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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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祈りの間


「こちらです」


年配の司祭の声に、ネアが小さくうなずいた。


袋の口を押さえる指は、まだ離れない。白い手はもう近くにないのに、ネアの手だけが門の前に残っているみたいだった。


(検査は終わった。終わったはずなんだけどな。会社でも入館証を首から下げたあと、なぜか受付前で一回止まる人がいた。俺もたぶん、そのタイプだった)


いや、今の俺に首はない。


ネアは壁沿いに歩き出した。足音が硬い床から返ってくる。外の石畳より乾いていて、冷たい。地面へ置かれていない俺には床の広さは読めない。ネアの足が一つ進むたび、袋の底へ小さな振動が来るだけだ。


奥へ行くほど、声は低くなった。


話し声ではない。たくさんの人が同じ言葉を、同じ場所へ置いているような響きだった。ネアが顔を上げるたび、布越しに香が濃くなる。甘い蝋の匂いも、人の息の熱も、ネアが受け取った分だけ俺のところへ流れてきた。


「足元に気をつけて。段があります」


「うん」


ネアの膝が少し上がる。袋が胸から離れ、すぐ戻った。俺はその揺れで、低い段差を越えたのだと分かった。


段の先で、音が変わった。


広い。


見えないのに、広いことだけは分かる。声がすぐ近くで生まれて、ずっと遠くでほどけていく。誰かの衣が床をこする音も、膝をつく音も、金属の皿が台に触れる音も、一度上へ逃げてから遅れて戻る。


ネアの手が、袋を抱え直した。


「ここが祈りの間です」


司祭は小声で言った。


「前へ出る人もいますが、初めてなら壁際でかまいません。願いの名を告げたい時は、あちらの係へ。黙って立つだけでもよろしい」


「……うん」


「無理に祈らなくていい。ここは、祈れる人が祈る場所です」


その言い方は押してこなかった。だから余計に、ネアは何も言わなかった。


俺も何も返さない。


返したくなる場所ではあった。


皿の音が近い。声が多い。誰かが泣きそうになりながら名を呼び、別の誰かがその横で淡々と日付を告げている。小さな子どもが飽きて靴を鳴らし、すぐに大人の手で止められる。その全部が、袋の外でゆっくり混ざっていた。


(すごいな、総務部どころじゃない。受付、記録、案内、供え物、泣く場所、黙る場所。祈りの大型施設だ。前世の俺なら絶対に迷子になる)


石でよかった、とは思わない。


ただ、目があったとしても、俺はたぶん落ち着かなかった。


「娘さん、こちらへ」


近くの女の声がした。司祭ではない。膝をついたまま話しているのか、声の位置が低い。


「その袋、重そうだね。祈るあいだ、横へ置いてもいいんだよ。台に乗せなければ怒られない」


ネアの腕が固くなる。


「持つ」


「そうかい。大事なものか」


「石」


「石でも、大事なら大事だ」


女は笑わなかった。からかう声でもなかった。


ネアは答えない。袋の口を押さえたまま、少しだけ体を横へずらした。人の流れから外れ、壁に近い場所で止まる。


壁に背を預けたのだと思う。ネアの肩から力が抜け、袋の揺れが小さくなった。石の壁の冷えが、服と体を通してほんの少し届く。俺が壁に触れているわけではない。ネアがそこにいるから、分かるだけだ。


『ネア』


「いる」


返事はすぐだった。


『無理するなよ。腕、疲れてるだろ』


「平気」


『平気の声じゃないんだよな』


「平気」


二回目の方が、もっと平気ではなかった。


俺は黙った。軽くなることはできる。袋の中から、ほんの少しだけ重さを逃がすように力を使えば、ネアの腕は楽になるかもしれない。


けれどここで急に軽くなった石を、ネアはどう説明する。


祈りの間の壁際で、子どもが抱えた袋だけがふっと軽くなる。誰かが気づく。司祭が来る。門で済んだ検めが、別の名前で戻ってくる。


俺は、ネアの腕に重さを残した。


「名を告げます」


少し離れたところで、男が言った。


「母の名です。字は書けません」


「こちらで聞きます。ゆっくりでかまいません」


「ゆっくりだと、泣く」


「泣いても、名は聞けます」


若い司祭の声が、落ち着いて返した。


男は一度、息を吸った。吸った音だけで、長く持ってきた名なのだと分かった。ネアもその方を向いたらしい。香の流れが少し変わり、袋の口に挟まっていた細いものが、俺の端へ触れた。


青い糸だった。


門の前では休んでいた糸が、ここでまた袋の口に当たる。人の袖か風か、何かに押されて少し動いたのだろう。


ネアの指が、すぐそこへ戻った。


抜かない。結ばない。ただ、挟まっている場所を確かめる。


「糸を結ぶなら、奥の柱ですよ」


さっきの女が教えてくれた。


「名を書けない人は、色で残すこともある。青なら、川の子か、染め場の者かね」


ネアは少し黙った。


糸は細い。結ぼうとすれば、たぶん足りない。誰かの柱に結ばれたら、ここに残る。残れば、袋は少し軽くなる。


「いい」


ネアは言った。


「そうかい」


女はそれ以上、勧めなかった。


青い糸はまた袋の口に挟まった。ネアの指が離れたあとも、そこだけ布の重みが変わっている。


(持ち帰るのか、置いていくのか。決めないまま持っているものって、やたら重いんだよな。前世の机にもあった。いつか読む資料とか、いつか返す借りとか)


いつか。


便利な言葉だ。石になってからは、あまり便利ではない。


「南の古い街へ行った石運びが戻ったそうだ」


人の流れの向こうで、低い声がした。


「崩れ石を拾いに行った連中か」


「ああ。壁が思ったより残っていて、荷にならなかったらしい。古い場所は、もっと脆いものだと思っていたが」


「祈りの間で話すことか、それ」


「だから小声だ」


声はそこで薄くなった。


ネアは動かない。俺も確かめようがない。けれど、崩れたはずの壁がまだ立っているという話だけが、香の下で少しだけ残った。


祈りの声が少し大きくなった。


誰かが合図したのかもしれない。人々の息がそろう。膝が床に触れる音がいくつも重なり、衣擦れが波みたいに広がった。


ネアは膝をつかなかった。


袋を抱えたまま、壁際に立っている。手を合わせることもできない。合わせようとすれば、俺を落とす。俺を置けば、さっきまで守っていたものを床へ渡すことになる。


「お祈り、しないの」


子どもの声が近くで聞こえた。


「しない」


ネアが答える。


「なんで」


「持ってる」


「何を」


「石」


子どもは黙った。たぶん、納得はしていない。


(そりゃそうだ。祈りの間で、祈らない理由が石。説明としてはかなり攻めてる)


けれど、子どもは笑わなかった。


「重い?」


「うん」


「置けばいいのに」


ネアの指が袋の口を押さえる。


「置かない」


今度は、その一語だけだった。


子どもが小さく靴を引いた。大人に呼ばれたのか、足音が離れていく。ネアは追わない。何も言い足さない。


俺は袋の底で、声の重なりを聞いていた。


祠の皿の音は、俺の中へ入ってきた。壁龕の前の子どもの声も、袋の布を抜けて届いた。あの時は狭かった。人の数も少なかった。誰かの手が、誰かの名のすぐそばにあった。


ここには、もっと多くの声がある。


なのに、俺のところまで来るものは薄い。香も、蝋も、膝をつく音も、人の熱も、全部ネアの体を通った分だけだ。祈りそのものは、袋の外で高い天井へ上がっていく。俺はその下で、ただ重い。


少しだけ、力を出せばいい。


皿を鳴らす必要はない。壁を揺らす必要もない。ネアの手の内側に、小さな温度を返すだけで、ここに来た意味を一つ作れる。


俺は、それを考えた。


考えたまま、何もしなかった。


「終わった人は、右の通路からお戻りください」


司祭の声が流れた。


人が動き出す。衣が触れ、皿が下げられ、誰かのすすり泣きが遠ざかる。ネアは壁際に残ったまま、しばらく動かなかった。


『ネア』


「なに」


『出るか』


返事はすぐには来なかった。


ネアの指が、袋の口を一度だけなぞる。青い糸に触れ、結び目を避け、俺のあるあたりで止まった。


「……いる?」


『いる』


「うん」


それで足が動くと思った。


けれど、ネアはまだ壁際にいた。


さっきの年配の司祭が近づいてくる足音がした。急いではいない。床を踏む音が、まっすぐこちらへ向かってくる。


「娘さん」


ネアの手が袋を抱え直す。


「少し、顔色が悪い。外へ出る前に、水を飲んでいきなさい」


水。


その言葉で、ネアの指が止まった。


祈りの間の奥で、どこかの水盤がかすかに鳴った。


☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。

次回「水盤のそば」もよろしく。出る前に、もう少しだけ大神殿です。


——石より

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