていた。
発狂に近い叫びをあげながら、誰かに連れて行かれる。
誰かが手を伸ばしていた。
消沈した表情で、誰かに連れて行かれる。
誰かが、手を伸ばしていた。
引きつった笑みを浮かべ、誰かに連れて行かれる。
・
・
・
誰かの差し伸べた手に触れた。
優しい微笑みを浮かべ、誰かに連れて行かれる。
何も見えない世界。
暗闇が燃えていた。
種火のような、蝋燭のような小さな火。
揺らぐ火の向こうで、誰かが呼んでいる。
『……帰って来てくださいね』
柔らかな声。
飾り気もない。
願いを押し付けるでもなく。
祈るようでもなく。
ただ、帰ってくることを当たり前のように待つ声。
その声が、暗い火にくべられた。
§
シダルタはオルファの体から大槍を引き抜いた。
傷口から溢れる赤黒い血が業断ちの剣身を染めると、黒い炎を巻き上げ、激しく燃え始めた。
黒炎は、今度は業断ちからオルファの体に伝わり、傷を燃やし、その身を立ち上がらせた。
やがて黒炎は消える。
オルファが業断ちを構える。
それは剣身に黒の刃持ち、鋭い黒光を放ち、確かな存在感を持った大剣であった。
何が起きているのか、シダルタは気にも留めない。大槍を振り被ってオルファに接近した。
接近して来るのが見えた。
元のシダルタ同様、速く、最短距離で間合いを詰めて来るが、見えなかった時とは雲泥の差があった。
突き出される穂先をいなし、振られた切っ先を弾き、叩きつけられた石突を躱す。
側面に回り込み、業断ちを突き出す。
光輪の瞳がオルファを捉える。
シダルタの右手に握られた大槍が、意思を持って動き、オルファの胸を狙った。
オルファは舌を打ち、身を捩って回避すると、大槍は遥か上空に飛んでいった。
光輪が輝く。
シューガを吹き飛ばした時と同様、白い衝撃波が放たれ、業断ちの刃がそれを両断した。
そのまま返す刃でシダルタに攻撃を見舞うが、手甲と一体化した拳で防がれてしまう。
刃を押し込もうと脚に力を入れた瞬間、不安がよぎり、距離を開ける。直後、大槍がオルファの居た地面を貫いた。
シダルタが大槍を構え直す間、オルファは首を振って周囲を確認する。
遠方にシューガ、後方にアイヴィとトゥル。三人とも、存在が薄くなっていたが、オルファが視線を向けたことで存在の濃度が戻る。
どういう理屈かは何も分かっていない。
何故、仲間たちは存在が薄くなるのか。
何故、シダルタの動きが見えるようになったのか。
何故、業断ちが黒く光っているのか。
何故、自分が生きているのか。
どうでもいい。
オルファは一言で片づける。
「業を断つ」
白い地面を踏み抜き、シダルタに肉薄する。
業断ちの一撃は大槍と遜色ないほどに重く、攻防が激しく入れ替わった。
光輪の瞳による大槍の操作は厄介だが、どうやら標的を見ないと発動しないようで、オルファは正面から業断ちを振るい続けた。
攻勢に出る時間が生まれたのは確かだが、元来の速度に加え膂力の上がったシダルタに押し勝つのは至難の業だった。
何か一手、力でも速度でもない何かが必要だった。
不利になったわけではないが、オルファは一時的に後退する。
仲間の存在を確立するためだ。
しかし、視界に捉えれば消失は免れるが、受けた傷は全員深い。早めに治療をせねば生命機能の方が止まる。
三人の存在を確認し、再びシダルタに集中しようとした時だった。視界の端で黒羽が揺れた。
何かを告げる時間はない。
シダルタが跳びかかり、殴打を交えた連撃を放って来る。
再びの接近戦はオルファが押し込まれた。
大槍による刺突と斬撃に、拳による殴打と掴みが混じったことで回避を強要される。
動いた先で繰り出された攻撃を弾く。
その攻防を何度か続けている内に、一人、身を起こす者がいた。
咳き込み、喉と口内にへばり付いた胃液を吐き捨てる。
「あれは……オルファ……」
全身から発せられる激痛の訴えを無視し、気絶する前の状況を思い出す。
シダルタに殴打され掴まれ、投げ飛ばされる瞬間に見た光景。それは胸に大槍が突き刺さって倒れるオルファの姿だった。
「生きて……いったぁ!」
立ち上がろうとして、ついに体の悲鳴が意識を上回った。
滑る足音がトゥルの少し先にやってきた。
視線を上げると、血に濡れた背中がシダルタと打ち合っていた。
「二人を見ろ」
身を案じる言葉もなく、いきなり指示が出される。
普段なら不満や軽口を挟むところだが、そんな状況ではないことは承知していた。
「二人……」
見渡し、離れたところで伏せているシューガと、下敷きになっているアイヴィを発見する。
「あら、ごめ……いぃったぁい!」
座ったまま片手を軸にし、アイヴィの上から退くのもやっとであった。
オルファとシダルタの剣戟は続く。互いに狙いを外さず、判断を違えず、それぞれの得物を、身体を稼働させた。
呪術で援護したい気持ちはあるが、身体は満足に動かせず、範囲の広い呪術ではオルファを巻き込んでしまう。
トゥルはオルファの背中を見つめる。
相手が何であれ、状況がどうであれ、真っ先に敵に向かっていく胆力。
傷つき、倒れても立ち上がり、武器を振るい続ける意志の強さ。
愛想は無く、口数は少なくとも、仲間のことは認めている。
信じられる要素しかなかった。
トゥルは痛む体に鞭を打ち、黒羽の外套から蛾の剥製を取り出した。
「迷翅転界・解」
囁き声。
蛾に封じた呪いが解かれる。
右手を振り上げる。胸と肩が砕けんばかりの激痛に涙が零れるが、歯を食いしばり、役割を全うする。
投げられた蛾は斬り結ぶ二人のもとへ飛んでいき、大槍か業断ちの刃に触れて粉々に砕け散った。
「……あなたには関係ないでしょ」
蛾の鱗粉が二人を包む。
「やることは、一つなんだから。」
二人の視界が捻じくれた。
相手の得物が湾曲し、姿が左右に引き伸ばされ、世界が回る。
シダルタと言えど、虚人と言えど、回る世界ではまともに戦うことはできなかったようで、たたらを踏んで後退する。
それを追って黒光が閃く。
たとえ世界が回ろうと、幻想の中に隠れようと、確定した事象を突きつけられようと、どこまでも追い掛け、断つ。
それが、彼を彼たらしめる所以。
聖女の祝福を受けず、教会にも認められていない。
記憶を失い、出自も経歴も不明。
灰色の大剣に刃は無く、鉄と思えぬほど軽い。およそ武器とは呼べぬ代物を背負う。
その武器を含めた異質な存在から、人々は彼をこう呼んだ。
「業断ち」と。
黒刃が振り下ろされ、シダルタの体を斬り裂く。
体内に浮かぶ、文字にも記号にも見える、白い光の印が両断され、霧散する。
シダルタは散りゆく体で片膝を着き、天を仰ぎ見ながら片手を差し出した。
虚ろな目に何が映っていたのか、誰も知る由はない。
白い発光した世界が消え、地下都市には暗闇と静寂が訪れた。
「終わっ……たぁ」
トゥルが体を弛緩させて倒れ込む。全身に激痛が走るが、気にするもんかと手足を伸ばす。
「まだだ」
言いながら、黒光の消えた業断ちを背に戻す。
「えっ!?」
雑嚢から火打石を取り出し、帯革に付いた角灯に火を点ける。暖かな光が周囲を照らした。
「依頼達成の報告がまだだ」
至極真面目な物言い。トゥルは思わず吹き出した。
「ブッ……アッハハ……! 真面目ですねぇ」
笑われながらも、オルファはシューガの生存を確認し、引き摺って来る。
「いやはや、結果、全員ぼろぼろになったね」
運ばれながら、眼鏡の位置を直した。
「あら、気が付いていたんですね」
「今、オルファに起こしてもらったんだよ。腰が痛いから直ぐには立てないけど」
シューガをトゥルの脇に座らせ、最後に倒れているアイヴィの脈を測ろうとすると、伏せた顔から呻き声が聞こえて来る。
「うぅ……トゥル……」
「あら、あたくしの心配?」
嬉々とした声。
「……重い」
トゥルの表情から、色が消えた瞬間だった。




