祠のあと
宿の戸口をくぐるころ、皿の音はようやく背中から離れた。
代わりに、木の床を踏む足音が増えた。椅子を引く音。椀を置く音。祠の前より人が多いのに、袋の中へ届く音は、どれも俺たちの方を向いていなかった。
「帰ったのかい。濡れなかったか」
宿の女が、帳場の奥から声をかけた。
ネアは戸を閉め、袋を胸の前に抱え直した。
「濡れてません」
「そりゃよかった。今日は祠の方まで行ったんだろう。あそこは夕方になると混むからね」
「混んでました」
宿の女は、ネアの袋に目を留めた。
「その石、まだ持ってるんだね」
「持ってます」
「重いだろう」
「重いです」
(石として否定できないのがつらい)
女は笑い、帳場の横に置いた桶を足で寄せた。
「悪く言ったんじゃないよ。祠に置けば、夜の間くらいは見てもらえたのにと思っただけさ。ここの祠は古いけど、路地の者にはよく効くって言われてる」
ネアの腕に力が入った。
布越しに、骨の固さと体温が近くなる。俺はそれを感じるだけだった。
ここで、俺がほんの少し温かくなることはできるかもしれない。袋の底で小さく震えて、俺はここにいる、と伝えることもできるかもしれない。
しない。
「見てもらわなくていいです」
ネアは短く言った。
「そうかい」
女はそれ以上押さず、食堂の方へ顎を向けた。
「湯はあとで持っていくよ。先に食べな。今夜は旅人が多いから、席がなくなる」
◆
食堂はにぎやかだった。
大きな卓に、知らない人たちが肩を寄せて座っている。俺に分かるのは、椅子の足が床を押す重さと、声の高さと、器が卓に当たる振動だけだ。
「明日は北門だな」
「北門? 市の日は東の方が早いぞ」
「荷が多い。混む道は嫌だ」
「俺は朝のうちに家へ戻る。祠に置くもんも置いたしな」
「何を置いた」
「割れた針。女房に言われた。新しい仕事が入るようにって」
別の男が笑った。
「針一本で仕事が来るなら、俺も荷車ごと置いてくる」
「荷車を置いたら仕事にならんだろ」
椀が鳴り、笑い声が広がった。
祠で聞いた皿の音とは違う。ここでは、置いてきたものが話の種になる。誰が何を置いたか。何を願ったか。明日どこへ行くか。家へ戻るか。人はそれを、汁を飲むのと同じくらい自然に口にした。
ネアは空いた端の席に座った。袋は膝の上だ。卓には置かない。
「嬢ちゃん、そこ空いてるか」
旅人の一人が聞いた。
ネアは少し身を引いた。
「空いてます」
「助かる。今日は宿がいっぱいでな。王都は広いくせに、寝る場所だけはいつも狭い」
男は荷を足元に置いた。革袋の金具が床に当たり、俺の内側まで硬い音が来た。
「どこから来た」
「廃都」
男の椀を持つ手が止まった。
「廃都って、南の古い方か」
「はい」
「あそこ、最近水がましになったって聞いたぞ。前は荷を下ろすにも井戸が悪くてな。馬が飲まないって、商人が文句を言ってた」
ネアは答えない。
俺も黙った。
(外まで届いてるのか。水がうまくなりましたキャンペーン、宣伝部なしで広がってる)
冗談にしておかないと、少し重かった。廃都で戻った水の音が、王都の宿の卓で世間話になっている。荷を運ぶ人の口に乗る程度の変化として、ここまで来ていた。
「あそこに帰るのか」
男が聞いた。
ネアは袋を押さえた。
「まだです」
「じゃあ王都の中か。大神殿かい」
ネアは少しだけ目線を落としたらしい。袋の上の布が動いた。
「行きます」
「なら、祠より先に大神殿で祈った方がいい。あそこは人が多い分、願いも強いって言うからな。順番待ちは長いが」
「順番」
「祈るにも列があるんだよ。王都は何でも並ぶ。パンも、水も、門も、祈りもな」
男は悪気なく笑った。
「その石も、持っていくなら神殿で見てもらえ。守り石か何かだろう? 祠に置くのが嫌なら、白い服の司祭に触ってもらえばいい。霊験あらたか、ってやつだ」
ネアの指が、袋の布を握った。
俺は何もしない。
温度を上げない。布を震わせない。男の椀を鳴らさない。守り石らしい顔を見せれば、この場の言葉は簡単に変わる。男は驚き、宿の女は近づき、ネアはたぶんもっと強く俺を抱える。
それは、返事ではなく証明になる。
証明した瞬間、ネアの「持っていく」は、俺の力に寄りかかる。
だから、ただの石でいる。
「見てもらいません」
ネアが言った。
男は首をかしげた。
「壊れてるのか」
「壊れてません」
「じゃあ、何でだ」
「イシルだからです」
男はしばらく黙った。それから、困ったように笑った。
「名前があるのか。そりゃ、置きにくいな」
「置きません」
「分かった分かった。俺が悪かった。祠帰りの子に、また祠の話をするもんじゃないな」
男は自分の椀へ顔を戻した。
その横で、別の女が口を挟んだ。
「でも、名前があるなら余計に祈った方がいいんじゃないかい。名を呼ぶ相手がいるってことだろ」
「呼びます」
「誰を」
ネアは袋を抱えたまま、ほんの少しだけ息を止めた。
「イシル」
「その石を?」
「はい」
女は悪い人ではなかった。声にからかいもない。ただ不思議そうだった。
「石に祈るのかい」
ネアは答えなかった。
俺も答えない。
祈りなら、たぶんみんなで分けられる形の方が扱いやすい。皿に置く。壁の前で手を合わせる。大神殿で列に並ぶ。誰かが見て、ああ祈っていると分かる。
ネアの腕の中にあるものは、誰にも分けられない。
同じ卓に座っていても、そこだけ食堂の外だった。
◆
宿の女が粥の入った椀を運んできた。
「はいよ。熱いから気をつけな」
「ありがとうございます」
「石は食べないだろうけど、あんたは食べな」
(石は食べません。食費に優しい相棒です)
ネアは匙を持った。片手で袋を抱えたままなので、動きが遅い。
宿の女は椀の位置を寄せ、袋を見た。
「隣の椅子に置けばいい。誰も取らないよ」
「いいです」
「そこまで持つなら、落とさないようにしな」
「落としません」
「石の方も少しは軽くなってやればいいのにね」
女は冗談で言った。
俺は軽くならない。
ここで軽くなれば、ネアは自分の腕の重さを疑わずに済む。俺が守っているから持てるのだと、誰かが言える。
言わせない。
ネアは重いものを、重いまま持っている。
◆
食事のあと、ネアは二階の小さな部屋へ戻った。
階段は人の足で鳴った。下ではまだ旅人たちが話している。
「北門は夜明け前だぞ」
「家へ帰ったらまず寝る」
「大神殿の列、明日は短いらしい」
「短いって言っても、昼まではかかる」
声は床板を通って薄くなった。言葉の形だけが残り、誰のものか分からなくなる。
部屋に入ると、ネアは扉を閉めた。袋を寝台の上へ置かず、まず自分が座った。それから、膝の上に俺を戻す。
「重かったか」
俺は、声に出してから少し後悔した。
ネアはすぐ答えた。
「重い」
『だよな』
「でも、いる」
短い返事だった。
俺の中で、食堂の声が少し遠くなる。祠に置くもの。大神殿で祈るもの。家へ帰る人。明日の門へ向かう人。みんな、自分の行き先を誰かに言えた。
ネアの行き先は、まだ卓の上に置けない。
廃都へ帰りたいことも、王都神殿へ行くことも、俺がただの石ではないことも。口に出せば、その場にいる誰かの祈りと混ざってしまう。
『俺は今日、何もしなかった』
「知ってる」
『温かくもならなかったし、返事もしなかった』
「うん」
『あの人たちの前で、守り石っぽいことをした方がよかったかもしれない』
ネアは袋の口に手を置いた。
「しなくていい」
『本当に?』
「言ったら、みんな見る」
『まあ、見るな』
「見たら、持ち方が変わる」
俺は黙った。
ネアは言葉を探すように、袋の布を一度だけ押した。
「わたしが持つ」
それだけだった。
祈りの形としては、ずいぶん不便だ。皿もない。列もない。誰かが覚えてくれるわけでもない。
けれど、ネアは忘れない形で持っている。
俺は守り神の顔をしないまま、膝の上にいた。
◆
夜が深くなっても、宿は完全には静かにならなかった。
壁の向こうで誰かが寝返りを打つ。下の階で桶が鳴る。遠い通りを、遅い荷車が通る。王都は眠っても、どこかの床が動いている。
廃都の夜は、音が少ない分だけ近かった。タロの寝息。リコの小さな咳。水路の低い流れ。誰かが起きれば、街のどこかが少しだけ反応した。
ここでは、人が多すぎて、ひとりの沈黙がすぐ埋もれる。
ネアは寝台に横にならなかった。背を壁に預け、袋を腹の上に置いている。たぶん眠い。けれど、まだ目を閉じていない。
床の隅で、何かがこすれた。
ネアが顔を向ける。小さな重みが戸口の下を通り、また止まった。
「……いる」
ネアが小さく言った。
ぐりだ。たぶん。
(宿代、払ってないだろうな)
戸口の下の重みは、しばらくして消えた。
ネアは追わない。
袋に手を戻す。
『ネア』
「なに」
『明日、大神殿へ行くなら、今日よりもっと言われるかもしれない。祈るなら置けとか、見せろとか、触らせろとか』
「うん」
『俺は、たぶんまた何もしない』
ネアはすぐに答えなかった。
下の階で、誰かが笑った。明日の道の話だろうか。家へ帰る話だろうか。その笑いは、階段を上がる前にほどけた。
「それでいい」
『本当に、いいのか』
「うん」
ネアの手が、袋の上で止まった。
「イシルは、返事しなくていい」
その言い方は、俺をかばう声ではなかった。
ネア自身が、自分の選び方を手放さないための声だった。
俺はようやく、少しだけ分かった気がした。祠に置く祈りは、人に見える。皿に乗る。音がする。誰かと分けられる。
ネアの祈りは、音がしない。
だから、俺が勝手に鳴ってはいけない。
『じゃあ、明日も重いぞ』
「知ってる」
『歩きにくいぞ』
「歩く」
『誰も分かってくれないかもしれない』
ネアは、袋を胸の方へ引き寄せた。
「分けない」
短い言葉だった。
祈りも、重さも、ネアは誰にも渡さなかった。俺を守り神の皿に置くことも、しなかった。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。俺は石だ。答えを光らせることも、温めることも、今夜はしない。
ただ、明日も同じ問いが来る。
大神殿の門の前で、もっと大きな声で。
俺はその時も、返事をしない石でいられるか。
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次回「大神殿の門」もよろしく。大きい祈りの前に行きます。
——石より




