水盤のそば
「こちらへ。水盤は奥です」
年配の司祭が先に立った。
ネアの足が動く。さっきまで壁際で固まっていた体が、一度だけ袋を抱え直してから、祈りの間の奥へ向かった。
水盤の音は近づくほど小さくなった。
遠くで聞いた時は、石の皿を軽く打つように鳴っていた。けれどネアが近づくと、それは水そのものの音ではなく、誰かが柄杓を置く音や、濡れた指が縁に触れる音だと分かった。
俺は見えない。
水の形も、器の大きさも分からない。ただ、ネアの歩幅がゆっくりになり、袋に伝わる揺れが浅くなったことで、そこが人の流れの端にある場所なのだと分かった。
「ここで手を清めます。飲む水は、こちらの小さな杯で」
司祭は穏やかに言った。
「無理に祈り直す必要はありません。長く立っていたから、少し休みなさい」
「……うん」
ネアの声は短い。
短いけれど、さっきより少しだけ乾いていた。喉が渇いているのか、緊張で声が削れているのか。石の俺には判定しづらい。
(健康管理アプリなら水分不足の通知が出る場面だな。なお、この世界にアプリはない。あるのは司祭の声かけと、十一歳の「平気」だけだ)
しかもその「平気」は、だいたい平気ではない。
水盤のそばには人がいた。
祈りを終えたらしい足音が近づき、衣がこすれ、誰かが水をすくう。手のひらから落ちた水が、硬いものへ戻る音がした。
「娘さん、袋は濡れないように少し上へ」
別の声がした。水盤の係だろう。さっきの司祭より若い女の声だった。
「持つ」
「ええ、持ったままでいいですよ。杯だけこちらに。飲める分でかまいません」
ネアの腕が少し上がった。
袋の底が胸から離れ、すぐに戻る。ネアは俺を水盤へ近づけすぎないように、肩と肘で位置を作っている。
(うまい。荷物持ちスキルが高すぎる。十一歳にして、貧民街式の危険物管理が完成している)
危険物は俺だ。
たぶん、分類としては間違っていない。
女の係が杯を渡した。薄い器がネアの指に触れたらしく、袋越しに冷えが来た。水そのものの冷たさではない。濡れた器を持ったネアの指が、袋の布に少し近づいた分だけ届く冷えだ。
それでも、俺の奥で何かが動いた。
水。
廃都で最初に変わったもののひとつ。
濁っていた水が、少しだけ澄んだ。井戸の底で重かった流れが戻った。小さな皿に溜めた水を、子どもがのぞき込んだ。誰かが咳をして、それから水を飲んだ。
俺は水に何度も触れてきた。
正確には、動けない石なので「触れに行った」ことはない。ネアが持ってきた。誰かが置いた。廃都の地脈が、俺の下で水の通り道を教えてくれた。
だから分かる。
水は、戻りたがることがある。
ここの水は、最初から整っていた。
ネアの指に届く冷えは澄んでいて、濁りの重さがない。器を置く音も軽い。何人もが使っているのに、詰まった感じがしない。水路が太く、途切れず、誰かがきちんと手入れしているのだろう。
なのに、俺の中へ入ってこない。
廃都の井戸で感じた、底から戻ってくるような震えがない。汚れが落ちてほっとする感じも、ひび割れた道に水が染みていく感じもない。
ただ、静かだった。
「ゆっくり飲んで。ここは奥の水路から引いています。南の古い水路を直してから、前より水が安定したそうです」
女の係が、近くの参拝者へ説明している。
「南の方ですか」
「ええ。王都の外れの方まで続いている古い水路です。詳しいことは、私も知りませんけれど」
その声は軽い世間話だった。
ネアは杯を持ったまま動かない。
南。
古い水路。
それだけで廃都だと決まるわけではない。王都の南にはいくらでも道がある。古いものも、水路も、たぶん山ほどある。
けれど、俺たちが来た方角と重なる言葉が、水盤のそばで何気なく落ちた。
(こういう時、前世の俺なら会議室で固まる。「今の話、うちの案件ですか?」って顔になる。でも確認したら負けのやつだ)
今は会議室ではない。
大神殿の奥で、ネアが水の杯を持っている。
「飲める?」
司祭が尋ねた。
「……うん」
ネアは杯を口へ運んだらしい。
喉が動く振動が、袋に小さく伝わった。飲んだ量は少ない。けれど水が入ったあと、ネアの肩がほんの少し下がった。
よかった。
本当に、それだけならよかった。
「袋の石にも、水をかけてあげる子がいますよ」
女の係が言った。
「旅のお守りなら、清めの水を一滴だけ。濡れて困るものなら、もちろんしなくていいです」
ネアの指が止まった。
袋の口の青い糸が、少しずれた。濡れた指が近づいたからか、布がわずかに冷える。
一滴。
たった一滴だ。
水を受けて、何もしないでいるだけならいい。普通の石なら濡れて終わりだ。けれど俺は普通の石ではない。
俺が水に応えれば、たぶん分かる。
水盤の水が急に澄みすぎる。杯の冷えが変わる。濡れた布の下で、石がほんの少し温度を返す。そういう小さなずれを、この場所の人たちは拾う。
門の検めで通ったのは、反応しなかったからだ。
祈りの間で置かれずに済んだのも、俺がただ重い石でいたからだ。
ここで水にだけ応えたら、「この石は水に反応する」と知られる。
そして水に反応する石は、廃都で何をしてきた石なのかを呼び寄せる。
(アウト。完全にアウト。社外秘の資料を、社内共有フォルダに置くレベルでアウト。しかもファイル名が「廃都の石_最新版」みたいなやつ)
ネアが袋の口を押さえた。
「しない」
短かった。
「そう。濡らしたくないのね」
「うん」
女の係は納得した声で、すぐに引いた。
司祭も何も言わなかった。子どもの持ち物に水をかけないだけのことだ。普通なら、それで終わる。
普通なら。
俺の中では終わっていなかった。
水の気配は近い。ネアの濡れた指が袋の布を押さえている。その冷えに合わせて、俺の力が勝手に向きを探そうとする。
廃都なら、たぶんここで返していた。
井戸の底が重ければ、少しだけ通した。皿の水が濁れば、指先ほどの力を使った。誰かが熱で倒れそうなら、ネアの手の内側から温度を戻した。
ここでは、しない。
俺は水の通り道を探すのをやめた。
冷えは冷えのまま、布のところで止まる。杯の音は杯の音として遠ざかる。水盤の縁に戻る水は、俺の中へ入らず、大神殿の水路へ落ちていった。
『ネア』
「なに」
『いるか』
「いる」
返事はすぐだった。
いつもの確認なのに、今は少し違って聞こえた。
ここには人が多い。祈る声も、案内する声も、水をすくう音もある。なのに、俺が確かめたい相手はネアだけだった。
ネアも、たぶん同じだ。
「もう一口、飲んでおきなさい」
司祭が言った。
「外は人が多い。門を出てから休める場所を探すより、ここで少し整えた方がいい」
「……うん」
ネアはもう一度、水を飲んだ。
今度は少し多い。喉が動き、胸の奥の力が抜ける。袋を抱える腕はまだ固いけれど、歩けないほどではなさそうだ。
「その石は、ずっと持っているのですか」
司祭の声は、検めるものではなかった。
ただ、年寄りが重い荷を持つ子どもへ聞く声だった。
ネアの指が、袋の口をなぞる。
青い糸に触れ、結ばず、そのまま俺のある場所で止まった。
「持つ」
「大事なのですね」
「うん」
ネアはそれだけ言った。
それだけで十分だった。
俺は何か返したくなった。水ではなく、言葉で。けれど声を出せば、司祭の前でネアだけが反応する。独り言だと思われるならまだいい。大神殿の奥で、子どもが袋の石と会話していると思われたら、それはかなりよくない。
(念話なのに、本人の反応でバレる。テレワーク中のチャットで笑って上司に見つかるやつだ。いや、たとえが急に弱いな)
俺は黙った。
ネアも黙っている。
水盤のそばで、しばらく水だけが動いた。
誰かが手を清め、誰かが杯を返し、誰かが小さく礼を言う。ここの水は途切れない。人が来ても、去っても、器へ注がれ続ける。
豊かで、整っていて、足りている。
それなのに、ネアの指先から届く冷えは、最後まで俺の中でほどけなかった。
「行きましょうか」
司祭が言った。
「出口まで送ります。急がなくていい」
ネアは杯を返した。
濡れた指を服の端で拭く。袋の口をもう一度押さえ、青い糸が抜けていないか確かめる。結ぶ場所は、ここにもあった。けれどネアは結ばなかった。
「いく」
足が動いた。
水盤の音が背中側へ回る。ネアの歩く振動だけが、また袋の底に戻ってくる。
俺は水を澄まさなかった。
ネアは、青い糸を残さなかった。
日常に近い水のそばを、俺たちはただ通り過ぎた。
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次回「門の外」もよろしく。王都裏通り帯、あと少しです。
——石より




