第9話「グラン爺、現れる」
その日、石に「変わった石だな」と、2回、言った老人がいた。
1回目は、ネアのそばで。独り言のように。
2回目は、誰にも聞こえないはずの距離で。
——でも、石の俺には、なぜか、聞こえてしまった。
◆
朝、ネアはいつもと違う道を歩き出した。
市場通りを抜けて、坂を上がっていく。足音のリズムが変わった。平坦な石畳から、傾斜のある道に切り替わったのが、振動で分かる。
『どこ行くんだ』
「……用がある」
(用があるのは分かる。どこに、何の用があるかを聞いたんだが)
返事は、なかった。いつものことだった。
◆
坂を上り切ると、空気が変わった。
足元の石が違う。市場通りの雑な石畳じゃない。もっと大きくて平らな石が、継ぎ目を揃えて敷かれている。昔、きちんと作られた場所の名残、という感触だった。
ネアが立ち止まった。
「……ここ」
『ここが何だ』
「……たまに来る」
(答えになってないが)
ネアは時々、こういう歩き方をする。歩幅は普段と変わらないのに、足の運びに迷いがない。仕事でもない、買い物でもない、どこかに行くためだけの歩き方。半年、ポケットの中で薄々気づいていた。坂を上がる日はあまりなかった。でもゼロではなかった。
ネアにとって、たぶん、ここは、ずっと「ここ」だったんだろう。
◆
ネアが俺を石段の上に置いた。
地脈に触れる。
10段ほどの、古い石段。崩れかけているが、芯はまだしっかりしていた。石と石が、何百年も前に組み合わさったまま、ずれていない。たぶん、かつて大きな建物の正面だった場所だ。
その先に——石柱が1本、立っていた。
地脈を通して、表面の微妙な凹凸が分かる。細かい溝が等間隔に並んでいる。文字のようだった。でも読めない。地脈では形は分かっても、意味までは届かない。
(古い碑文か)
ネアはその石柱のそばに立っていた。何もしていなかった。ただ、立っていた。風が吹いて、ネアの服が少し揺れる音がした。
静かだった。市場の声が、ここまでは届かなかった。
◆
——足音が来た。
ネアじゃなかった。
重くて、でも踏みしめ方が丁寧な足音。ゆっくりだった。杖のようなものが石畳に当たる音が混じっている。こつ、こつ、と規則正しい。
(老人だ)
足音が、石段の下で止まった。
5秒。10秒。動かない。杖の先を石畳にそっと置いたまま、ただ、そこに立っている気配だけがあった。
「……」
ネアも、動かなかった。
空気が少し張った。知らない人間が来た時の、ネアの気配だった。警戒している、というより、「様子を見ている」種類の静けさ。
老人が、動いた。石段を1段、2段と上がってくる。こつ、こつ、と杖が付いてくる。
そして——俺のすぐ近くで、止まった。
腰を下ろす気配。衣擦れの音。膝が軋むような、小さな呻き声。布がはためく音が近くで鳴った。長い布を身につけているらしかった。そのはためき方が柔らかい。長く使い込まれた布の、くたびれた音だった。
「……ふう」
声だった。低くて、掠れていて、でも、芯があった。長い間しゃべっていなかった人間の、でも声の出し方を忘れていない声。
しばらく、誰もしゃべらなかった。ネアも、老人も、俺も。
風だけが、石柱の間を抜けていった。
◆
先に口を開いたのは、老人のほうだった。
「……変わった石だな」
声量は、小さかった。独り言みたいに。
でも、向きが——こっちだった。
(え)
「こんなところに転がっておるのか。誰ぞの忘れ物か」
独り言にしては、具体的すぎた。
(見えてるのか、この人)
ネアの足音が2歩、こっちに近づいた。
「……じいちゃん」
ネアが、静かに言った。
「ん?」
「……それ、私の石」
老人が、ふっ、と短く息を漏らした。
「お前の、か。そうか。大事にしておるのか」
「……別に」
(別に、じゃないだろ)
「大事にしておるな」
老人は、繰り返した。ネアの「別に」を、聞き流したような、聞き取ったような、どちらとも言えない調子で。
ネアが、黙った。
石段の上の俺には、ネアの鼓動も呼吸も届かない。今どんな顔をしているのか、どんな温度で黙っているのか、何も分からなかった。
地面に置かれている時の俺は「広く」なれる。でもネアからは、逆に遠くなる。そういう仕組みだった。——今日ばかりは、その仕組みが、ちょっと残念だった。
◆
老人が、石柱のほうを向いた気配があった。
「ここの碑文はの」
唐突だった。
「若い頃に、読もうとしたことがある。——何が書いてあるか、気にならんか」
ネアは、答えなかった。
「まあ、気にならんか。若い時はそういうもんだ」
(自己完結するな)
老人は、楽しそうだった。少なくとも、声の調子が、ほんの少し上がっていた。
「わしはグランという。この辺りの古い話を、いくつか知っておる」
名乗ってきた。
ネアは、名乗り返さなかった。
「……」
「廃都の昔話が気になったら、わしのところに来なさい。大体、ここにおる」
グラン——と名乗った老人は、立ち上がった。膝がまた軋んだ。杖を突いて、ゆっくりと石段を下り始めた。
こつ、こつ、こつ。
遠ざかっていく足音を、地脈越しに感じていた。重いのにぶれない。1歩ずつ、確かに踏んでいる。足が悪いのではなく、急がないだけだった。
◆
そして——去り際、グランの足が、一瞬だけ止まった。
小さな声が、来た。
さっきよりもっと掠れていて、今度はネアには聞こえない距離だった。
「……変わった石だな」
2回目だった。
ネアには届かなかった。距離が離れすぎていた。
でも、俺には——風が運んだのか、地脈が伝えたのか——その声の振動が、届いてしまった。
ぎりぎり、拾えた、という程度の。
1回目と2回目は、違った。
1回目は、独り言。2回目は、確認だった。「変わった石」だと、自分の感覚を確かめるための、繰り返しだった。
足音が、去っていった。
◆
ネアが、俺を拾い上げた。地脈から離れて、ポケットの温もりに戻った。
『ネア。あの人、知り合いか』
「……知らない人」
『名前、グランって言ってたな』
「……聞こえた」
(聞こえたなら覚えとけよ)
「……あのじいちゃんが石碑のとこにいるの、たまに見る」
『たまに?』
「……前からいた。ずっと」
(「ずっと」ってどのくらいだ。ネアの「ずっと」は1か月なのか5年なのか分からない)
でも、聞かなかった。ネアの「ずっと」は、だいたい「ネアが覚えてる限り」のことだ。つまり、この子が覚えている限りずっと、あの爺さんはここにいた、ということだった。
◆
夜。
ネアが眠った後、俺はまだ起きていた。
石の夜は長い。考える時間だけは、いくらでもあった。
(「変わった石」)
独り言じゃなかった、と思う。少なくとも、2回目は。
それに、あの足取り。重いのに、ぶれない。杖を突いているのに、頼っている感じがない。「若い頃、碑文を読もうとした」と言った老人が、その碑文の前に、ずっと、通い続けている。
(何か、待ってるのかもしれないな、あの爺さん)
石碑の前で。ずっと。ネアが覚えている限り、ずっと。
(石の俺が言うのもなんだが——俺は、待つのは得意なほうだ)
半年、道端で、誰にも気づかれずに転がっていた頃のこと。あれは結果的に「待っていた」ことだったのかもしれない。ネアに拾われる日を。
だとしたら、あの爺さんも、たぶん、待ってる。
誰を、何を、俺には分からないが。
会えたら、今度は、俺のほうから何か言ってみよう、と思った。
何を言うかは、まだ決めてないが。
今日、知らない爺さんに、石に向かって「変わった石だな」って2回言われた。
2回。
タロも毎日「俺の石」って言ってくるが、タロは賑やかな種類の繰り返しで、あれはちょっと違う。あの爺さんの2回目は、静かな種類の繰り返しだった。
次回「石喰い、現る」もよろしく。
次の変なやつが来る予定だ。
——石より




