第8話「夜の話」
ネアは、夜だけ、少し違う。
気づいたのは、念話が使えるようになってからだった。
昼は、誰にも触らせない鎧を着ている。
夜は、その鎧を床に置く。
そういう違い方だった。
半年、ポケットの中で聞いてきた声の中には、ずっと夜のネアもいたはずだった。でも、昼のネアとそんなに違うとは、気づいていなかった。
俺が返事をする、というだけで、ネアの夜が変わるらしかった。それは、石の俺にとっても、悪くない変化だった。昼も夜も、俺にはどうせ、どちらも長いのだから。
◆
廃都の夜は、静かだ。
昼の市場の声も、路地の足音も、日が落ちるとすうっと引いていく。ネアの住む路地の奥は、特に静かだった。
その静けさの中で、ネアはときどき、口を開く。
今夜も、そうだった。
◆
ネアは毛布に入って、呼吸が落ち着いていた。
でも——眠ってはいなかった。
ネアの眠るリズムは、もう俺には分かる。半年聞いてきた呼吸の中に、まだ「起きている」成分が残っていた。
しばらく、静かだった。
「……イシル」
『起きてるぞ』
「……知ってる」
(知ってるのか)
「……寝ないんだ」
『石だからな』
「……便利? 不便?」
『不便だ。夜が長い』
「……」
少し、間。
「……イシルって、前の世界のこと、思い出す?」
唐突だった。
でも——夜のネアは、こういうことを聞く。昼間なら絶対に口にしないことを、暗くなると、ぽつりと出してくる。
『たまに』
「……どんな世界だったの」
俺は、少し考えた。
ネアが聞いてきた、ということに、返事をしなくちゃいけない気がした。
『……人がたくさんいた。鉄の箱に乗って移動して、夜は光る板を見て1日が終わる世界だった』
「……意味分かんない」
(だよな)
鉄の箱、と言っても、ネアには電車が通じない。光る板、と言ってもスマホは通じない。この世界に「板」はあっても「光る板」はない。
この廃都で生きてきたネアに、前世を説明するのは、たぶん、俺が思うより難しかった。
『分からなくていい。大して面白い世界じゃなかった』
「……戻りたいとか、思わない?」
ネアの声が、少しだけ小さくなった。
——質問、というより、確認の声だった。
俺は、少しだけ考えた。
戻りたいか。あの通勤電車に。あの残業に。あのデスクに。週末にスマホでなろう小説を読んで終わる生活に。
『たまに思い出す。でも——今のほうが面白い』
「……面白い?」
ネアの声に、ちょっと疑いが混じった。当然だった。石になって、動けなくて、何もできないやつが「面白い」と言ったら、普通、疑う。
『面白いっていうか——退屈じゃない』
「……石なのに?」
『石だからかも』
「……どういうこと」
ネアが、少しだけ、こっちに体を向けた気配がした。聞く姿勢になった、と、ポケットの中の俺には分かった。
『前世の俺は、毎日同じことをしてた。朝起きて、仕事行って、帰って、寝て。何も変わらなかった』
「……」
『今は毎日違う。ネアの仕事が違う。会う人が違う。タロが来る日と来ない日がある。地面に置かれるたびに、聞こえるものが違う』
「……」
『石のくせに、前より忙しい』
「……イシルって、本当に石なの?」
(お前、今さらそこを疑うのか。半年ポケットにいた石を)
『正真正銘の石だ。動けないし、見えない。転生ものでよくある「実は最強でした」みたいなのじゃない』
「……でも、しゃべる」
『しゃべる』
「……それは、石じゃないと思う」
(そうか?)
俺はちょっと考えた。
石としゃべる石は違う、とネアは言った。たぶん、ネアの中の「石」は、道端に転がっている普通の石のことだろう。あれに意識はない。あれはしゃべらない。——でも、俺はしゃべる。だから、ネアの定義では「石じゃない」らしい。
(ネアにとっての俺は、石じゃなくて、「イシル」なんだな)
それは、たぶん、褒められているほうに入る気がした。半年前、道端で誰にも気づかれずに転がっていた俺に、名前があって、しかもネアの中で「石じゃない」扱いになっている。
ネアが、黙った。
長い沈黙だった。呼吸は変わらなかった。寝てはいなかった。
それから——
空気が、ほんの少しだけ動いた。
肩が震えたのとは違う。もっと小さい、顔のあたりの動き、だった気がする。
(……笑った?)
分からなかった。俺にはネアの顔が見えない。でも、部屋の空気の密度が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
(たぶん、笑った)
見えなかったけど、俺は勝手にそう決めた。半年、ネアのポケットにいて、ネアが本物の笑い方をするところを、俺は1度も「聞いた」ことがなかった。声を出して笑うことが、ない子だった。
だから今夜のこれは、俺の知る限り、ネアの「笑う」の、初めての兆しだった。しかも、そのきっかけが「石のくせに前より忙しい」という、俺の、割と自虐寄りの独白だった。
意外なところで笑ったな、と思った。
でも、嬉しかった。
◆
また静かになった。
夜の音だけが残る。遠くで虫が鳴いている。風が路地を抜けていく。廃都の夜特有の、乾いた静けさ。
「……ねえ」
『ん』
「……私さ」
言いかけて、止まった。
「……ううん。なんでもない」
(なんだよ。気になるだろ)
言わなかった。ネアが「なんでもない」と言ったら、それは今は言いたくない、ということだ。そのくらいのことは、分かっていた。
きっと、近いうちに、また夜になって、また静かになって、ネアがまた、ぽつんと何か言いかける。そのときに聞けたら聞けばいい。——と、俺は勝手に決めた。
急かさない。石にできる、数少ないことの1つだった。
代わりに、ネアは言った。
「……おやすみ」
小さい声だった。昼のネアとは全然違う声。角が取れて、少しだけ、丸かった。
俺は、この声を聞くのが、半年ぶりでもあり、初めてでもあった。半年ずっと聞いてきた「おやすみ」の声には、俺に向けた成分が入っていなかった。今のは、入っていた。
『おやすみ、ネア』
布が少し動いた。体の向きを変えたらしい。
呼吸が、少しずつ、眠りのほうへ傾いていった。
◆
俺は眠れない。いつものことだ。
でも、今夜は、少しだけ違った。
ネアが、笑った、たぶん。
俺はその「たぶん」を、夜のあいだじゅう、ずっと抱えていた。
半年、この子の隣で、たくさんの夜を過ごしてきた。寒い夜も、雨の夜も、誰かに怒鳴られた夜も、ただ眠るだけの夜も。
でも、ネアが笑ったかもしれない夜は、今夜が、初めてだった。
俺にはネアの顔が見えない。声も、呼吸も、鼓動も、足音も、全部聞いている。怒っているか、疲れているか、悩んでいるか——ぜんぶ分かる。
なのに、笑顔だけが、分からない。
分からないまま、勝手に「笑った」ことにした。
(いつか、本当に分かる日が、来るのかな)
(来ないかもしれない。俺は、石だから)
——でも、もし、いつか分かる日が来たら。
たぶん俺は、そのとき、「やっぱり笑ってたな」と思うはずだった。
俺が勝手に「今夜、笑った」と決めた分を、後から答え合わせする。それは、石にとっては、かなり贅沢な未来の予定だった。
夜が明けるまで、俺はその「たぶん」と一緒にいた。
廃都の静かな夜の中で、石が1つ、眠らずに、笑顔の気配だけを抱えていた。
石の俺にとっては、悪くない、夜だった。
夜のネアは、少ししゃべる。
昼は絶対に聞かないことを、暗くなると、ぽつりと聞いてくる。
俺は寝ないので、夜が長い。
……でも、今夜は、ちょっと短く感じた。
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夜は暇だから、通知が来ると助かる。
次回「グラン爺、現れる」もよろしく。
知らない人が、ネアに話しかけてきた。
——石より




