大神殿の門
「行く」
朝、ネアはそれだけ言って、袋の口を結び直した。
青い糸は、結び目の下にまだ挟まっている。細くて、頼りなくて、少し指を引っかければ抜けそうだった。ネアは抜かない。結ばない。昨日と同じ場所に残したまま、袋を胸に寄せた。
『大神殿、だよな』
「うん」
(ついに本店へ向かう感じがある。支店の祠、裏通りの壁龕、そして総本山。祈りにもチェーン展開があるのか、この世界)
もちろん、そんなことを声には出さない。ネアは宿の戸を開けた。朝の王都が、戸の隙間から一気に入ってくる。
俺には匂いを選べない。ネアが顔を横へ向けるたび、布越しに違うものが流れてきた。焼けたパン。濡れた石。馬の汗。古い香の残り。どれも薄く、すぐ別のものに押される。
広い街は、朝から忙しい。
◆
宿の女は帳場の前で桶を拭いていた。
「もう出るのかい」
「出ます」
「大神殿なら、青い札の道を外れないことだよ。途中から白い布を結んだ柱が増える。そこまで行けば、人の流れに乗ればいい」
「白い布」
「巡礼の印さ。見上げれば分かる」
ネアは少しうなずいた。
宿の女は、袋へ目を落としたらしい。ネアの腕が、ほんの少しだけ固くなる。
「今日も持っていくんだね」
「持っていきます」
「大神殿は、持ち込み物を見られることがあるよ。刃物や薬は止められる。石ならまあ、ただの石だろうけど」
ただの石。
その言い方に、俺は少し安心した。ここで「ありがたい守り石ですね」と言われるより、百倍ましだ。
「ただの石です」
ネアが言った。
(いや、そこは否定してくれてもいいんだぞ。状況的には正しいけど、心が少し削れる)
宿の女は笑った。
「そうかい。なら落とさないようにしな。大神殿の前は、人が多い」
「落としません」
ネアは短く返して、外へ出た。
◆
道は、進むほどまっすぐになった。
裏通りでは、洗い桶や荷車を避けて歩いた。角を曲がるたび、店の声が変わった。けれど白い布を結んだ柱が増えるころ、足音の向きが揃い始めた。
みんな、同じ方へ歩いている。
「そっち、空けてくれ。年寄りが通る」
「子どもを前に出すな。列は門の向こうからだ」
「香を買うなら今だよ。中の売り場は高いよ」
声が増える。声の数が増えるのに、誰が誰へ言っているのかは遠くなる。袋の中では、床板も壁もない。地面へ直接触れていない俺には、足音の重なりが布とネアの体を通って届くだけだ。
『ネア、いるか』
「いる」
返事はすぐ来た。
それだけで、少し戻れる。
ネアは人の流れの端を歩いた。押されるたび、袋の角が胸に当たる。俺の重さで腕が沈む。けれどネアは持ち替えない。
前の方で、男が誰かに話していた。
「南の廃都から来た荷、昨日見たか」
「廃都? まだ人が住んでるのか」
「住んでるどころか、水が良くなったって話だ。商人が井戸の場所を聞いていた」
「神殿に報告するのか」
「さあな。水が戻るなら、祈りの筋かもしれんだろ」
ネアの足が、少しだけ遅くなった。
俺は何もしない。
水の話を、ここで鳴らしてはいけない。廃都の井戸も、水路も、朝の市場も、俺の中では近い。けれど、この道の人たちにとっては、並びながら口にする噂のひとつだ。
(宣伝効果はある。あるんだけど、できれば神殿マーケティング部には拾われたくない)
ネアは顔を上げずに歩いた。袋の口の青い糸が、指に触れた。触れただけで、ネアはすぐ指を戻した。
結ばない。
◆
大神殿の門は、近づく前から人を止めていた。
門そのものに触れているわけではない。俺には石の高さも、白さも、彫られた形も直接は分からない。ただ、ネアが見上げるたび首の角度が変わる。袋が胸から少し離れ、また戻る。その動きで、そこに大きなものがあるのだけは分かった。
大きい。
それは、音でも分かった。声が上へ吸われる。足音が門の前で広がり、列の後ろへ戻ってくる。硬い広場の上に人が多すぎて、ひとつひとつの重さが混ざっていた。
なのに、俺には何も届かなかった。
祠の皿の音は届いた。壁龕の前の子どもの声も届いた。宿の食堂では、誰が何を置いたかまで布越しに転がってきた。
ここには、もっとたくさんの声がある。
あるのに、どれも俺たちの内側へ入ってこない。
ネアが鼻を少し動かした。布越しに、香の匂いが濃くなった。蝋の甘さと、人いきれの熱も混ざる。俺には、ネアが受け取った分だけしか分からない。強い匂いなのに、袋の中では薄い膜みたいに広がって、すぐ消えた。
『……すごいな』
「うん」
『人、多いな』
「多い」
『祈りも、多いんだろうな』
ネアは答えなかった。
答えなくてよかった。俺も、その先を言わない。多いなら強いのか。大きいなら届くのか。そんな話をここで始めたら、昨日までの皿も壁も、全部まとめて説明になってしまう。
だから、俺は黙る。
門の前では、列が折れ曲がっていた。
「初めての者は、右の列へ」
白い服の男が声を張った。若い司祭らしい。足音は軽いが、声だけは門の石に当たって戻ってくる。
「供え物を持つ者は、包みを開けて見せてください。香油、硬貨、布、薬草は左。身につけた守り札は外さなくてかまいません」
列の前で、女が包みを開いた。布の擦れる音。硬貨の小さな音。誰かがほっと息を吐く。
「これは?」
「母の髪です。病が長くて」
「布に包んだまま、お持ちください。中で名を告げればよいでしょう」
「名を、ここで言わなくていいのですか」
「ここで言っても、中で言っても、御方は聞かれます」
女は泣きそうな声で礼を言った。
その次の男は、小さな箱を持っていた。
「石です。家の井戸から出ました。水が濁るので、見てもらいたくて」
「割れていませんか」
「ええ。黒い筋があります」
「なら、石見の者へ。祈りの列ではなく、右奥の帳へ」
石見。
俺の中で、少しだけ言葉が引っかかった。鑑定士か、神殿の石係か。名前は何でもいい。石を見てもらう場所が、この門の内側にある。
『ネア』
「なに」
『俺、見てもらわなくていいからな』
「見せない」
即答だった。
(頼もしい。頼もしいんだけど、俺が怪しい石扱いされている状況で即答されると、それはそれで怪しい)
列が少し進んだ。
ネアはまだ並ばない。広場の端で、人の流れを見ている。袋を抱えたまま、どの列へ入るかを決めかねているようだった。
門の向こうには、名前を聞く人がいる。名を告げればよいと言う人がいる。石を見分ける人がいる。
俺が光れば早い。
袋の中で、ほんの少し温かくなるだけでいい。ネアの腕へ、俺はここにいると伝えればいい。そうすればネアは迷わないかもしれない。列の人も、司祭も、石見の者も、この石は普通ではないと分かる。
分かったあと、どうなるかは分からない。
だから、しない。
◆
門の横に、白い紐を結ぶ場所があった。
ネアがそちらを向いたので、布越しに人の手の動きが近くなる。柱から垂れた紐に、細い布や糸がいくつも結ばれているらしい。指が布をこする音がした。誰かが低い声で名を呼び、結び目を固くする。
「糸を結ぶ方はこちらです」
女の司祭が、穏やかな声で案内していた。
「願いの糸は、こちらで清めます。持ち帰る糸は結ばず、そのままお持ちください」
ネアの指が、袋の口へ行った。
青い糸に触れる。
俺は黙っていた。
『結ぶか?』とも言わない。『結ぶな』とも言わない。ここで俺が先に言えば、糸は俺の返事になる。
ネアの指は、青い糸をつままなかった。
触れただけで、離れた。
女の司祭がこちらに気づいた。
「糸をお持ちですか」
ネアは首を横に振った。
「これは、違います」
「そうですか。では、お守りのままに」
司祭はそれ以上聞かなかった。
青い糸は、大神殿の門の前でも、ただ袋の口に挟まっている。
◆
列の後ろへ回るころ、日が高くなっていた。
ネアの腕は疲れている。布越しに、指の力が一度抜けかけて、すぐ戻るのが分かる。俺は軽くならない。重さを減らせば、ここで待つ時間に返事をしたことになる。
「大丈夫か」
俺は聞いた。
「大丈夫」
『本当に?』
「重い」
『大丈夫の中に重いが入ってるの、なかなか強いな』
「いる?」
『いる』
そのやりとりは、列の声にすぐ埋もれた。
前では、司祭が何度も同じ案内をしている。
「包みを開けてください」
「名を告げる方は、中へ進んでから」
「石は右奥の帳へ」
「守り札は首から外さず、そのままで結構です」
同じ言葉が、違う人へ向かって繰り返される。誰かの祈りが、包みを開け、名を控え、石を分け、糸を結ぶ手順に変わっていく。
ネアの番が近づいた。
白い服の若い司祭が、俺たちの前に立つ。
「初めての参拝ですね」
「はい」
「包みはありますか」
「ありません」
司祭の視線が、袋に落ちたのだと思う。ネアの腕が固くなった。
「その中は?」
「石です」
「供え物ですか」
「違います」
「守り石ですか」
「違います」
司祭は少しだけ声をやわらげた。
「では、こちらで預かりましょう。中は人が多い。大切な石なら、祈りの間だけでも預けた方が安全です」
周りの声が、そこで少し薄くなった。
実際には薄くなっていない。列は動いている。ネアが受け取る香は濃い。誰かの包みは開かれ、硬貨は鳴り、次の人が前へ詰めている。
けれど、袋の中だけが急に狭くなった。
少し温かくなるだけで、ネアは「預けません」と言いやすい。
布を震わせたら、司祭は手を引くかもしれない。
何かの証を出した瞬間、この大きな門の前で、俺はやっと守り神らしくなれる。
俺は何もしない。
ネアの指が、袋の口を押さえた。
「預けません」
「中では、手を合わせるために荷を下ろす方が多いですよ」
「下ろしません」
司祭は困ったように息を吐いた。
「では、せめて確認だけ。危ない物ではないか、門の決まりで見ます」
ネアは答えなかった。
列の後ろから、誰かが小さく言った。
「早くしてくれ」
別の声が続く。
「子どもひとりだろう。見せれば済む」
白い袖が近づく。
ネアの腕が、俺を胸へ押しつけた。
『ネア』
「いる」
司祭の手が、袋の口へ伸びた。
俺は、まだ返事をしていない。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
次回「白い手」もよろしく。列の中へ進みます。
——石より




