#6
血と粘液に濡れた地面。腐肉の臭気。異形と化した巨大蟻──虚人蟻。どれもが歩を躊躇させるに足る存在であった。その中で、オルファは躊躇いなく地面を蹴り、臭気の中を駆け、虚人蟻の頭部めがけて業断ちを振るった。
大剣に似つかわしくない、素早い唐竹割り。しかし、虚人蟻の複眼から伸びた腕によって払われてしまう。
虚人蟻は体を横に回転させながら、中脚と後脚の鉤爪でオルファを狙って来たが、跳び退いて回避する。そこに、入れ替わるように前に出て来るのはシューガであった。
「ぬんっ!」
槍杖の穂先を突き出し、虚人蟻の胸部を狙う。だがその一撃も、折れ曲がった脚によって弾かれる。鎧を纏っていない脚を微かに傷付けたが、瞬く間に塞がってしまう。
「血も出ない。正に虚人だ」
「そう言った」
「疑ったわけじゃないよ。確認しないと気が済まない性分なんだ」
言葉を交わす二人に蟻酸が降りかかる。
オルファは右へ駆け出し、シューガは左に跳んで回避。そのまま左右からの挟撃へと繋げる。
二人の武器が届く前に虚人蟻は暴れだし、六本の鉤爪が暴風のように振るわれる。
「この動きは?」
一撃が弾かれ、虚人蟻の不可解な行動に距離を取るシューガ。
「再生が進んでいる」
脚の鉤爪と攻防を繰り返しながら、オルファが答える。その証拠を示すように、折れ曲がっていた脚が、通常の膝関節の可動域まで戻っていた。
「時間を掛けると出て来るぞ」
「二人とも、少し離れろ」
後方から届いたのはアイヴィの声。彼の手には蔓から放射状に無数に広がる細い根──巫術の触媒が握られていた。
アイヴィは瞼を閉じ、意識を戦場から触媒に移す。
己は蔓。
細い根を地中全体に巡らせる。
深く潜らせるわけではなく、地表付近に広く、広く。
どこまでも伸びていけ。
開眼。
地面を割って出現した根が虚人蟻の脚に、頭部に、胸部に絡み付いた。
動きの止まった虚人蟻を目掛けて、オルファとシューガが接近。業断ちを頭部へ叩き付け、槍杖を胸部へ突き刺した。
体を貫かれ、熱く粘つく体液を噴出させながらのたうつ六本の脚に反し、腕は冷静に業断ちを掴んだ。
オルファは舌を打ち、剣鉈で腕を斬り落とす。
解放された業断ちを構え直しつつ側面に回り込む。暴れる脚を躱して、槍杖で穴を開けられた胸部へ切っ先を捻じ込んだ。
「離れろ!」
シューガが叫ぶ。次の瞬間、足元に蟻酸が噴出した。
反射的に後退するオルファであったが、地面にぶつかり飛沫と化した蟻酸を浴びる。竜鱗は腐食に耐えるが、黒革は溶け始める。
しかし、オルファの背後には、いつの間にかトゥルが回り込んでいた。
「移リ穢・封」
木瘤を背中に押し当て、発動。
呪術によって防具の腐食は最小限に留まる。
「どう、断てそうです?」
背中を軽く支えながら耳元で囁く。
「他の選択肢を知らん」
微塵も動じずに答えると、剣鉈を帯革に戻して業断ちを両手で握った。
「勇ましいことで。手は?」
「ある。シューガ」
「うん?」
「奴の体を分断しろ」
「物騒な依頼だね。でも了解だ」
話している間に虚人蟻は根の拘束を引き千切る。切り落とした腕は既に再生しており、頭部を下げて地面を探り始めた。
「今度はなんです?」
トゥルの問いに答える者はいなかった。代わりにオルファが駆けだす。
頭部に向けて振られた業断ちは、しかし、振り上げられた腕に阻まれた。
正しくは手に握られた一振りの剣に。
袈裟斬り、横薙ぎ、振り上げ、と連撃を放つが悉く弾かれる。続く逆袈裟斬りが大きく弾かれると、オルファはよろけた先の地面で大きく足を滑らせた。
卵の破片か、幼虫の死骸か、はたまた別の何かか。原因は重要ではない。
オルファの体勢が戻り切る前に、虚人蟻は脚の鉤爪で攻勢に出た。
右、左、右、と絶え間ない連撃を、今度は業断ちが弾く。先ほどと違うことがあるとすれば、攻勢に移る手立てがないことだった。
「破裂する魔力よ、流れ込め」
低く唱えられた呪文に、空気が一変する。熱量や振動とは違う、力が集束する気配。虚人蟻もその気配を感じ取り、根源たるシューガへと襲いかかろうとする。しかし、脚を動かせども前には進まない。何故か──
「やれ」
──理由は単純だった。オルファが脚を掴み、進行を妨害していたからだ。
「迸る魔力!」
術名が唱えられると、槍杖の先端に付けられた魔石から一筋の光が伸び、反対側の先端──穂先が青緑色に輝いた。
「ぬん!」
突き出された穂先は腹柄節を貫き、引き抜くと同時に魔力の爆発を生じた。
はじけ飛ぶ胸部と腹部。体液の鉄臭さとも腐臭ともつかぬ臭いの中で、オルファは目標を視認する。
胸部の断面に浮かぶ、紋章とも文字とも見て取れる不可思議な印。
業断ちの柄を強く握り、胸部が地面に着くと同時に振り下ろす。
文字は砕け散り、白い粒子になると霧散した。後に残ったのは、巨大蟻の死骸だけだった。
「終わったか」
長い耳を微かに動かしながら、アイヴィがオルファに歩み寄る。
「ああ」
背中の短槍と業断ちを入れ替えながら首肯した。
「なら、早く離れません? 鼻が曲がりそうですよ」
「祝福武器が落ちているかもしてない。探さないのか?」
トゥルとアイヴィがそれぞれ意見を出し、オルファへ視線を向ける。
「先に進む」
選択に迷いはなかった。
「未踏領域も、シダルタもまだ見つかっていない」
「我もその意見に賛成だ」
「だそうですよ?」
「フン。別にボクは先に進むことに反対したわけじゃない」
言うや否や、アイヴィは広間から去って行き、三人はその後を追った。
「まさか虚人があんな姿になるなんて……初めて見たよ」
道すがら、シューガは虚人蟻を思い出していた。
「できれば二度と会いたくありませんねぇ」
「オルファは前にも遭遇したことがあるのか?」
「ああ」
端的な返答。
短い間を置いてからオルファは再び開口した。
「食われた虚人は、消化される前であれば体内で再生を始める」
「言われてみれば、だね。虚人は祝福武器以外では倒せないのだから」
「……消化されたらどうなる?」
アイヴィの問いに、最後尾のトゥルだけが顔を顰めた。
「糞の中から再生する。業を断たん限り、奴らは蘇り続ける」
「フン。やっぱりか」
「ちょっと、下品でおぞましい話は控えてくださいません? 淑女がいましてよ?」
嘲笑の鼻が鳴った。
「淑女がこんな所に来るものか。それに、お前だって虫の死骸とかを触媒に使うだろ」
「それとこれとは話が違うんです」
再び嘲笑の鼻が鳴ったところで、シューガが咳払いをした。
「すまない。我から話したことだが、目の前のことに集中しよう」
会話が途切れると直ぐ、壙穴内に変化が訪れた。
狭い通路は広がりを見せ、岩特有の起伏のある地面は平らな砂の地面へと変わった。
白い粒子に照らされた広間では、家屋の屋根や崩れた煉瓦の壁が砂の中から顔を覗かせていた。
「最奥」
オルファは背中の業断ちの柄に手を掛ける。
「見ろ!」
アイヴィが指差したのは最奥の先。行き止まりのように見える岩壁に、大人一人が悠に通れる大穴が開いていた。
「あの先が未踏領域だね」
分厚い眼鏡の奥では、期待が輝きを放っていた。
「やる気を出しているところ悪いですが、少し休憩しません? あたくし、疲れてしまいました」
「……敵の気配はない。ボクは賛成だ」
「おっと、確かに。オルファも異論はないね?」
オルファは周囲を一瞥した後、業断ちから手を離した。
「ああ」
「フフーン。休憩、休憩!」
満場一致となると、トゥルは跳ねるような足取りで屋根の上に腰を下ろした。他の三人も、煉瓦の上や砂の上など思い思いの場所に腰を下ろす。
「邪教徒とやらはここで何か企てていたようだ」
オルファは屋根の上で広間を俯瞰していた。視線の先では、邪教徒のものと思われる黒い外套の他、教典の頁が散乱していた。どちらも損傷は激しく、教典を拾い集めたとしても何が書かれていたのか解読するのは不可能に近い。
「死体は?」
水袋を呷ったアイヴィが、口元を手の甲で拭った。
「ない」
「巨大蟻が運んだのだろうね」
シューガは手帳に何かを記しながら会話に混ざる。
「死体の臭いに惹かれて来た巨大蟻と、虚人化した騎士……フン。壊滅するのは当然か」
「けれど、帰還者が巨大蟻のことを語らなかったのが不思議だ」
「……確かに」
「まぁ、巨大蟻が来た時期はそれほど重要ではないね」
「怪物はいつでも、どこにでも湧くからな」
会話に割って入る深い溜め息は、聖布に顔を埋めていたトゥルのものだった。
「休憩中も虚人や怪物の話ですかぁ?」
聖布から覗かせた赤褐色の瞳には厭きれが浮かんでいた。
「依頼はまだ終わってない」
「では未踏領域について語ろうか」
「結構ですぅ。オルファ……あれ、どこに?」
屋根の上に視線を向けたが、そこに目的の人物はおらず。周囲を見渡すと、広間の奥の方に歩いていくオルファがいた。
「もぅ、皆さん勝手なんですから」
不満を漏らしたトゥルの耳に、地面の震える音が飛び込んだ。
「この音は……!」
トゥルとアイヴィが同時に立ち上がり、次いで地面が揺れる。
「地震? いや、これは……」
足元を伝う振動。
流れる砂。
遅れて立ち上がったシューガは、近付いて来る揺れが、自然的なものでないことを悟る。
「オルファ、そこから離れろ!」
アイヴィが叫ぶより早く、オルファは駆けだしていた。
三人に合流するように走る背を狙って、最奥に開いた穴から岩石の長蛇が飛び出す。
土煙と砕石を撒き散らしながら、岩石の先端が四つに開くと、無数の牙を覗かせてオルファに噛み付かんとする。
寸でのところで横に跳んで回避すると、獲物を逃した岩石の長蛇は広間の中央まで来たところで、その長い体をくねらせて突進を止め、四人を睥睨した。
「岩食い蠕虫……」
目も鼻も耳もない。けれど確かにこちらを認知している怪物の名前を呟いたのはアイヴィだ。
「なるほど、未踏領域はこいつの通り道というわけか」
「関心している場合ですか!」
休憩は中断。岩食い蠕虫が相手では、洞窟の進行も撤退も不可。
各々は覚悟を決め、武器を、触媒を手にし、目の間にそそり立つ怪物と対峙した。




