白い手
指が、袋の口に触れた。
ネアの手が、その上から押さえる。
布越しに、司祭の指先の冷たさまでは分からない。分かるのは、ネアの胸が固くなったことと、腕の力が急に増えたことだけだ。
「開けてください」
司祭の声は、怒っていなかった。
怒っていないから、余計に断りにくい。会社員時代にもあった。相手が丁寧なほど、こちらが面倒な人間みたいになるやつだ。
(いや、俺は人間じゃない。石だ。面倒な石。最悪だな)
「石です」
ネアが言った。
「石でも、危ないものはあります。刃を隠したもの、薬を染み込ませたもの、呪いを込めたもの。門では、それを確かめます」
「危なくない」
「それを、こちらで確かめる決まりです」
列の後ろで、誰かが靴を鳴らした。
「見せりゃ終わるだろ」
「子どもに難しいこと言うなよ」
どちらの声も、ネアのために言っているようで、結局は列を進めたいだけだった。
ネアは袋を胸に寄せたまま動かない。
『ネア』
「いる」
返事は小さかった。けれど、すぐ返ってきた。
俺はそれ以上、声を送らなかった。
温めることはできる。袋の中で、ほんの少しだけ力を出せばいい。ネアの手の中で、俺が特別な石だと分かる。司祭も手を引くかもしれない。
その次に来るのは、たぶん別の手続きだ。
「珍しい石ですね。奥へ」
「石を調べる者に」
「どこで拾いましたか」
想像だけで、もう嫌だった。守り神の証明を出した瞬間、俺たちは大神殿の持ち物検査から、大神殿の興味に変わる。
だから、しない。
俺はただの石として、袋の底に沈んだ。
「開けません」
ネアが言った。
司祭の息が、近くで止まった。
「預けることも、できませんか」
「預けない」
「中で祈る時、両手を合わせられませんよ」
「合わせない」
(神殿で両手を合わせない宣言。強い。強すぎて、俺が上司なら一回別室に呼ぶ)
司祭は少し黙った。
その沈黙の間に、門の内側から別の音が流れてきた。大勢の足音が硬い床をこする音。香を焚く皿が置かれる音。誰かが咳をして、誰かがそれを小さく叱る声。
ネアが顔を横へ向けたらしい。
布越しに、香が濃くなった。甘い蝋の匂いと、人いきれの熱も混ざる。俺には、ネアが受け取った分だけが届く。大神殿の中がどんな形をしているかは分からない。ただ、音が広い場所へ逃げていくのは分かった。
「どうしてそこまで隠すのです」
司祭が聞いた。
ネアはすぐには答えなかった。
袋の口を押さえる指が、少しずつ強くなる。爪が布に引っかかる。俺は動かない。動けないし、動かない。
「拾った」
ネアは言った。
「拾った石ですか」
「うん」
「祈りに使う石ではない?」
「違う」
「誰かの形見でもない?」
ネアの指が止まった。
形見。
その言葉は、袋の中まで落ちてきた。俺は死んだ会社員で、今は石で、ネアに拾われた。形見と言われると間違っている。間違っているのに、完全には外れていない気もする。
ネアは答えなかった。
司祭は、答えを待った。列の人間は待たなかった。
「おい、後ろが詰まる」
「司祭様、ただの石なら通してやれよ」
「いや、決まりは決まりだ」
声が重なる。
俺は、ネアの胸の奥で鳴る鼓動を聞いていた。速い。けれど逃げる速さではない。立ったまま、押し返すための速さだ。
司祭の手が、袋の結び目に近づいた。
ネアが体を引いた。
「見せない」
その一語で、列がまたざわついた。
司祭の声が少し低くなる。
「娘さん。ここは大神殿です。中へ入るなら、門の決まりには従ってください」
「危なくない」
「それを信じたいから、確かめるのです」
「触った」
司祭は言葉を切った。
ネアは続けた。
「いま、触った。動かない。鳴らない。刃もない」
それは説明というより、見たままの報告だった。
俺は袋の中で、石として何もしていない。布も震わせない。熱も出さない。ありがたい気配もない。今この場で俺にできる最大の協力は、最低限の存在感でいることだった。
(守り神の仕事が、ただの小石の演技になる日が来るとはな。転生もの百冊読んでも、この業務内容は見たことない)
司祭は手を引いた。
完全には納得していない。声の奥に、まだ迷いが残っている。
「袋ごと、私が持って重さを見ます」
「持たないで」
「では、あなたが持ったまま、袋の外から触れます。中に刃がなければ、それでよい」
ネアは袋を下ろさなかった。
胸に押しつけたまま、少しだけ向きを変えた。司祭の手が、袋の底の方へ触れる。布が押され、俺の端に圧がかかった。
ここだ。
ここで光れば、終わる。
ここで温かくなれば、ネアは楽になる。
ここで何かを返せば、俺は「いる」と言える。
俺は何もしなかった。
司祭の指が、袋の上をゆっくり移動した。布のしわがずれる。ネアの腕が震える。袋の口は、ネアの手で押さえられたままだ。
「硬い石ですね」
「石だから」
「それは、そうですが」
司祭が困ったように言った。
列の誰かが、ふっと笑った。すぐに別の人が咳払いをした。
俺も少し笑いそうになった。笑えない石でよかった。ここで袋が笑ったら、全員が帳へ連れていく。
司祭の手が離れた。
「刃物ではないようです。薬の匂いも、袋の外からは分かりません」
「通る」
「待ってください」
ネアの足が止まる。
司祭は声を整えた。
「中では、人にぶつからないよう抱えてください。祈りの台には置かない。水盤にも入れない。誰かに渡さない。それでよければ、進んでかまいません」
「うん」
「それから」
ネアは黙っている。
「何かあれば、近くの司祭に声をかけなさい。石を見せろと言われたら、今の検めは済んだと伝えてよい」
それは許可だった。
追い返されない。預けさせられない。袋を開けさせられない。
大神殿の門で、ただの石がただの石のまま通った。
『ネア』
「なに」
『……通れた』
「うん」
ネアは短く答えた。それだけなのに、袋を押さえる手の力が少し抜けた。
◆
門の内側は、外より静かではなかった。
ただ、声の跳ね返り方が違った。ネアが進むたび、足音が冷たい床から戻ってくる。袋越しに伝わる振動が、広場の石よりも硬い。地面へ置かれていない俺には、床そのものの広がりは読めない。ネアの足が踏む分だけ、大神殿の中が少しずつ届く。
「祈りの間へ進む方は、灯の列に沿ってお進みください」
「病の名を告げる方は、左の書き台へ」
「供え物は、係の者へ渡してください」
案内の声は多い。けれど門の前ほど同じ言葉を押しつけてはこない。人の流れがいくつかに分かれて、それぞれ勝手に迷っていた。
ネアは端を歩いた。
袋を抱える腕が重そうだ。俺は軽くならない。さっき軽くならなかったのに、今だけ軽くなるのも変だ。だいたい、石が気を利かせて軽量化する時点で、ただの石レースから失格である。
「大丈夫か」
『いや、それ俺の台詞』
「大丈夫」
ネアが答えた。
すぐ近くで、老婆の声がした。
「この子の名は、どこで告げればいいんだい」
「書けないなら、こちらでお聞きします。ゆっくりでかまいません」
「ゆっくりだと忘れちまうよ。最近、名前も逃げる」
「では、逃げる前に聞きましょう」
若い司祭の声が、少し笑った。
ネアの足が、その声のそばで遅くなる。老婆が誰の名を告げるのか、俺には分からない。ネアが見たものも、言葉にしない限り流れてこない。ただ、ネアの指が袋を押す力で、そこに人がいるのだけは分かった。
別の方から、男たちの話し声が近づいた。
「南の古い街から、薬草の束が届いたそうだ」
「廃都の方か」
「いや、名前までは知らん。枯れた場所でも、今年は芽が早いとか」
「神殿が調べるのか」
「調べる前に、腹を減らした連中へ回せばいいのにな」
声はすぐ遠ざかった。
ネアは追わない。
廃都の名前は出なかった。水の話でもない。ただ、枯れた場所に芽が早いというだけの噂だ。それでも俺の中で、遠い市場の朝が少しだけ動いた気がした。
もちろん、ここで確かめる方法はない。
俺は大神殿の床に置かれていない。廃都の地脈にも触れていない。ネアの腕の中で、ただの石として運ばれている。
それでいい。
◆
祈りの間の手前で、空気が変わった。
ネアの鼻が小さく動く。香が強い。蝋も多い。人の体温がこもっているのに、床から返る振動は冷たい。熱と冷たさが、袋の外でぶつかっている。
「ここから先は、声を小さく」
年配の司祭が言った。
「初めてかい」
ネアはうなずいたらしい。
「なら、壁沿いに立つといい。前へ出なくても、祈りは届く。疲れたら外へ戻りなさい」
「……うん」
「その袋は、大事なものかい」
ネアの手が、また袋の口を押さえた。
けれど年配の司祭は、触れようとしなかった。
「門で見てもらったなら、それでいい。ここでは落とさないことだけ気をつけなさい」
「落とさない」
「よろしい」
その声は、ネアを子ども扱いしているのに、不思議と急かしていなかった。
ネアは壁際へ進んだ。人の流れから少し外れる。袋の中の揺れが小さくなる。腕の力も、少しだけ落ち着いた。
『ネア』
「いる」
『さっき、よく通したな』
「石だから」
『俺が言うのも何だけど、その理由で全部押し切るの、かなり強いぞ』
「石でしょ」
『はい。石です』
ネアは返事をしなかった。
けれど、袋の上から指が一度だけ押された。強くはない。確認するみたいに、そこにいるかを確かめるだけの触れ方だった。
俺は返事をしない。
光らない。温めない。震えない。
大神殿の中で、俺は何もしないまま、ネアの腕の中にいた。
白い手は、もう袋に触れていない。
それでもネアは、しばらく袋の口を押さえたままだった。
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次回「祈りの間」もよろしく。中へ入ってからの話です。
——石より




