持っていく
「その袋の石、祠に置いていくのか」
声は、壁の向こうではなく、壁の欠けた角の奥から来ていた。
ネアは手を止めたまま、袋を胸に寄せた。
「置きません」
「そうか。なら、悪かったな。ここでは、たまに石を置いていく者がいるんだ」
老人が、壁龕の陰から出てきた。
腰の曲がった男だった。肩に古い布をかけ、片手に小さなほうきを持っている。ほうきの先は、雨で固まった土と、乾いた草の種を抱えていた。
「宿へ帰ります」
ネアは短く言った。
「帰る前に、少しだけ待ちな。袋を奪う気はない。わしはここの皿を洗って、草を替えるだけの爺だ」
『祠の番をしている人みたいだな』
「番というほど偉くないぞ」
老人は、イシルの念話が聞こえたわけではない。ネアの顔を見て、勝手にそう言っただけだった。
「偉い番人なら、もっとましな屋根を付けておる。雨のたびに皿の中が泥だ。ほれ、見てみろ。祈りより先に泥が溜まる」
(祈りにも掃除がいるのか。かなり現実的だ)
老人は白い皿を持ち上げた。硬貨が二枚、乾いた豆が三粒、小石がいくつか転がっていた。草の束は、水を吸って少し黒ずんでいる。
「ここに置いていくものは、だいたい軽い。銅貨一枚。割れた貝。家の前の石。薬草の切れ端。大神殿みたいな金の灯りはないが、そのぶん、捨てても惜しくない物が来る」
「捨てる場所?」
ネアが聞いた。
老人は笑った。
「祠に聞かれたら怒られるな。捨てると言えば捨てる。預けると言えば預ける。言い方で人は少し楽になる」
ネアは皿を見た。
布越しに、硬貨が触れ合う小さな音が伝わってくる。ネアが少し身を寄せたせいだ。雨の匂いも、人の服にしみた路地の湿りも、俺には直接分からない。ただ、ネアの鼻がかすかに動き、袋の布が冷えた。
「みんな、置くの」
「置く者もいる。置けない者もいる。置かずに手を合わせる者もいる。ここは大神殿じゃないからな。何も出さない者を追い返す腕っぷしも、わしにはない」
老人は皿の泥を指で払った。
「ただ、置いていくと、帰りの背中が少し伸びる。銅貨を置いた者は、銅貨より重いものをここへ置いた気になる。小石を置いた者は、小石より硬いものを、ここへ置いた気になる」
「硬いもの」
「腹の中の言葉だ。泣き声だ。腹立ちだ。人には、持ったまま歩くと足を取られるものがある」
『分かる気はする。俺は足がないから、取られようもないけど』
ネアの手が、袋を少し押さえた。
老人はそれを見逃さなかった。
「その石は、重いか」
「重いです」
「なら、置いていけばいい。石なら祠の石と並べておける。ここは貧しいが、夜に蹴られぬよう壁際へ寄せるくらいはできる」
俺は黙った。
皿を鳴らすことはできる。近くの草を少しだけ揺らすことも、たぶんできる。風の通り道に力を流せば、老人のほうきの先くらいは震えるかもしれない。
しない。
「守ってくれる?」
ネアが言った。
「わしがか? 無理だな。腰も悪いし、夜はよく寝る」
老人はあっさり言った。
「でも、祠なら守ると言える。言うだけなら、わしより祠のほうが立派だ。石は石の間に置けば、石として扱われる。袋に入れて歩けば、荷物として扱われる。どちらが楽かは、おまえさんが決めればいい」
「荷物じゃない」
ネアの返事は早かった。
老人は目を細めた。
「そうか。なら、わしはまた悪い言い方をした」
「石です」
「石だな」
「イシルです」
袋の中で、俺は一瞬だけ何も考えられなくなった。
(そこで名前を出すのか。祠の登録台帳でもあるのか)
老人は笑わなかった。白い皿を壁龕に戻し、濡れた草を抜いた。
「イシルか。いい名だ。祠に置いていく名ではなさそうだ」
ネアは答えない。
「いや、名を置いていく者もいるぞ。死んだ子の名。帰らない夫の名。借りを返せない相手の名。ここはそういうものも来る。金の皿には似合わん名が、白い皿には来る」
老人は新しい草を束にして、壁の小さな穴へ差した。
「大神殿では、大きな声で祈る。立派な灯りをつける。白い服の者が、祈る順番まで決める。ここでは、誰が先でも後でもない。来た者が、来た分だけ置いて帰る」
「大神殿、行ったの」
「若いころにな。門の外までだ。中は見ていない。金の祈りは、門の外にいても目に入る。ここの祈りは、雨が降るとすぐ泥に埋もれる」
ネアの指が、袋の口へ移った。青い糸が、結び目の下で細く挟まっている。
老人もそれを見た。
「糸も結んでいく者がいる。願いを忘れないように、壁の穴や草の根に結ぶ。青は珍しいな」
「これは結ばない」
「南の染め場の色か」
ネアは少しだけ黙った。
「もらいました」
「そうか。なら、なおさら結ばなくていい。人からもらったものは、祠が欲しがる前に、持っている者が決めるものだ」
老人は、そう言ってから自分の布を直した。
「わしも昔、妹の櫛をここに置いた。病が長くてな。治らんものを、どうにか誰かに持ってほしかった。置いた日は、帰り道が軽かった」
「治った?」
「治らなかった」
ネアは老人を見た。
老人は白い皿を拭きながら、続けた。
「だから、軽くなった背中が腹立たしかった。自分だけ楽になった気がした。妹は寝たままなのに、わしだけ祠から軽く帰った。何年も、それが嫌だった」
『嫌なことまで話す人だな』
「でもな、軽くならないと運べないものもある。水桶も、薬も、翌日のパンも。人は全部を抱えたままでは歩けん。だから、ここは置く場所でいい」
老人の声は、説教というより、皿に残った泥を落とす音に近かった。
「だが、置かないものもある。置いたら、その人でなくなるものだ。妹の名は置けなかった。櫛は置いたが、名は持って帰った」
ネアの手が、袋の底を支え直した。
俺はまだ黙っていた。
ここで俺が『置いていってもいいぞ』と言えば、ネアは怒るだろうか。怒る気がする。では『置くな』と言えばどうか。それも違う。
俺は、祠の石ではない。
けれど、ネアの持ち物だと言い切るのも、何かが違う。
「その石は、どっちだ」
老人が聞いた。
ネアはすぐには答えなかった。
通りの向こうで、誰かが皿に硬貨を置いた。軽い音だった。音のあと、布の擦れる気配が遠ざかる。置いた人は、何かを少し軽くしたのかもしれない。
「持っていく」
ネアが言った。
「重いぞ」
「重い」
「疲れるぞ」
「疲れる」
「宿まで、まだ道がある」
「帰れる」
老人は、ほうきを壁に立てかけた。
「そうか。なら、持っていきな。ここは置く場所だが、置かないと決める場所でもある」
ネアは小さくうなずいた。
「祈らないのか」
「しません」
「その石に、何か言わなくていいのか」
「言いました」
「何を」
ネアは、袋の口を押さえた。
「持っていく」
老人は少し笑った。
「それは祈りより強い時がある」
ネアは返事をしなかった。けれど、袋を持つ腕の位置を変えなかった。
(いや、石としてはありがたい。でも、もう少し軽い宣言にしてもよくないか。俺、物理的にもそこそこ重いんだぞ)
青い糸は、まだ袋の口に挟まっている。祠の草にも、壁の穴にも結ばれない。白い皿の上にも乗らない。
老人は道を空けた。
「王都は広い。広い場所ほど、置いていけと言う声が増える。荷が重い者を見ると、皆、親切な顔でそう言う。祠の爺も言った。だから、ここを出たら忘れていい」
「忘れない」
「そうか。では、忘れなくていい」
ネアは歩き出した。
祠の前を離れると、通りの音が少し変わった。
祈るために止まっていた足が、また商いの足になる。誰かが桶を抱え直し、誰かが濡れた布を肩にかけ、誰かが子どもの手を引いて、狭い道を抜けていく。置いていったものの分だけ軽くなったのか、そう見せているだけなのかは分からない。けれど背中は、さっきより少しだけ前へ進む形をしていた。
ネアの背中は、変わらなかった。
袋は胸の前にある。腕は下がらない。楽な持ち方を探しているのではなく、落とさない位置をもう知っているような抱え方だった。布の内側で、俺の角がネアの肋骨に当たる。ネアは痛いとも言わない。歩きにくいとも言わない。
王都の道は、廃都の道より広い。人の数も、声の数も、壁に掛かった札の数も多い。けれど、袋の中にいると、広さはすぐ遠さに変わる。誰も俺を知らない。誰もネアの持っているものを知らない。知らないまま、親切な顔で軽くなれと言う。
廃都なら、石を持って歩くネアを見て、タロが何か聞いただろう。リコなら、まず袋の口を結び直す。グラン爺なら、笑ってから別の話をしたかもしれない。ここには、その手がない。
だからネアは、自分の手で持っていた。
それは、祈りの場所で見せるには少し不器用な姿だった。頭を下げるでも、手を合わせるでも、白い皿に何かを置くでもない。ただ、荷を抱えたまま歩く。王都の人が見れば、祈りを知らない子どもに見えたかもしれない。
けれど俺には、その不器用さが一番近かった。
袋の中で、俺はネアの足取りだけを感じる。石畳の継ぎ目。水の浅い溜まり。誰かが置いて軽くなった硬貨の音は、すぐ後ろに残った。
『ネア』
「なに」
『俺、置いていけって言わなかったぞ』
「うん」
『置くな、とも言わなかった』
「知ってる」
『……それでよかったか』
ネアは、少しだけ袋を抱え直した。
「よかった」
その声は小さかった。通りのざわめきに混ざれば、簡単に消えるくらいだった。
けれど袋の中までは届いた。
祠は、背中の後ろで遠くなる。
置いていった人たちの皿の音だけが、しばらく布越しに追いかけてきた。
ネアの腕は、同じ高さで俺を抱えていた。
その重さのまま、俺たちは宿へ向かった。
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次回「祠のあと」もよろしく。置かない石でした。
——石より




