#5
夜明けの淡い光が、道標の小屋の窓から静かに差し込んでいた。
道標の小屋に宿泊した者たちの多くは、教会の鐘が聞こえずとも自然と目を覚まし、それぞれの行動を開始した。
祈りを捧げてから出立する老夫婦。
掻き込むように朝食を食べ、荷物を背負う商人の親子。
唯一、三人組の冒険者だけが寝息を立てていた。
オルファ達もまた、支度に取り掛かるところだった。
灰の大剣を背に固定し、腰には剣鉈、左手には短槍。鎧の革紐を引き締める音が静かな室内に響いた。
「眠れたかい?」
オルファが鉄兜を拾い上げると、その肩に深青の鱗の手が置かれた。
問いかけは、全員に向けられたものではなく、オルファ個人に向けられたものだった。
「問題ない」
「そうか。我は少々、興味深い夢を見た。残念ながら目覚めた瞬間に忘れてしまったが」
オルファはシューガの夢の話に興味を持たず、肩に置かれた手から離れるように歩を進めた。
「忘れたのに興味深いのか?」
代わりに話し掛けたのはアイヴィだった。
「興味深いと感じたことだけ覚えているのだよ」
分厚い眼鏡の位置を直しながら答えると、また別の声が届いた。
「それだけじゃ、いくらなんでも探求できないですねぇ」
軽く弾むような声音。トゥルは黒羽の外套を羽織る。
「夢とは脳が記憶を整理する過程とも言われる。忘れることにも意味は──」
「朝から難しい話は勘弁だ」
アイヴィは手で制しながらシューガの脇を通ると、いつの間にか小屋の外に出ていたオルファを追った。
「む……これはしまったね」
「はいはい、いきますよ」
四人は道標の小屋を後にし、東へ続く街道を歩き始めた。
朝早いこともあってか、昨日まで時折すれ違っていた巡礼者や荷馬車は目に見えて減っている。
しばらく歩き、街道脇の草が森林に変わり始めた頃、アイヴィが不意に足を止めた。
しゃがみ込み、草をかき分けて地面に触れる。
「何かあったかい?」
「逆だ。動物の足跡がない。虫はいるのに」
風が草を揺らす。
鳥の声だけが遠く響いた。
「怪物の影響かな」
「だろうな」
アイヴィは立ち上がり、手に付着した土を払った。
「わかっていたことだが、注意しろよ」
その言葉は等しく一党の意識を引き締めた。オルファは鉄兜を被り、留め具をしっかりと固定した。
街道から逸れて入った森の中は、朝だというのにどこか陰湿な空気を孕んでいた。
枝葉に遮られる陽光。動物の姿は無い。四人の歩行音に混じるのは虫の羽音くらいであった。
しかし、四人の緊張とは裏腹に、森の中で怪物に襲撃されることはなく、目的地は目の前に現れた。
深緑の世界に突如として現れた、世界を隔てる崖にも見える大穴。
壙穴。
囲うように建てられた簡易的な柵はところどころが損壊していた。
光を吸い込む穴には縄梯子が掛けられていたが、どこまで続いているのかは目視できない。
「ここで依頼内容を再確認しようか」
シューガは指を立て、落ち着いた声音で注目を集めた。
「目標は三つ。壙穴の調査。虚人の討伐。祝福武器の回収」
「祝福武器の回収は、できればだろ」
アイヴィの補足に頷きを返し、続ける。
「帰還者の証言。壙穴最奥に未確認領域あり。邪教徒は討伐済みだが古き闇が出現し、複数名が虚人化。部隊は壊滅」
「そして再派遣した部隊は消息不明と」
トゥルの静かな言葉が締めとなり、一瞬の間が流れた。
「やることは変わらん。虚人を断つ」
オルファは言い切ると、縄梯子を留めている楔の強度を確認し、降下を開始しようとする。
「待て。お前は暗闇じゃ視界が利かないだろ。ボクから行く」
割って入ったアイヴィは軽やかな動作で縄梯子に捕まると、流れるように降りて行く。
「おい、一旦降りて来ていいぞ」
姿の見えなくなったアイヴィから合図が出ると、オルファ、シューガ、トゥルの順で縄梯子を降りた。
オルファとシューガが、体に括り付けた角灯に火を点け、窓を開いて明るさを調節する。
着地点は四人が集まってもまだ余裕のある空間であったが、そこから続いているのは、人がひとり通れる程度の横穴だけであった。
「……嫌な空気だ」
アイヴィは顔を顰めつつも短剣を抜き、先頭を歩き始めた。彼の言う”嫌さ”にトゥルだけは共感できたが、敢えてそれを口にすることは無かった。
十数ばかり歩を進めると、予兆が姿を現した。
「祝福武器……じゃないな」
アイヴィは地面に転がっていた剣を拾い上げた。乾いた血がこびり付いている以外は、何の変哲もない鉄でできた剣。
「先の教会騎士の得物かな」
「だろうな」
シューガの言葉に同意し、アイヴィは剣を道脇の壁に立て掛けた。
「帰還した奴以外にも、何人かは出入り口の近くまで来ていたようだ」
そう言ってアイヴィが歩を進めると、オルファとシューガの嗅覚でも”嫌な空気”を感じ、それは直ぐに目の前に現れた。
狭い通路を染め上げた血は既に乾いており、岩盤の隙間に挟まった細かな肉片が腐臭を放っていた。
落ちている武器は折られ、防具は噛み砕かれ、聖印の描かれた衣は裂かれ、その一部は酸に溶けていた。
「酸を使う敵……っ!」
溶かされた胸当てを拾い上げたアイヴィだったが、その瞬間に息を飲み込み、反射的に胸当てを放り投げた。
地面に落ちた胸当ては、甲高い金属音ではなく、肉が潰れる音を立てて転がった。
「くそっ!」
悪態を吐き、地面を這いずる蛆を踏み潰す。
「随分と、行儀の悪い怪物がいたものですねぇ」
最後尾から届くトゥルの声には、明確な不快感が含まれていた。
「怪物に行儀などあるものか」
オルファは角灯の明かりを少し先に向け、進行を促した。
「……こんな死に方、あっていい筈がない」
言葉を吐き捨て、アイヴィは歩を進める。
道幅は時折広くなったり、狭くなったりを繰り返す。時折、分かれ道に遭遇するが、教会騎士の遺品が目印代わりに落ちていたため迷うことは無かった。
随分と奥まで進んで来た。誰もがそう思い始めた時だった。アイヴィは歩みを止め、聴覚に神経を集中させた。
「……一体、こっちに向かって来るぞ」
「どけ」
アイヴィの体を押し退けてオルファが最前に出た。左手に握った短槍をやや引いて構え、右手の剣鉈を肩の高さで固定する。
「この足音は、巨大蟻だ」
アイヴィからの報告を受けて数拍の間を置き、オルファの耳にも足音が届く。
鉄が岩盤の上を走る音と、箒が地面を掃くような音が混じっている。
間もなく視界に移る敵の姿。
赤黒い体表。鋸のような顎。一対の複眼と一本だけの触角。細かい毛の生えた前足と、鉤爪の付いた中脚と後脚で、成人男性ほどもある体を突進させて来る。
巨大蟻。
オルファは突進に合わせて短槍を突き出し、複眼に突き刺すと同時に手放す。
体液を撒きながら、鋸の顎が空を噛む。
岩盤に背を擦りながら巨大蟻の側面に回り込み、頭部と胴体を繋ぐ間接に剣鉈を叩き込む。
関節と言えど革鎧ほどもある強度に、剣鉈の一撃は途中で止められる。
しかし、オルファは動揺せず、剣鉈を捩じるように引き抜くと、再度振り下ろした。
だが、巨大蟻とて黙ってはいない。腹部を震わせ、先端をオルファに向ける。
剣鉈が巨大蟻の頭部を切断すると同時に蟻酸が噴出する。回避に必要な時間も、場所もない。
「解・返禍」
凛とした声と共に最後尾から、尾を噛んだ蛇の抜け殻が投げ込まれた。
蛇の抜け殻が蟻酸に濡れて溶けたかと思うと、次の瞬間には巨大蟻が蟻酸で溶けていた。オルファの体には一滴の蟻酸も付着していない。
「後続は?」
シューガの確認に、アイヴィは首を横に振った。
「巨大蟻一体に呪術一回は、割に合いませんねぇ」
わざとらしく溜め息を吐くのはトゥルだ。
「……そうでもない」
巨大蟻の死骸から短槍を引き抜き、体液を振り払いながら答える。
不満を否定された形となったトゥルだが糾弾はしない。小さく頷くだけであった。
「しかし、妙だね。群れで行動する巨大蟻が単独行動とは」
行進を再開すると同時に、シューガが疑問を口にする。
はぐれた個体と偶然接敵しただけ。とは誰も考えなかった。
「俺たちを狙って来たとも思えん」
「触角が一本しかなかったな」
「奥から一体だけ、出口の方に走って来たということは……」
代わる代わる意見が出され、シューガは満足気に口元を綻ばせた。
全員の思考は一致しており、それでも歩を進める。ならば、答えは言わない。言う必要がない。
「一層、注意して行こうか」
シューガの言葉は、暗闇の中へ静かに溶け込んだ。
ほどなくして、アイヴィは地面に落ちる痕跡に異変を見つける。
「ん?」
赤黒く細長い脚。これまで人間の遺品ばかりだったところに、初めて怪物のものが混じる。
視線を先に向けると、少し広がった道幅のあちこちに脚の他、触角や潰れた頭部などが転がっていた。
「ここが主戦場だったようだね」
「だとしたら……あっちが巣か」
アイヴィが血痕を視線で追った先は、横に逸れて伸びる道だった。
「あたくしもそう思いますけど……なんだか変な音がしません? 巨大蟻とは違う……足音」
狐耳を細かく動かすトゥルに言われ、アイヴィも耳を澄ます。
鉤爪が地面を削る音。細かい毛が岩盤を撫でる音。裸足で地団太を踏む音。どの音も落ち着きが無く、時折水音が混じる。
不快極まりない音に、アイヴィは顔を強く顰め、両耳を掴んだ。
「何が起きているっていうんだ?」
人が食われているにしては悲鳴や咀嚼音は無く、巨大蟻の足音は暴れるような激しさであった。
「行けばわかる」
オルファは腰の帯革から剣鉈を抜き、アイヴィを押し退けるようにして前に出た。
「おい──」
「数は?」
「──チッ。蟻は一だと思う。ただ変な足音が混じってる」
オルファは頷きもせず歩き出す。左手の短槍を握り直し、右手の剣鉈を肩の高さに上げる。鉄兜によって制限された視界の隅々に視線を巡らせ、確かな歩調で進む。
澄ませた耳には、後方から続く仲間の足音。そして、鉤爪が地面を削る音。細かい毛が岩盤を撫でる音。裸足で地団太を踏む音。
壁面は湿り気を帯び、靴の裏へ粘土質の泥がまとわりつく。
流れ込んで来る空気には血と、すえた匂いが濃く混じっていた。
やがて道幅が大きく広がり、円形の広間に行き着く。
天井まで硬い岩盤に覆われた空間。その地面には血の混じった半透明の粘液が広がり、靴底が糸を引く。
あちらこちらには破られた膜が散り、溶けた幼虫が転がり、壁際には食い荒らされた肉片が積もっていた。
目鼻を覆いたくなる光景の中で一体の巨大蟻がのたうち回っていたが、オルファ達が来た途端に静止し、ゆっくりと体を起こした。
成人男性程の体長に赤黒い体表。細かい毛の生えた前足と、鉤爪の付いた中脚と後脚。腹部からは、でたらめに折れ曲がった人間の脚が生えている。侵入者を見る複眼からは、真っ直ぐに人間の腕が伸び、触角の間からは人の顔が浮かび上がっていた。
「……なんです、あれ?」
トゥルは強い不快感から、袖で口元を抑える。
「虚人だ」
静かな声。
オルファは剣鉈を左手に持ち替え、背中から灰色の大剣を抜き、替わりに短槍を背中の帯革に押し込んだ。
「断つ」
強く地面を蹴る。
場所がどこであろうと、敵の姿が何であろうと、オルファは迷わない。
虚人は断たねばならない。それはまごうことなき真実なのだから。




